日記

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祖母大練忌

2023年10月27日 | ブログ
祖母大練忌

大練忌は、故人の仏道修練が大いに進むようにと追善供養することが大切となります。

ご遺芳を追悼小誌に拝させて頂きます。合掌











・・

すでに当山ホームページにてご報告のとおり、

当山先代立誡和尚のお庫裏、川口芳樹尼(旧姓・森川三樹子)が、去る令和5年9月10日に寿算100歳(満99歳)にて遷化いたしました。

ここに改めて謹んでご報告申し上げますと共に、生前のご厚誼に心から感謝申し上げます。

先代住職と共に二人三脚にて往生院六萬寺の復興のために大変にご尽力なされました。

この度、10月27日の満中陰忌(大練忌)にあたり、追悼小誌「山雲海月之情」を発行させて頂きました。

生前に自らで寺史に書き記されておりました思い出のシリーズを改めてまとめさせて頂いておりますので、ご拝読賜りまして、芳樹尼をお偲び頂けましたら幸いに存じます。

寺務所にてお配りさせて頂いておりますので、お気軽にお声掛けくださいませ。

ご希望がございましたら郵送させて頂きますので、メール( oujyouin@gmail.com )にて、住所、お名前、冊数をお知らせください。

合掌

満中陰忌にあたって

 芳樹尼は、私が述べるのも誠におかしなことではございますが、希代なほどに「信心深く信念の強いお人」でございました。
 その信心と信念は、いったいどこから来るものであったのか。

 今となっては、祖母が生前に寺史に自らで記された「思い出」シリーズからであれば、多少なりともその一端を窺うことができるのではないかと思い、ここに改めてまとめさせて頂きました。

 また、祖母には、厳しさと共に、どこか憎めないお茶目な一面もございました。思い出「境内の清掃」、「烏との日々を」からは、そんな祖母のお茶目な一面を垣間見ることができるのではないかと存じます。

 とにかく、先代(川口立誡)と共に二人三脚、往生院六萬寺の復興、伽藍整備に精一杯に取り組まれました。

 先代の亡くなられた後は、そのご遺訓をしっかりと守り、残された伽藍整備と共に、日々の行持(おつとめ)に真摯に取り組まれていました。

 歳とともに足腰の弱りは多少あったものの、お歳の割にはかなりお元気で過ごされていました。筆まめなお方で、情のこもったお手紙をよく認められ、人との交流を大切になさっていました。

 今でも山内におりんの鳴る音が「カーン」と響きますと、境内のどこかで祖母がお参されているのではないだろうかとの錯覚を覚えることがあります。

 お経や真言も溌剌にいつも唱えておいででありました。塔婆書きも一文字一文字、心を込めて取り組まれ、晩年は、塔婆書きが生き甲斐の一つですとまでおっしゃられていたのを思い出します。

 とにかく、今でも境内のそこかしこに薫習された祖母の功徳に与ることができており、心から感謝致すところでこざいます。

 この度は、芳樹尼の満中陰忌にあわせまして、この小誌「山雲海月之情」を発行させて頂きました。

 祖母を少しなりともお偲びして頂けることになりましたら、大変に有り難くに存じます。生前、祖母とご厚誼を賜りました皆様方には、誠に心から感謝申し上げます。

合掌

川口芳樹尼遷化のご報告
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91588116.html


鬼の子の末裔が住まう地は1300年前から続く歴史と伝統が根付く修験の聖地だった【前鬼集落 - 限界集落】

2023年10月26日 | ブログ
奈良時代に生駒山にて役行者に折破摧伏された前鬼と後鬼の末裔が、まだ実際に現代でも現存されているというお話。

今でも修験道の宿坊を営まれているという。大変に貴重であり、まさに歴史的な文化遺産として保存することが望まれています。


西本願寺・法霖和上の自害の示すもの・・

2023年10月24日 | ブログ
西本願寺・本願寺派は、法義を何より第一に重んじる宗風であり、それを歴然と示されたのが、法霖和上の自害である。

一説では、法霖和上が、法義違背のあった門主に自害を勧め、門主はそれに応じて自害。そして、その責めを負って、次の門主が決まったことを見届けた後に法霖和上も自害なされたとされているのである。

ただ、その次の弟の門主は幕府により強制的に隠居に追いやられてしまっている・・なんと、歴代からも外されて連なっていないのである・・

前門主の自害のこともあり、かなり精神的に追い込まれていて余程のことがあったのだろう。(そのため前門主の自害はやはり事実ではないかと言われています・・)

その隠居により、連枝の河内顕証寺の法如が十七世となるのであります。

しかし、新しい領解文問題は、なぜ遅々として解決しないのか・・

以前から指摘させて頂いていることですが、裏をもっと考えることが必要であると思っています。

明らかな誤謬、瑕疵があるのに、正していくことができない原因とは・・表のことだけを見ていては容易には分かり得ないこともあるでしょう。


河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)に「伝・親鸞聖人自作坐像」について寄稿

2023年10月23日 | ブログ
40年以上昔から続いている河内ふるさと文化誌である

「若楠」(わかくす)2023年秋季号・通巻84号

に、往生院に伝わる「伝・親鸞聖人自作坐像」についての考察を載せさせて頂いています。

住職は、随分以前より継続して様々なシリーズで寄稿しています。今号は、引き続いての「岩瀧山一帯の探索報告」のシリーズになります。

その他、興味深い郷土文化の考察が毎号たくさん掲載されてあります。

ご興味のある方は、購読会員を随時募集していますので、お気軽にお問い合わせ下さい。毎号1000円、年2回の計2000円になります。

まずは一年間だけでも。申込先も画像にありますので、是非に。

次回は、更に引き続いて、親鸞聖人と往生院との関係性を紐解く鍵となる「玉日姫坐像」についての内容を予定しています。

その次は、同じく往生院に伝わってある「法然聖人三日月の御影」について、更には、後南朝に関して、と計5回ほど続けての掲載を目指しています。


祖母檀弘忌

2023年10月20日 | ブログ
祖母檀弘忌

檀、ダーナは布施のことで、檀弘忌では広く布施行を行い、仏道精進への資助とすることが大切なことになります。

大練忌へと向けて追悼小誌がまもなく出来上がります。皆様にお読みいただきまして、祖母の遺徳をお偲び賜われましたらと存じます。合掌


川口芳樹尼遷化のご報告

当山先代立誡和尚のお庫裏、川口芳樹尼(旧姓・森川三樹子)が、去る令和5年9月10日に寿算100歳(満99歳)にて遷化いたしました。

ここに謹んでご報告申し上げますと共に、生前のご厚誼に心から感謝申し上げます。

先代住職と共に二人三脚にて往生院六萬寺の復興のために大変にご尽力なされました。

この度、10月27日の満中陰忌(大練忌)にあたり、追悼小誌「山雲海月之情」を発行させて頂きました。

生前に自らで寺史に書き記されておりました思い出のシリーズを改めてまとめさせて頂いておりますので、ご拝読賜りまして、芳樹尼をお偲び頂けましたら幸いに存じます。

寺務所にてお配りさせて頂いておりますので、お気軽にお声掛けくださいませ。

ご希望がございましたら郵送させて頂きますので、メール(oujyouinアットマークgmail.com)にて、住所、お名前、冊数をお知らせください。

合掌


満中陰忌にあたって

芳樹尼は、私が述べるのも誠におかしなことではございますが、希代なほどに「信心深く信念の強いお人」でございました。

その信心と信念は、いったいどこから来るものであったのか。

今となっては、祖母が生前に寺史に自らで記された「思い出」シリーズからであれば、多少なりともその一端を窺うことができるのではないかと思い、ここに改めてまとめさせて頂きました。

また、祖母には、厳しさと共に、どこか憎めないお茶目な一面もございました。思い出「境内の清掃」、「烏との日々を」からは、そんな祖母のお茶目な一面を垣間見ることができるのではないかと存じます。

とにかく、先代(川口立誡)と共に二人三脚、往生院六萬寺の復興、伽藍整備に精一杯に取り組まれました。

先代の亡くなられた後は、そのご遺訓をしっかりと守り、残された伽藍整備と共に、日々の行持(おつとめ)に真摯に取り組まれていました。

歳とともに足腰の弱りは多少あったものの、お歳の割にはかなりお元気で過ごされていました。筆まめなお方で、情のこもったお手紙をよく認められ、人との交流を大切になさっていました。

今でも山内におりんの鳴る音が「カーン」と響きますと、境内のどこかで祖母がお参されているのではないだろうかとの錯覚を覚えることがあります。

お経や真言も溌剌にいつも唱えておいででありました。塔婆書きも一文字一文字、心を込めて取り組まれ、晩年は、塔婆書きが生き甲斐の一つですとまでおっしゃられていたのを思い出します。

とにかく、今でも境内のそこかしこに薫習された祖母の功徳に与ることができており、心から感謝致すところでこざいます。

この度は、芳樹尼の満中陰忌にあわせまして、この小誌「山雲海月之情」を発行させて頂きました。

祖母を少しなりともお偲びして頂けることになりましたら、大変に有り難くに存じます。生前、祖母とご厚誼を賜りました皆様方には、誠に心から感謝申し上げます。

合掌


満中陰忌・追悼小誌「山雲海月之情」






川口芳樹尼遷化のご報告

2023年10月16日 | ブログ
川口芳樹尼遷化のご報告

当山先代立誡和尚のお庫裏、川口芳樹尼(旧姓・森川三樹子)が、去る令和5年9月10日に寿算100歳(満99歳)にて遷化いたしました。

ここに謹んでご報告申し上げますと共に、生前のご厚誼に心から感謝申し上げます。

先代住職と共に二人三脚にて往生院六萬寺の復興のために大変にご尽力なされました。

この度、10月27日の満中陰忌(大練忌)にあたり、追悼小誌「山雲海月之情」を発行させて頂きました。

生前に自らで寺史に書き記されておりました思い出のシリーズを改めてまとめさせて頂いておりますので、ご拝読賜りまして、芳樹尼をお偲び頂けましたら幸いに存じます。

寺務所にてお配りさせて頂いておりますので、お気軽にお声掛けくださいませ。

ご希望がございましたら郵送させて頂きますので、メール(oujyouinアットマークgmail.com)にて、住所、お名前、冊数をお知らせください。

合掌


満中陰忌にあたって

芳樹尼は、私が述べるのも誠におかしなことではございますが、希代なほどに「信心深く信念の強いお人」でございました。

その信心と信念は、いったいどこから来るものであったのか。

今となっては、祖母が生前に寺史に自らで記された「思い出」シリーズからであれば、多少なりともその一端を窺うことができるのではないかと思い、ここに改めてまとめさせて頂きました。

また、祖母には、厳しさと共に、どこか憎めないお茶目な一面もございました。思い出「境内の清掃」、「烏との日々を」からは、そんな祖母のお茶目な一面を垣間見ることができるのではないかと存じます。

とにかく、先代(川口立誡)と共に二人三脚、往生院六萬寺の復興、伽藍整備に精一杯に取り組まれました。

先代の亡くなられた後は、そのご遺訓をしっかりと守り、残された伽藍整備と共に、日々の行持(おつとめ)に真摯に取り組まれていました。

歳とともに足腰の弱りは多少あったものの、お歳の割にはかなりお元気で過ごされていました。筆まめなお方で、情のこもったお手紙をよく認められ、人との交流を大切になさっていました。

今でも山内におりんの鳴る音が「カーン」と響きますと、境内のどこかで祖母がお参されているのではないだろうかとの錯覚を覚えることがあります。

お経や真言も溌剌にいつも唱えておいででありました。塔婆書きも一文字一文字、心を込めて取り組まれ、晩年は、塔婆書きが生き甲斐の一つですとまでおっしゃられていたのを思い出します。

とにかく、今でも境内のそこかしこに薫習された祖母の功徳に与ることができており、心から感謝致すところでこざいます。

この度は、芳樹尼の満中陰忌にあわせまして、この小誌「山雲海月之情」を発行させて頂きました。

祖母を少しなりともお偲びして頂けることになりましたら、大変に有り難くに存じます。生前、祖母とご厚誼を賜りました皆様方には、誠に心から感謝申し上げます。

合掌


満中陰忌・追悼小誌「山雲海月之情」






イスラエルのガザ侵攻について

2023年10月15日 | ブログ
中東危機は、大国間のガス抜きの犠牲でもある。

軍産複合体の武器利権、資源管理の原油やガス利権も絡まって。

しかし、ハマースが先制テロ攻撃をしたのは解せない。特に背後のロシアはウクライナ侵攻に苦戦を強いられており、その余裕がないため、ハマースが劣勢となるのは明らかであるからだ。

まあ、反米勢力であるシリア、イラン、北朝鮮などによる支援もあるだろうが、イスラエルとの戦力差をとても埋めれるものではない。

ガザが地上侵攻を受ければ、ガザは壊滅的なダメージを受けて、更にパレスチナには不利な講和条件を提示されて、領土や利権を失い、結局のところ逃げ場のないパレスチナ難民が溢れ、一般市民が更に苦しむことになる。

ハマースは200万市民を盾に戦うつもりであろうが、あまりにも酷い残虐行為である。その盾に躊躇なくミサイルを打ち、銃を打つイスラエルの行為も恐ろしいものである。

ロシアにとってもウクライナでの苦戦から西側へ一矢報いるため、また、ウクライナへの支援をイスラエルへと分散させるためということもあるのだろうが、西側のさらなる怒りを煽っただけである。

侵攻を受ければ、ガザの市民にはどこにも逃げ場がない。海上封鎖もされていては飢え死にするしかない。

難民を受け入れて保護できるようにと動く国がなければ、何万人と多くの犠牲が出る。

日本も難民の受け入れか、せめてガザ市民がヨルダン側のパレスチナ領へと逃げれるように船を貸せるぐらいでないと。それもできないのであれば、国連に和平へ向けて動けることはできるだろう。

これまでのようにウクライナ、イスラエルへと後方支援をするならば、また殺人の共業を日本が国として抱えることになる。
その報いは、必ずいずれ受けることになるだろう。

祖母小練忌

2023年10月13日 | ブログ
祖母小練忌

小練忌は仏道修行、修練が少しずつ進みつつあることを更に助けるための追善供養が大切となります。合掌

奥様の思い出 烏との日々を その九

生駒の山ふところに抱かれた緑の中に当山墓苑がございます。

四季を通じまして、墓所内のご墓前のお花は枯らさず絶やさず、青いヒバをお供え申上げております。(※現在、御墓所ヒバのお供えは諸事情によりございません。)

いろとりどりの美しい花々は、極楽の御浄土に咲く無数の散華を表現致しますとか申します。手向けて行かれたお身内の方、又はご縁者の方々の心が匂う心地が致します。

しかし、数日後には色あせ枯れたままにては、あまりにむなしく、真っ青なヒバをお供え致します。

各ご墓前で風にそよぐ青さを拝見します時、何かしら心安らぐ私なのでございます。お供えは御墓前ではありますが、八百数十基の青いお花は、私自身のよろこびとなり、えもいえぬ心の香りとなりまして、安らぎの感謝とも表わし様のない満ち足りた安堵ともなっております。

平素は、一日に数十本位づつお供えに廻るのでございますが、お盆とかお彼岸の後は、毎朝ほの明りの頃からヒバを切りまして、本日はこちらの一画を、明日はあちらの一列をと「おはようございます」と声をおかけして次々と替えさして頂きます。

二千本近くを、せっせと切っては運び、一ヶ所づつすっきりと鮮やかなみどりが御墓石に映えて替ってまいりますのは、それにたづさわりませんと得られない心の日々でございます。

さあ、今日はこれ迄にとさせて頂いて、明日は又朝早くにまいります、とお墓に申して庫裡へ下りてまいります。

翌朝、ヒバを腕一ぱいに抱いて意気揚々と上って参り、さて続きをと、見廻して、アッと声をあげてがっかり致しますのは、いたずら烏がものの見事に、昨日お供え致したお花を、其のほとんどを抜いてしまってあるのでございます。

もう永い年月を何時もされることではありますが、其の度、其の都度、腹を精一ぱいに立ててみたり、唸なってみたり、見えない烏があたかも飛んでいる様な心地がして、空を見上げては「又こんないたづらをして、どうして何時も何時も悪業をするの」と、恐ってみます。

ある日、物蔭に身をひそめてとっくりと烏のお手並を拝見した事がございます。それは又鮮やかな仕草さで、敵乍らほとほと見とれたものでございました。

先づ着地をして、次にお花立ての横にとまり、お花をくわえてポイと前へ捨てます。お水供えに移って、次のお花をくわえて同様に捨てます。其の時、体が割に大きいものですから、お線香たてとか、お水やお茶をお供えのお湯呑をひっくりかえしてしまいます。

次のお墓に移ります其の動作の早いことと、又一軒もとばさずに丹念にぬいてまいります。飽きもせずによくもまあ、ぬきもぬいたものと思います頃、堪能をしたのか、やっと上へおもむろにという感じで飛び上ります。

そして、其の真上を一廻転してゆうゆうと向うの森にある巣へ帰えります。あたかも我乍らよくやったと、今日の成果をたしかめでも致す様なゆったりとした其の一廻転には、腹立ちよりも呆然とした感心をさせられるものがございました。

さて、しかし乍ら何はともあれ、何とも口惜しい思いにてトボトボとぬかれたお花を拾い集め、又新しいヒバをお供えして廻るのですが、勢込んで来た今日の予定が全く出来なくなって、こんな悪戯をしてと愚痴っている上で、カアカアと御叮寧にも笑うのでございます。

禁猟地区で無かったならば銃の許可を持っている人に頼んで打ち落してもらうのに、墓地内丈に、石一つを投げる事も叶わず、せめてせめて届かぬ迄も何かで何時かは一矢を報いたいものと、地団駄をふむ苦汁をいつもいつも味わわされております。

三人寄れば文珠の智恵とか、文珠様がそんな事にとそっぽをお向きなさるとは思いつつも、おとり箱を造ってもらって仕掛た事も幾度かございました。中の餌は何時も見事に何一つ残らずありませんのに、烏の羽一つも掛った事はございません。

又パチシュと申しまして、片手で柄を持ちゴムの処に石を挟んで引張る ものも買って来てもらって手許に置いても見ました。

でもこれは墓地内では絶対に使用を致してはなりません。万一落ちた石が如何に小石であっても御墓石に当ったりしましては、それこそ烏退治どころではございませんので、心の一時的な気休め程度に求めたのみに過ぎません。

何とかして、此の数十年間のいら立ちを、一度はしてやったりと思わずにはと、いらだって見たり、いやいや何事も辛抱だと、半ばの諦めと共に胸をさすって慰めてみたりの繰返しで今日迄まいりました。

気に入ったお供物を食べ散らし、お花をぬき、お線香立てを落し、お湯呑を落して割り、其の後片づけをしている上で、何とも変な声を出してまるで嘲笑うのでございます。

堪忍をするにも限度があるぞと、烏に大人気ないとは知りつつも、わめいても見ました。たまたま後片づけをしている其の場にお詣りに来合せたお方が仰言いました。

「子供の遊び場や犬の散歩場になっている墓所をよく見掛けますが、烏が来てお供物のおさがりを食べてくれて、徒々にお花をぬく等とは、流石は山寺の御墓所で、私らはこういう処におまつりが出来てとっても喜んでおります。ほんまに優雅なことでおますな」と。

さてさてこれが優雅と申せますかな、と心では思いましたが、左様おとり頂けばいく心も軽く片づける事が出来ますと、口は重宝なと、ちくりと痛む良心とは別な応答も致したことがございました。

権兵衛が種まきゃ、烏がほじくる、これは昔から唄われたものでございますが、お花供え行けや、烏がぬいて廻る、そんな替え歌も口をついて出て、何とも出来ない日々のもどかしさに、烏の巣の辺りの方をにらみつけ乍ら、烏の言葉が私に解せるならば、如何に烏とは云い乍らも、行なってよい事とならない事を惇々と説き、後生を願い、来世こそ人の世に生れて来る様にとよくよく云って聞かせるものを、一寸の虫にも五分の魂と申します。悪賢い烏とて悟れぬ事も無いであろうに、悲しいことに言葉が通じない等と考え乍らかなりの時間を其の場に、じっと立ちつくしておりました。

其の時に一羽の烏がいとものんびりと巣から飛びたち、御墓所の上をゆっくりと廻り始めました。高く高くゆるく飛び、又はかなり下迄おりて来てお塔婆の上にふあっと止まりました。

其の自然な動作を目で追う内に、烏に言葉が通じたらお説教をする等と考えてはいるけれど、さて烏の方から見た私達はどうなんだろうか、烏達の世界以上に汚れ、醜い人間達では無いのだろうか、あわれな人間共よ、善因善果、悪因悪果に思いを至し、日々の生活を改めて、其の後生をこそ願うべしと見下して飛んでいるのでは無いだろうか。

お供えものをついばむのは山の木の実以外の美味しいものを、ほんの少し頂くだけで、人間共のむさぼる様な尽きせぬ欲望にくらべれば、ほんのささいな事なのかも知れません。

では、お花を抜いて廻ることは?、私共は只々に憎しみの目で見て、悪賢いのいたずら烏のと目角を立てて、きめつけて先づ頭から善と悪とに色わけして、其の後者を烏の代名詞として見過ぎていたのでは無かったでしょうか。

人間共の世界にも、此れが必ず悪いこととは思はずして行なう場合が、随分と多いと思います。或る物事の結末が悪と成った時、人々は其の源が善であり、又終着が悪となると思はずに行ったときでも、其の行為に対してさかのぼって思いみる心のゆとり、或は其の善性を先づ信じて上げる事が出来るでしょうか。

多数の人が必ずしもそうではないと思います。面白いのでお花をぬくのでしょうか、烏には烏のストレスの様なものがあって、それを解消する一つの方法なのでしょうか、好むと好まざるに拘わらず、善とか悪いとかの区別、又其の判断も出来ないままでも、せざるを得ない性なのでは無いでしょうか、もう一度お供えしなさいと、人間に積徳をすすめるべく烏としては精一ぱいのこれは善なのかも知れません。

話す事が出来たなら、あなたから見た人間共への批判をとっくりと聞かせて貰うべきかも知れませんし、いろいろと語り合いたいものですねと、烏の姿が大空へ高く小さくなるのを目で追い乍ら話しかけて見る私でございました。

賽の河原に積む童達の悲しい石の塔にも似て、眥をつり上げて烏を睨む心の鬼が、憎しみをこめて塔を押くずし、能化の地蔵尊の様に大きい慈悲の心で、其の所業を許し、此の心の葛藤のくり返えす処に、凡夫の日々をじっと見つめる私でございます。

新しい領解文問題・現場の不毛な消耗戦

2023年10月11日 | ブログ
総局は、色々と重大な瑕疵がありながらにも、単に門主の意向、門主の意向ということで安直に進めていることが明らかであり(しかし、主催者側も誰も本気で推進する気がないという・・)、ならば、退くのも門主の意向ですぐにでもできるということなのでもあろう。

まだ門主にその気がないということであるのだろうが、この現場の実態を何も知らされていないのであろうか・・

まあ、既に退かせるならば、退任もするという決意で腹をくくっているのかもしれないが・・

現場は不毛な消耗戦を強いられているという・・なんとも・・


祖母阿経忌

2023年10月06日 | ブログ
祖母阿経忌

阿経は、阿弥陀経のことである。極楽往生への旅路の無事を祈る供養となる。

祖母はお寺のお庫裏となるべくしてなったようなお方であった。合掌

奥様の思い出 托鉢修行と寒行のことども その四

真言宗の尼僧として、大阪餌差町の六大院様の徒弟でございました母妙澄尼と共に、托鉢行と寒修行、土用行には幼い頃からよく出さして頂きました私は、当山に御縁有ってまいりましてからも、一人で石切から生駒又遠くは西大寺奈良方面へも寒行に夕方から提灯に灯をともして参りました。

物乞いに行くのでは無い、人が物を布施する尊い心を、そしてその方達に菩提心をおこして頂く事を、一握りのお米にも真心をかみしめて頂く事と、母によくいわれました。

けれどもとても面映ゆい事はかなりにございました。礼儀正しく鄭重に捧げて下さるお方もありましたが、それはもういろいろな、お方がございました。お年寄りと共にヨチヨチ歩きの子達がお辞儀をして紅葉の様な手で差出されますと涙があふれました。

お布施が有りましょうとなかろうとも、途中でお経を止めたり姿勢や態度をくずす様な事は一度も致しませんでした。

行中に帰り度いと思った事も何度かございました。夕御飯を食べさせて、おこたに入れて参りました子供達のことが頭に浮びました。でもお寺を出ます時に、心に定めた時間迄は必ず実行を致しました。

降り出した雪がみぞれに変って全身ビッショリになった事もございました。手が凍えて提灯の中にゆれるろう燭の、ほのかなぬくもりにかざして暖をとりました。足が冷たさに感覚を失って、手で指先をなでさすりしました。手製の白木綿の足袋一枚でございました。

今あの頃を振返って考えますと、例え様もない程の大きい本当に心のみのり豊かな人生の御修行をさせて頂きましたと、左様に思って感謝を致しております。

小寒から大寒に入って節分迄は、余程のことが無い限りは出さして頂いたと存じます。

近在二里四方位は歩いて帰りましたが、北風の吹きすさぶ中を足取りも軽く夜道は、ゴロゴロ石で(只今の様に道は美しく舗装されていませんでした)何度もつまづきましたが、心はとても明るかったのでございます。

大きい声で御経を唱え、多くの方の善心の御布施を頭陀袋に頂いて歩く山道は苦になりませんでした。日々の生活は貧しゅうございましたが、心は充実致しておりました。

村人の中には食べて行けないからだとか、住職にお葬式を頼みに行ってもたってくれないから収入がないのだとか、いろいろと申されるお方も多くございました。

檀家さんも無く、学校勤務のおすすめも断りの時に、六大院様がお寺の方へ手伝いに是非と住職へ話が有り、活路を見出した様に有頂天の私に、御辞退を致したと告げられて、どんなにか落胆を致した事か知れませんでした。

そんな時代の托鉢行や寒行が、想像も出来ない程に明るかったのは自分乍らに不思議な思いが致します。

申上げますも勿体ない事ながら、仏祖お釈迦様がお悟りをひらかれます迄の御苦行の数々の其の内に、持鉢を持たれての托鉢に、その日の召し上り物のご喜捨も無い事すらしばしばおありとか、あらゆる御苦労の数々御事どもや、私ごと乍ら妙澄尼が八十六歳にて遷化致します迄、終生御信仰申上ました弘法大師様が、御修行大師の御姿で諸国を行脚をなされた事等が、幼ない頃から何時も心にございました故でしょうか。

頭陀袋一ぱいのお米は、お金とわけまして、もろぶたに入れ御本堂にお供えをさせて頂きましたが、御仏飯の中から選び残しのお金がよく出てまいりました事も、なんとも懐しい想い出となりました。

行の途中の折々に案じおりました幼な子達は、豆炭を埋んだこたつの中でスヤスヤと枕元に絵本を散らばせて寝ておりました。

其の時、七才の長男哲秀が私の出かけました後で、幼ない弟妹の面倒をあれこれと実によくみてくれましたが、それから十数年を経ましての後に、前述の正眼寺様におきましての、御修行中の托鉢行にては、又それなりの心の行をさせて頂いたのでございます。

岐阜の町で托鉢の時に学会のある方が、御喜捨をなさるかの様に前へこられて、ニヤッと笑ってその会の新聞を持鉢の上へのせられたと聞きました。

「それでどうしたの」と問い返えしますと、「黙っておし頂きました」と申しました。その時私はずい分と心ない事を、一言お断りを言えば済みますものをと、心せまくも腹を立てましたが、それにて何かを学び得ましたのは哲秀和尚で有り、どんなにか有意義な托鉢の一日で有りました事を、親としては反省を致して、喜ばねばならないと存じました。

現住職、哲秀和尚、妙澄尼、そして私と、人さまの家の表に立つ托鉢の修行から、それぞれが学ばせて頂き得ました。

数十年前をふり返えり、みぞれにぬれ手や足はたとえ様なくこごえても、あの時に心迄はこごえなかった寒修行のおかげで、今日此の御復興にお出合い致す機に恵まれました身を、本当に有りがたく存じております次第でございます。