歴史に興味の無い方は、映画やドラマのロケ地としてご覧下さい。
平泉を開いたのは、藤原清衡ですが、そこには父:経清の過酷な歩みと清衡の不幸な半生があります。
この事については、前九年の役・後三年役も含めいずれ書き残して置きたいと思っていた歴史です。
ネットで調べれば簡単な事ですが、できるだけ簡単に解りやすく伝えられればと思っています。
奥州藤原氏は承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)939年(天慶2年)を鎮めた藤原秀郷を遠祖とする一族として、11世紀には概に多賀国府(多賀城)に仕える一族であったことが考えられています。
私が刀を抜いたら、かみさんは、何を思ったか・・・兜を被りましたwww
義経持仏堂
歴史の波に翻弄されて自刃した源義経。 その供養の為に造られたお堂!
平安時代の建築様式を元に再現されたもので、弁慶が守っています。
経清館(つねきよのやかた)
陸奥国府の官だった藤原経清が江刺に移り住んだ11世紀半ば頃の地方豪族の一般的な館、第一期豊田館とも呼ばれます。
藤原経清
系図を見ると、奥州藤原氏の祖もかつては、関東を拠点とした一族であったと考えられます。
永承2年(1047)の『造興福寺記』[ぞうこうふくじき](奈良の興福寺の造営や供養に関する記録)には陸奥在国の一門として経清の名前が記されていることから、都の貴族として名高い藤原摂関家(せっかんけ)からの一族の係累に認められていたことを示します。
経清は、多賀城に在任する陸奥国の役人であり亘理郡(わたりぐん・宮城県)の郡司(亘理権大夫)として、高い身分であったようです。
前九年の役の発端当時は、経清は国司に仕える立場であったことから源頼義の側について従軍します。
しかし、安倍氏の陣営に転じた際は、「私兵」800余人を率いていたとあり、経清には私的に軍事力を保有することを許されていたようです。(陸奥話記)
何故、経清が安倍陣営に転じたのかは、前九年の役でお話します。
安倍一族の女達
次回、前九年の役はこちら
平泉を開いたのは、藤原清衡ですが、そこには父:経清の過酷な歩みと清衡の不幸な半生があります。
この事については、前九年の役・後三年役も含めいずれ書き残して置きたいと思っていた歴史です。
ネットで調べれば簡単な事ですが、できるだけ簡単に解りやすく伝えられればと思っています。
奥州藤原氏は承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)939年(天慶2年)を鎮めた藤原秀郷を遠祖とする一族として、11世紀には概に多賀国府(多賀城)に仕える一族であったことが考えられています。
私が刀を抜いたら、かみさんは、何を思ったか・・・兜を被りましたwww
義経持仏堂
歴史の波に翻弄されて自刃した源義経。 その供養の為に造られたお堂!
平安時代の建築様式を元に再現されたもので、弁慶が守っています。
経清館(つねきよのやかた)
陸奥国府の官だった藤原経清が江刺に移り住んだ11世紀半ば頃の地方豪族の一般的な館、第一期豊田館とも呼ばれます。
藤原経清
系図を見ると、奥州藤原氏の祖もかつては、関東を拠点とした一族であったと考えられます。
永承2年(1047)の『造興福寺記』[ぞうこうふくじき](奈良の興福寺の造営や供養に関する記録)には陸奥在国の一門として経清の名前が記されていることから、都の貴族として名高い藤原摂関家(せっかんけ)からの一族の係累に認められていたことを示します。
経清は、多賀城に在任する陸奥国の役人であり亘理郡(わたりぐん・宮城県)の郡司(亘理権大夫)として、高い身分であったようです。
前九年の役の発端当時は、経清は国司に仕える立場であったことから源頼義の側について従軍します。
しかし、安倍氏の陣営に転じた際は、「私兵」800余人を率いていたとあり、経清には私的に軍事力を保有することを許されていたようです。(陸奥話記)
何故、経清が安倍陣営に転じたのかは、前九年の役でお話します。
安倍一族の女達
次回、前九年の役はこちら
経清と泰衡を渡辺謙さんが演じていたのを覚えています。
刀や兜もあるんですね。ますます、此処に行ってみたくなります。
桃源児さんには、物足りないかと…
15年もたつと板葺きや藁葺きが古さびて、さすがに貫禄が出るもんだなぁ~
しっかり作ってあるからでしょうね。
昔は時間潰しの観光地でしたが、じっくりみると面白いです。
天気が良かったので何よりです。
撮影にお使いくださいと
小道具がおいてあるんです~ね (^^♪
奥様~の兜~正解? (^_-)~☆
遊び心があると言うか…
十二単は有料で試着出来ます。
「某氏女」か「女子」ですからね。
経清の奥方はさらに・・・おっと!このあたりは続編待ちですね。
奥州主体の系図ゆえ、頼義がオマケのような位置付けなのが、笑ってしまいます。
今回は、頼義は国司ではありますが、清原氏の力を借りての勝利ですから、源氏は完全に負け戦でしたからね。
せっかくですから、前九年と後三年も簡単に書いておこうかと……日本人の認知度が低いと思いますので。
私が行ったのはオープン後の1年目でした。
炎立つをず~と見ていましたので、
関心があったのですね。
義経堂や清衡館もなかったように記憶しています。
今はいろいろあって楽しめますね。