そうか、、分かった。後醍醐天皇以降の南朝、後南朝を支えた一族の一つに八咫烏陰陽の賀茂氏があったということか、、
大和賀茂氏、山城賀茂氏、備前賀茂氏。
備前、美作の植月朝廷においても賀茂氏がその庇護にあたっていたと言えるのである。
この宝篋印塔の石柱の彫りが八咫烏であるならば、まさに南朝皇子の証と言えるのである。もしそうならいわれは正解なのである。やはり、伝承、口伝も何も由来がないわけではないのである。
・・
尹良(ゆきよし)親王のお墓とされる宝篋印塔を探されたようだが、至れずに戻られたようである。
尹良親王の子・良王君は、津島大橋家、川口家へと繋がるかもしれないわけではあるが、この宝篋印塔、現物の写真を見て少し違和感を感じた。
鎌倉後期~南北朝期のものであることは明らかであろうが、基礎の石が石柱となっているのだ。その下に石盤となっている。
https://yamap.com/activities/19193775/article#image-259872178
もう一つは、塔身正面には石がはめ込まれたかのように見えなくもない。もしかすると、経筒か舎利容器かが収められてあるのかもしれない。傘を外せば、何か由来の分かるものが出てくるのでは、、しかし、傘は明らかに割れていることから、過去に落ちたことがあるのは歴然としており、その際に塔身の中の様子も見られて、あったものがあれば既に持ち出されしまっている可能性が高いだろう・・
あとは、石盤の下を発掘すれば分かることもあるかもしれないが、基礎石が土台でないこのタイプの下に遺骨を収めるとは少し考えにくい。
石柱には何かが彫られてあるが、画像からはよくはわからない。
三本の足?ならば、八咫烏(やたがらす)の可能性も考えられるが・・
後醍醐天皇を京都から吉野に逃した際に皇家隠密組織「八咫烏」が関与していたという説もある。(真言宗の後醍醐帝護持僧・文観による手引説が最も有力だが)
もしも、八咫烏が彫られてあるならば、後醍醐帝に仕えた皇家隠密組織「八咫烏」が、本当に後醍醐帝の子孫のために建立したお墓である可能性も否定できない。
大和賀茂氏、山城賀茂氏、備前賀茂氏。
備前、美作の植月朝廷においても賀茂氏がその庇護にあたっていたと言えるのである。
この宝篋印塔の石柱の彫りが八咫烏であるならば、まさに南朝皇子の証と言えるのである。もしそうならいわれは正解なのである。やはり、伝承、口伝も何も由来がないわけではないのである。
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尹良(ゆきよし)親王のお墓とされる宝篋印塔を探されたようだが、至れずに戻られたようである。
尹良親王の子・良王君は、津島大橋家、川口家へと繋がるかもしれないわけではあるが、この宝篋印塔、現物の写真を見て少し違和感を感じた。
鎌倉後期~南北朝期のものであることは明らかであろうが、基礎の石が石柱となっているのだ。その下に石盤となっている。
https://yamap.com/activities/19193775/article#image-259872178
もう一つは、塔身正面には石がはめ込まれたかのように見えなくもない。もしかすると、経筒か舎利容器かが収められてあるのかもしれない。傘を外せば、何か由来の分かるものが出てくるのでは、、しかし、傘は明らかに割れていることから、過去に落ちたことがあるのは歴然としており、その際に塔身の中の様子も見られて、あったものがあれば既に持ち出されしまっている可能性が高いだろう・・
あとは、石盤の下を発掘すれば分かることもあるかもしれないが、基礎石が土台でないこのタイプの下に遺骨を収めるとは少し考えにくい。
石柱には何かが彫られてあるが、画像からはよくはわからない。
三本の足?ならば、八咫烏(やたがらす)の可能性も考えられるが・・
後醍醐天皇を京都から吉野に逃した際に皇家隠密組織「八咫烏」が関与していたという説もある。(真言宗の後醍醐帝護持僧・文観による手引説が最も有力だが)
もしも、八咫烏が彫られてあるならば、後醍醐帝に仕えた皇家隠密組織「八咫烏」が、本当に後醍醐帝の子孫のために建立したお墓である可能性も否定できない。