



この三つの廟所で一つだけ、大きな違いがあったのが、お分かりになりましたか

藩祖 伊達政宗公と二代藩主 忠宗公の廟所には天女が彫られていますが、
三代綱宗公には鳳凰の絵らしきものが、描かれています。
何故、綱宗公には女性の彫り物や絵が描かれていないのでしょう。

何故、わずか2年間で隠居しなければならなかったのか

その辺の話しを出来るだけ簡単に説明したいと思います。
仙台藩の正史治家記録には、『公、故(ゆえ)アリテ御逼塞』とだけあります。
※逼塞(ひっそく)=落ちぶれて忍びかくろること 又は 江戸時代に士分および僧侶に科した刑。今回の場合は隠居を命ぜられた事を示すのでしょう。
つまり理由は記されていなかったようです。
パンフレットにも『故ありて……』としか書いていません。
しかし、『徳川実記』には
「日頃、酒色にふけり家臣の諌をも用いない、すなわち乱行。
悪行が逼塞の原因であった」というのです。
乱行ということの中に悪所通い、つまり遊女屋に通ったということです。
これは、江戸城の外濠に当たる小石川掘の工事を依頼され、江戸に滞在していた時の話しです。
幕府の老中や藩の重臣の間では綱宗を隠退させよう相談が進められていた。といいます。
それは、その風聞が概に世上にも知れ渡っていたので
公儀からのお咎(とが)めがないうちに隠居願いを差し出したのです。
いずれにせよ、綱宗の個人的な不行跡、乱行が逼塞を受けた原因であったと指摘しています。
綱宗は21歳で隠居をさせられて
4代藩主には、わずか2歳の亀千代(綱村)が就任したのです。
そこで、大叔父の伊達兵部宗勝が後見役として家老の原田甲斐とともに実権を握った。
しかし、これに(保守派)伊達安芸宗茂らが反発する。
そして、伊達騒動(寛文事件)へのはじまりとなるのです。
これは、黒田騒動・加賀騒動とともに、三大お家騒動の一つです。
伊達騒動については、いずれ記したいのですが、まとめるのが大変そうです。
この事件は歌舞伎・浄瑠璃・芝居・講談等の好材料となり『伽羅(めいぼく)先代萩』として脚色され、幼君を毒殺から守る【御殿】の場が有名です。
長々と退屈な話しを読んで下さって、ありとうございました。
追伸:そういうわけで、三代目は女性関係でクビになったので、天女の絵は無かったたのかと思います。
それで四代藩主・綱村は仙台にあった遊郭を全部塩竃へ移したそうです。
今でも、その名残のある建物が残っています。
当時の殿方は三里も一里と胸を弾ませ、塩釜に通ったのですね。
民謡(塩釜甚句)は、その様子を歌った唄だと聴いたことがあります。
ローカルな話ですみません。 でも地元の人にとっては興味深い話かと・・・・。
伊達騒動の記事はこちらをご覧下さい
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