「見仏と授記」
問い「極楽浄土に生まれ変わりたい」
https://hasunoha.jp/questions/53394
上記拙回答内にて、
「・・なぜ浄土、あるいは天へと赴く過程を経なければならないのかは、見仏と授記という悟り・涅槃へ向けた条件を調えるためとなります。この娑婆世界は、現在、如来が不在であるため、それを補う必要性があるということになります。そのため顕教でも密教でも見仏と授記のために、浄土・天への往生(密教の場合は灌頂)が必須になるところであります。・・」
と述べてありますが、葬儀の際における「見仏と授記」を示す具体的な文言はありますかという質問
臨済宗(引導先は極楽浄土)では、明らかに記されています。
戒名授与の中で見仏
「・・法号を授与す。伏して願わくば今より以後、仏を称して師となし、深く禅定に入って十方の仏に見えんことを。」
龕前念誦回向で授記
「・・伏して願わくば、神、浄域を超え、業、塵労を謝し、蓮は上品の華を開き、仏は一生の記を授けられんことを。再び大衆を労して念ず・・」
ちなみに、曹洞宗では、龕前念誦回向にて臨済宗とほぼ同じようにして授記の文言があるものの、見仏についての文言は見当たりませんが、授記が言及されてある以上は当然に見仏していることが前提になるため、あえて省いてあるのかもしれないですね。
通夜・葬儀について(往生院六萬寺)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85018907.html
臨済宗や曹洞宗の引導先の考察につきましては、下記拙論をご参照下さいませ。
浄土での姿について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8
「施餓鬼」から始まった一連の考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d
問い「極楽浄土に生まれ変わりたい」
https://hasunoha.jp/questions/53394
上記拙回答内にて、
「・・なぜ浄土、あるいは天へと赴く過程を経なければならないのかは、見仏と授記という悟り・涅槃へ向けた条件を調えるためとなります。この娑婆世界は、現在、如来が不在であるため、それを補う必要性があるということになります。そのため顕教でも密教でも見仏と授記のために、浄土・天への往生(密教の場合は灌頂)が必須になるところであります。・・」
と述べてありますが、葬儀の際における「見仏と授記」を示す具体的な文言はありますかという質問
臨済宗(引導先は極楽浄土)では、明らかに記されています。
戒名授与の中で見仏
「・・法号を授与す。伏して願わくば今より以後、仏を称して師となし、深く禅定に入って十方の仏に見えんことを。」
龕前念誦回向で授記
「・・伏して願わくば、神、浄域を超え、業、塵労を謝し、蓮は上品の華を開き、仏は一生の記を授けられんことを。再び大衆を労して念ず・・」
ちなみに、曹洞宗では、龕前念誦回向にて臨済宗とほぼ同じようにして授記の文言があるものの、見仏についての文言は見当たりませんが、授記が言及されてある以上は当然に見仏していることが前提になるため、あえて省いてあるのかもしれないですね。
通夜・葬儀について(往生院六萬寺)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85018907.html
臨済宗や曹洞宗の引導先の考察につきましては、下記拙論をご参照下さいませ。
浄土での姿について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8
「施餓鬼」から始まった一連の考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d