行くに輿無く、帰るに家無し ゆくにこしなく、かえるにいえなし 国破れて弧城、雀鴉乱る くにやぶれてこじょう、じゃくあみだれる 治、巧を奏せず、戦、略無し ち、こうをそうせず、たたかい、りゃくなし 微臣、罪有り、復何をか磋かん びしん、つみあり、またなにをかなげかん ・ ・ 何れの地に君を置き、又親を置かん いずれのちにきみをおき、またおやをおかん 『韋軒遺稿』 秋月悌次郎の亡国詩 『街道をゆく夜話』 司馬遼太郎-より 秋月は会津から越後の官軍本営へゆく。 るると会津藩の過去の立場を釈明し窮状を訴え、官軍の寛容を乞うた。 されど聞かれられず、秋月はむなしく帰途につく。 途中、気持ちが絶望的になり、これを詠んだ。 会津の歴史が話題になるが、このような歴史もある。 秋月悌次郎(1824-1900,M33)は会津藩士。 幕府は治安機関として京都守護職を置こうと会津に命じた。藩主松平容保以下、これを頑なに断るも止む無くに至る。 そこで藩はこれに公用局(外交職)がいると、江戸昌平黌に十年以上も在校したこともある秋月を任じた。 薩摩藩の判り難い政策に薩会同盟がある。 「薩賊会奸」と長州から憎まれ、七卿落ち、蛤御門の変に進むこの事変は、 最初薩摩から秋月が接触を受けた。持ち込んだのは薩摩京都藩邸の高崎佐太郎(正風)であった。 時が経て後、秋月は新政府から東京での仕事に任ぜられた。暫しを経て会津の様子を思いこれを辞した。 その後熊本学校の教師につく。或る日薩摩の高崎佐太郎(宮内省偉官)が下宿先に訪ねる。ふたりは一夜痛飲した。 明治26年、秋月70歳のこと。なにを話したのか、今それはわからない。 秋月は皆から慕われ、同窓会から「秋月先生記念」を記念出版され残されている。 小泉八雲も同じ教壇にいたようで、秋月を評して 「この老人をひどく崇敬し、つねづね秋月先生は暖炉のようなひとだ、近づくだけで暖かくなる」 と書いている、そうである。 |