日記

日記

「慶安事件」・「承応事件」・「明暦の大火」と美作後南朝について

2024年01月28日 | ブログ
由比正雪の乱後の残党による反乱蜂起が、「明暦の大火」であると述べたわけですが、もともとの未遂に終わった由比正雪の乱である「慶安事件」は、ただ浪人たちの不満による蜂起の未遂と、日本史で習うのが、まあ、普通なわけである。

「明暦の大火」の歴史の謎について・由井正雪の残党たちによる反乱蜂起説
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/b09e1540fe4492e3fa8e23fb92eda29f

しかし、由比正雪が橘姓を名乗り、楠木正辰創始の南木流軍学者で、南朝正統主張論者であったことまで習うことは、まずありません。

そのため、背景を考えずに、ただ江戸に地方から集まった浪人の不平不満に応えて決起しただけと認識されてしまうのであります。

しかし、実はそうではなく、美作後南朝の高仁天皇を天皇とすべくの動きであり、30万もの兵を率いて上洛した家光により、高仁天皇が強制廃位、女帝の明正天皇(徳川秀忠の娘・和子の子)が即位することになりますが、高仁天皇の父、尊純親王は美作には戻らず、京都に留まって、1643年、青蓮院の法主となって、更に天台座主に就いていました。

実は、由比正雪が計画したのは、この尊純親王と通じて、高仁天皇を再度天皇に推したてるためのものであったと考えられるのであります。

そのため、家光死後をみて、すぐに決起するのですが、この由比正雪による「慶安事件」は、仲間に幕府へ通報されたことにより失敗、正雪は駿府にて自害するのであります。

しかし、同様の計画であった戸次庄右衛門による「承応事件」が、翌年に起きることになります。これも事前に発覚して失敗となります。不思議であるのが、「慶安事件」が前年にありながら、その関連について全く歴史において触れられていないことであります。

この二件の事件は、我が子、高仁天皇のために尊純親王が計画したものであったと考えられ、その背景には、松平忠輝、徳川頼宣ら、南朝支援者の影もちらついていたわけであります。特に幕府から首謀者と疑われた徳川頼宣は十年間にもわたり江戸城で蟄居となります。松平忠輝は長らく配流状態に留まったまま、綱吉の代まで生きることになります。

由比正雪は、初代紀州藩主・徳川頼宣と共に、楠木正行の遺児と一説にある池田教正(若江三人衆・やがて信長に従い京都御馬揃えにも参加)の子孫となる備前藩(岡山)の池田光政とも親交が深く、もちろん、その隣りにあった美作の津山藩・森家、そして、後南朝植月御所とも繋がっていたわけであります。

その後、尊純親王は、1653年に再び天台座主になるも、同年亡くなります。

しかし、この計画はまだ生きており、それが1657年の「明暦の大火」に繋がると考えられるのであります。

もちろん、計画の裏の首謀者であった尊純親王はもはやおらず、ただ、江戸を焼き尽くすだけのことで終わってしまったと考えられるのであります。

老中・阿部忠秋の屋敷からの出火を本妙寺からと偽装することになったのは、実は阿部家が南朝方で、わざとこの出火を行ったとも考えられるわけであります。

実際に、阿部忠秋は、江戸に多くあった、特に家光による改易によって溢れてあった南朝方浪人に対して、寛大なる理解を示しており、追放せずに仕事を別に与えるなどの対策の中心となっているのであります。

何よりも承応事件に関与した戸次庄右衛門の軍学の師、山本勘助の孫の山本兵部は、阿部忠秋の家臣であり、この事件と共に自害しています。

同じく計画に加わっていた石橋源右衛門も自害していますが、山本兵部と同じく南木流軍学者であったと考えられており、もちろん南朝方であったと言えるのであります。

阿部忠秋は、出火の偽装先の本妙寺に対して対価といえるものを毎年贈り、それが、なんと明治時代まで続くことになるのであります。

このことからも、「明暦の大火」を主導したのは、やはり阿部家であったのではないかと疑わしいことになるわけであります。

この二つの事件と、特に「明暦の大火」を受けて、その後に将軍となる徳川綱吉は、後南朝勢力の恐ろしさを知ったことから、後南朝断滅策を強行的に進めるようになったのだと考えられるのであります。


最新の画像もっと見る