日記

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当ブログについて

2024年08月26日 | ブログ
当ブログについて 当ブログは、公開、非公開を管理人の意思において定期的に行っております。

公開、非公開はカテゴリー別において管理しています。 そのため、公開も一部のみの限定公開となることが多いです。

あしからずご了承下さいませ。現在、ご質問等の個別の対応は控えさせて頂いております。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。  管理人 拝

第23回 仏教ミニ法話「宿善論再考」 浄土真宗 善知識 信心獲得 信心決定 功徳 善根 慈悲行

2024年08月26日 | ブログ
第23回 仏教ミニ法話「宿善論再考」 浄土真宗 善知識 信心獲得 信心決定 功徳 善根 慈悲行 2024年8月25日
https://youtu.be/RVOffHY9BUA?feature=shared

命の大切さを説くための空や縁起ではない

2024年08月26日 | ブログ
41分45秒ぐらいのところからは、日本における仏教の一部変質に関して、非常に大事なことを述べていらっしゃいます。

本来、解脱、悟りを目指すべき仏教が、現実の幸せや命の大事さ、大切さの再認識を求めるようなものへと成り下がってしまっていったありようについて、となります。

もちろん言うまでもなく命は大事なのではありますが、輪廻(迷い苦しみ)の解決からは遠ざかるような生きることへの重視(ある意味での生への執着を助長するようなもの)に主眼を置くようなことも説き始め出したのではないかというご指摘であります。

生死は一大事のことですが、問題は、輪廻、迷い苦しみの連鎖から抜け出すためにどう生きるか、実践するか、であります。

仏教は、命の大切さ云々を説くための教えではないということであります。

簡単には、命の大切さを説くための空や縁起でもないということです。

方便→世俗諦、ではなく、方便→勝義諦とならなくてはいけないのであります。

これも単純なベクトルの誤りであると言えるわけですが、聖を俗に依らせていこうとすることによる弊害がもたらした問題と言えるのであります。


宿善論は、前世までのものであるのか、善知識に遇うまでのものであるのか、獲信までのものであるのか

2024年08月25日 | ブログ
なべさんは、桜嵐坊さんからの反論より、新しい領解文、本願寺派総合研究所のXの法話についての批判へとかわした感じか、、

宿善論は、前世までのものであるのか、善知識に遇うまでのものであるのか、獲信までのものであるのか、、善知識に遇うまでの今世も含めてのあり方を考えるのが妥当であると思われるが、考察中である。

しかし、Xの法話の内容は、あまりにもお粗末すぎる、、勧学寮のチェックも入れてはいないのだろう。


聖が俗へと転落するのは戦時教学と同じ過ち

2024年08月25日 | ブログ
世俗の顔色を伺って、教義を変えてしまった結果が、新しい領解文のテイタラクとなってしまったのでもあるのだろう、、聖が俗へと転落するのは戦時教学と同じ過ちであり、何も反省がなされていない証左でもある。


宿善についての考察

2024年08月24日 | ブログ
宿善の定義を前世までのものとするならば、純粋に最初から浄土往生を願い、浄土門に入る者は少ない中、色々と他の教えも聴きながらに、どんなものか程度に何となくに聴きに来たような者では、宿善が少なければ、他へ行ってしまうだけになるし、宿善が少ない者は最初から往生は諦めよと言ってしまっているようにも思ってしまうのである。

また、宿善のある者は残るが、ない者は、もうどうしょうもない、往生できないし、信心も獲れないから無駄だと捉えられかねない面も、、

浄土門に入った者は宿善のある者、入らない者は宿善のない者とかというラベル付けもされかねない、、

少し話が逸れるが、他宗派より優れた、選ばれてあるとする優等生意識が高くあるのはもしかしたらこういったことも関係があるのかもしれない、、他宗派を見下している感じである。

更には、既に今生ではどうすることもできないものとしたら、宿善がない者、足りない者は、もう絶対に本願は頂けない、救われない、諦めないといけないと決まっていることにもなりかねない。要は、宿善差別の救いになってしまうのである。

もちろん、過去世で宿善が足りない者でも、それでも往生したい、彌陀本願を得たいと願う者はあるはずであり、当然に足りない宿善に努めながら聴聞するあり方は否定されないと思うのである。確かなる善知識に遇うまでは、やはりありとするのが妥当ではないだろうかと考えるのである。

更には、まともな善知識が今世不在、あるいはごく僅かにいても遇えないこともあり得るため、それが宿善の差によるとしたら、もうどうしょうもない、生まれた時からそれも決まっているということにもなりかねないのである。

拙生は、浄土の教えにも有り難くに出逢ってはいるが、本願を頂けるかどうかは、宿善で決まっているとしたら、もう今さら何をしても善知識にも遇えず、信心も獲れないと決まってしまっているというわけなのである。生まれた時点で決まっているならば、もう望んでも残念無念なりとなってしまうのである。

もちろん勘違いや間違いもあるでしょうが、、

親鸞会を擁護する気など全くありませんが、また色々と考えたいところであります。


第22回 仏教ミニ法話「仏教の功徳について」 慈悲 利他 六波羅蜜 菩提心 十善 無財七施 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月21日

2024年08月21日 | ブログ
20回と21回が公開の時間を間違えしまっていたため、リストでの順番が逆になってしまっていた・・気をつけないと・・

第22回 仏教ミニ法話「仏教の功徳について」 慈悲 利他 六波羅蜜 菩提心 十善 無財七施 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月21日
https://youtu.be/rNkESuhnrog?feature=shared


>第21回 仏教ミニ法話「愚者になりて往生す」 本願 18願 阿弥陀如来 他力信心 信心獲得 信心決定 疑心 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月20日

2024年08月20日 | ブログ
第21回 仏教ミニ法話「愚者になりて往生す」 本願 18願 阿弥陀如来 他力信心 信心獲得 信心決定 疑心 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月20日
https://youtu.be/3B7oOR0idJA?feature=shared

第20回 仏教ミニ法話「浄土真宗は全分他力ではないということについて」 本願 18願 阿弥陀如来 他力信心 信心獲得 信心決定 疑心 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月19日

2024年08月20日 | ブログ
第20回 仏教ミニ法話「浄土真宗は全分他力ではないということについて」 本願 18願 阿弥陀如来 他力信心 信心獲得 信心決定 疑心 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月19日
https://youtu.be/U7U4_IIr0XY?feature=shared

愚者になりて往生す

2024年08月20日 | ブログ
青原さんに以前聞かれていたことともあわせて、、

公開にするとまた怒られるから友達だけにしておこう、、

もともと顕教の他力は、成仏における最後有の菩薩が如来の力を必要とすることを意味するものであったのを、往生にも拡大することを図るためその救いの範囲を広げられるためになされたのが、大慈悲を起こされた阿弥陀如来の誓願であり、そのためにどのような者でも、凡夫でも可となる他力信心を条件となされたのであります。

親鸞聖人は、他力信心は如来回向により無条件に賜るものではなく、信心への無疑心を重視され、無疑心による信楽へと至ることが真実信心であるとして諭されたのであります。全分他力のパラドックス、矛盾を十分に看破なされてのことでもあります。

それでは無疑心は、他力の凡夫でしか可とならないのかどうかを検討していましたが、そのようでは弥陀の本願から漏れる者が逆にあることになるため、高位の菩薩や阿羅漢は、無疑心など当然に可となるはずではないかとして、つまり、境地的にも弥陀本願(少なくとも往生)を取れる可能性もあることから、無疑心は当然に凡夫だけのものではないとして修正を致しました。(通例は自力の菩薩では不可とされるわけですが、それはやはり説得力に欠ける面があります。弥陀が他力の凡夫だけとか、そんな特別扱いする立場をお作りするはずなど考えられないからでもあります。それこそ救いの平等性に反することになります)

すばらしいと思う、なるほどと思うだけなら誰にでも、凡夫にでももちろんできますが、それでは十劫安心と言えるでしょう。また、そんな簡単な信心なら世の中仏陀だらけになっています。

信心はやはり難儀至極で難しいのです。宿善と善知識、聴聞を円満に調えなければ難しいのであります。善知識も不在なら聴聞も無駄に、、善知識に逢えて聴聞が極まるまでは宿善頑張れも。自力無功は、往生と成仏においてということが本来の意味であると思うのではあります。自捨帰他も。つまり、他力は往生、成仏におけるもので必要にて、往生、成仏までは自力も必要であると考えるのであります。また、宿善が今世で足りない者、補う必要のある者もあるはずです。ならば努めるのももちろん良いでしょう。聴聞だけとするのも色々弊害が、、善知識の問題もありますし、、現門主の通仏教化を図ろうというのも、あながち間違いではないかと。二諦解釈などの間違いはありますが、、善のススメを言う親鸞会とのことなどもあり、いまさらとのプライドが許さない面もあるかとは思いますが、、

以上、以前にお求め頂いたことのお返事も含めて。。

まさかの凡夫しか救わんではなく、自力の聖者も往生、成仏時には凡夫他力同等にとなるだけで、この点の理解です。往生、成仏時には凡夫愚者になりてです。もとから凡夫愚者ならそれもオッケー。但し、無疑心は必要、必須と。違ったらわざと破戒、悪業する者たちを許容する世界になります。よくよくに。

親鸞聖人ほどの自力聖者でも、高位の聖者も、愚者になりて往生すなのです。その時に自力を捨てるのが本来の意であるのが、いつのまにかすぐに全部捨てろ、いらんに、、これがやはり問題であると思うのではあります。