![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/a5/4dda17a141baceffae3501bfc208fa53.jpg)
この絵は国宝です。
常長が油絵を折って持ってきたため折り目の筋が入ってます。
日本人で初めて描かれたのではないでしょうか?
支倉六右衛門常長
私が彼に惹かれてたのは、それほど古い話ではなかった。
元々その存在は知っていたが、詳しく知る事は無く、横目にその墓や晩年隠れ
住んでいたと言われる街を通過するだけだった。
ある日仕事が入った。
遠藤周作先生のお弟子さんと言うか、門下生というか?
その人と「遠藤周作」のファンの方々だった。
そのグループと一緒に遠藤周作著『侍』の題材となった支倉常長と
サン・ファン・バウティスタ(小説の中ではサン・フワン・バプティスタ号)
の足跡を訪ねることになったのです。
この足跡は、遠藤周作先生が取材で訪れた地でもあるのです。
慶長18年(1613)10月28日(日付が資料により異なりサンファン館の物を記した)
世界最大級の木造帆船は、牡鹿半島にある小さな港、月ノ浦を出港、冷たい
太平洋を北東に向け、静かにゆれながら弓なりに帆をふくらませ進んでいった。
日本人達はこの船を『伊達丸』「本の中ではムツ丸」と称し、エスパニア人はサン・ファン・バウティスタ
号と呼んだ。
このガレオン船との旅が始まったのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/cb/a57b974ed2853527ddd93bef2c2a9c91.jpg)
一行はメキシコを経てイスパニア(スペイン)フランス、イタリアへと航海を
続け、1615年1月30日にスペイン国王フィリップス3世、同11月3日には
ヴァチカン教皇パウロ5世に謁見、政宗の親書を手渡ししたのです。
その旅は8年にも及びました。
伊達政宗がローマ教皇へ送った親書の内容とは
仙台領内でキリスト教の布教を許可するのと引き替えに、メキシコとの通称を希望するものでした。
政宗はキリスト教信仰擁護のもとに、貿易により大きな利益を得、将来の南蛮国
政略の為の国情偵察を図りながら徳川幕府に忠誠を装い、実はイスパニアとの同盟
、ローマ教皇の指示のもとで、日本皇帝への道を切り開く外交を考えていたとの
説もあります。
そこには政宗の『大きな野望』があったのですね。
政宗は日本史の中で幕末になってからの外交手法を200年以上も前に行おうと
していたのですね。
その全権をたくしたのが、支倉常長だったのです。
しかしながら、
常長らの努力にもかかわらず、結局、成功を収めることはできませんでした。
さて、活字が多いとあきるので、写真を入れて説明を入れましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/f3/88152c99f284bd72e4ef2100220a702b.jpg)
右側=雄勝町(おがつ)硯(すずり)の生産日本一ですね~確か?
ここで船が造られました。
今は碑が立っているだけです。
右下=金華山は、桃太郎の記事で鬼ケ島とされたところです。
中央=月浦は出港したところですが、ホントに小さな入り江の漁港でした。
展望台には支倉常長の像もあります。
左側=サンファンバウティスタパークがあるところです。
その「サ」の辺りが、野蒜築港があった場所になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/18/bdee5941adc4fd46aeedb99becae4287.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_t.gif)
フィギャーヘッドといいます。 赤い顔の狛ちゃんの顔が見えます。
獅子ですかねぇ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/eq_2.gif)
いずれ魔よけの意味なのでしょう。右側にも居ます。アップで見て見ましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/f4/075bd68e4a7abdbef23a961c595a8429.jpg)
足場が無く、手を伸ばして撮りました
おっかね~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e3/f9e9ccf88653f63cd7b55c74f714cc4f.jpg)
つづく
クリック
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_down.gif)
支倉常長とサンファンバウティスタ号の記事はこちらにまとめています。
常長が油絵を折って持ってきたため折り目の筋が入ってます。
日本人で初めて描かれたのではないでしょうか?
支倉六右衛門常長
私が彼に惹かれてたのは、それほど古い話ではなかった。
元々その存在は知っていたが、詳しく知る事は無く、横目にその墓や晩年隠れ
住んでいたと言われる街を通過するだけだった。
ある日仕事が入った。
遠藤周作先生のお弟子さんと言うか、門下生というか?
その人と「遠藤周作」のファンの方々だった。
そのグループと一緒に遠藤周作著『侍』の題材となった支倉常長と
サン・ファン・バウティスタ(小説の中ではサン・フワン・バプティスタ号)
の足跡を訪ねることになったのです。
この足跡は、遠藤周作先生が取材で訪れた地でもあるのです。
慶長18年(1613)10月28日(日付が資料により異なりサンファン館の物を記した)
世界最大級の木造帆船は、牡鹿半島にある小さな港、月ノ浦を出港、冷たい
太平洋を北東に向け、静かにゆれながら弓なりに帆をふくらませ進んでいった。
日本人達はこの船を『伊達丸』「本の中ではムツ丸」と称し、エスパニア人はサン・ファン・バウティスタ
号と呼んだ。
このガレオン船との旅が始まったのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/cb/a57b974ed2853527ddd93bef2c2a9c91.jpg)
一行はメキシコを経てイスパニア(スペイン)フランス、イタリアへと航海を
続け、1615年1月30日にスペイン国王フィリップス3世、同11月3日には
ヴァチカン教皇パウロ5世に謁見、政宗の親書を手渡ししたのです。
その旅は8年にも及びました。
伊達政宗がローマ教皇へ送った親書の内容とは
仙台領内でキリスト教の布教を許可するのと引き替えに、メキシコとの通称を希望するものでした。
政宗はキリスト教信仰擁護のもとに、貿易により大きな利益を得、将来の南蛮国
政略の為の国情偵察を図りながら徳川幕府に忠誠を装い、実はイスパニアとの同盟
、ローマ教皇の指示のもとで、日本皇帝への道を切り開く外交を考えていたとの
説もあります。
そこには政宗の『大きな野望』があったのですね。
政宗は日本史の中で幕末になってからの外交手法を200年以上も前に行おうと
していたのですね。
その全権をたくしたのが、支倉常長だったのです。
しかしながら、
常長らの努力にもかかわらず、結局、成功を収めることはできませんでした。
さて、活字が多いとあきるので、写真を入れて説明を入れましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/f3/88152c99f284bd72e4ef2100220a702b.jpg)
右側=雄勝町(おがつ)硯(すずり)の生産日本一ですね~確か?
ここで船が造られました。
今は碑が立っているだけです。
右下=金華山は、桃太郎の記事で鬼ケ島とされたところです。
中央=月浦は出港したところですが、ホントに小さな入り江の漁港でした。
展望台には支倉常長の像もあります。
左側=サンファンバウティスタパークがあるところです。
その「サ」の辺りが、野蒜築港があった場所になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/18/bdee5941adc4fd46aeedb99becae4287.jpg)
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フィギャーヘッドといいます。 赤い顔の狛ちゃんの顔が見えます。
獅子ですかねぇ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/eq_2.gif)
いずれ魔よけの意味なのでしょう。右側にも居ます。アップで見て見ましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/f4/075bd68e4a7abdbef23a961c595a8429.jpg)
足場が無く、手を伸ばして撮りました
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e3/f9e9ccf88653f63cd7b55c74f714cc4f.jpg)
つづく
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_down.gif)
支倉常長とサンファンバウティスタ号の記事はこちらにまとめています。
桃 源児さんに追随してみません?
こんなところで狛ちゃんに会えるとはっ ♪
鬼が島~
~揃い踏み ですね
その後の日本での
キリスト教の状況~悲しいですね
たどり着かないかもしれない・・
当時の人は大変だったでしょうね。
写真が無いところは第二段で後に書きたいと思います。
やはり日本の文化というか?気性と言うか?
島国だからですかね~?
カルチャーショックだったろな~
支倉常長さんは政宗さん同様に興味があります
政宗さんは先見の目があったのですね。
昨日博物館に行ってきましたが、政宗さんが兜をかぶった銅像が建っていました
船の呼び名も日本&スペインでは違ったのですね
遠藤周作さんの(侍)が支倉常長さんとは?
今度、時間を見つけて読んでみる事にします。
続きを楽しみにしています
初代の銅像ですよね。
政宗の兜の五月人形が流行っているようですね。
昨日もニュースで博物館の政宗の兜の話やってましたね。
じゃ~そのうち記事なってきますね。
8年にも渡った長旅、もし成功していれば、仙台幕府が出来ていたかもしれない訳ですね。
しかし、現実には隠れ住んで一生を終わらねばならなかった支倉常長。
その晩年はどんなものだったのでしょう。
洋式帆船に狛犬。和洋折衷のハシリでしょうか?
造った人達も和洋折衷でした。
確かに政宗は天下盗りを考えていたようです。
しかし、家康が亡くなる時に「後を頼む」と言われ、その時に諦めたと聞いております。