北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】光明寺,0と1のデジタルな二進法の時代に当時の求道者への理解と共感を考える

2023-09-27 20:23:45 | 写真
■信楽庭と哲学に再訪をちかう
 こんなWeblogを運営している北大路機関ですので寺社仏閣を単純に珍重するのではなく、散策を通じ社会の形成や哲学への影響などから現実の問題を考える視座を探したい。

 御影堂は宝暦4年こと西暦1754年再建、光明寺は応仁の乱などの戦乱に巻き込まれていて、阿弥陀堂は寛政11年こと西暦1799年再建、実のところここは祈りの場という意味での聖地であり、堂宇は繰り返し再建を重ねている。兵火と戦乱と失火と法難と。

 嘉禄の法難。法然の逝去を受け浄土宗勢力を一掃するべく比叡山の天台宗宗徒が行った総攻撃です。歴史というものをある程度は理解しなければ今の道理や制度と価値観や公序の原点を汲み取り、流れを読むことは出来ないものですが、やはり現代人には難しい。

 念仏三昧院、実はこの時までここ光明寺は念仏三昧院と呼ばれていまして、それは念仏という浄土宗の在り方をここで法然さんが初めて示した故なのですが、この時法然さんを荼毘に付した際に雲から陽光が差したことを受け、光明寺、と寺号が改められたという。

 四条天皇、寺号を改めるよう勧めたのは時の四条天皇でして、その際に“光明寺”と記した扁額、天皇さんが大書した勅額を下賜しています。歴史を見れば、天台宗というのはなんであんなに攻撃的なのだろう、だから何故かわたしは未だ延暦寺に行ったことがない。

 求道者としての姿勢への共感、今の視点から考えることは簡単ではないのですが国家宗教であった当時の仏教において、民衆は民草という、放置していても生えてくるような扱いにあって、しかし異常気象に飢饉と疾病流行という救いようのない状態に曝されていた。

 粟生、長岡京市粟生西条ノ内にあります寺院は、開山前を思い浮かべますと、いまではのどかな田園風景という情景が広がっていますが、落ち着いて考えますと長岡京が何故廃都となったのかを考えれば相次ぐ洪水で官庁街が被災したという歴史、安全な地ではない。

 長岡京市が現在ののどかな住宅街と大学が並び洛西の安穏を湛えるに至ったのはそうとうな財投によるインフラ整備があった為で、その概念すらない平安朝末期の時代というのは、救いとは何か、を考える前に一日とひと月を生きることが大変な時代でもあった。

 求道者への理解と共感はこうした下地があったのだ、と考える。不思議なもので、現代において宗教と政治というものは、勿論宗教系の大学に進むとか大学で神学科や宗教専攻を履修するならば別なのですが、憲法や社会学の範疇では同床異夢となった可能性が。

 宗教と民衆や政治の距離感は、社会学と憲法や政治学といった教養とともに見る場合、その学問体系の成立体系が日本と西洋史、まあ西洋史も一括して扱う事は例外が多すぎるのだけれど、日欧の背景をあまり考慮せず学問として内部化しているような印象があるのだ。

 0と1のデジタルな二進法の時代、物事を幅広く理解するために現代はあまりに考え方や理解を簡略化し過ぎて、知ったふりをする範疇を無理してグローバルな範囲まで広げ過ぎているのかな、堂宇を見上げるたびによくこの頃そうした考えを持つようになりまして。

 法然さんは自ら寺院を拓くことは無かった、けれども浄土宗の拠り所として無数の堂宇が後に開かれた、それは社会保障や身分保障という概念さえない中世の時代に人々が、精神はもちろん社会的に互助自衛するためであった、すると現代では、難しいことを考える。

 信楽庭、しがらきにわではなくしんぎょうてい、と読むのですが秋の紅葉季節には寺院は有料拝観となり、この日公開されていない庭園も特別公開されるという。少々難しいことを考えてしまいましたが、その思想の探索は改めて紅葉の季節に深めたいものです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】光明寺,法然さん忘れる事無き浄土門根元地は浄土宗の専修念仏まで比叡山を降りてから20年

2023-09-27 20:01:11 | 写真
■法然さんの浄土門根元地
 新緑も厳しい夏の熱さを超えれば少々紅葉の気配を帯びてくるのは木々の疲れというところでしょうか。

 光明寺は長岡京市の、実は京都市内からは阪急特急が京都市内の桂市内からもう一つ先に行きましたやや洛中からは距離を隔てた一角に御堂を広めています。その歴史的背景には天台宗の国家宗教としての仏教に限界を感じ比叡山を降りた法然さんの道地があった。

 本尊は法然上人像、法然さんの張子の御影を御影堂に奉じています。法然さんは長承2年から建暦2年、西暦では1133年から1175年の時代を歩んだ、法然さん自身は一つも寺を開いたことはないのですが専修念仏という、日本の哲学に大きな変革を加えたひと。

 無用庵隠居修行、時代劇“無用庵隠居修行”の撮影舞台を巡るという、今風の理由で敢えて長岡京市まで阪急電車で臨んだわけですが、実のところ一つの関心事、現代における信仰と宗教と社会の位置づけというものを、結論はどうでもいい、考える機会が欲しかった。

 専修念仏というのは、要するに仏を熱心に祈るだけで救われる、という。もう十年以上前の話ですが、法学を学ぶものの大学は仏教系であった親友が仏教について、真面目にやるとこれから社会人になる人間には社会生活をすべて捨てさせる教義、といっていました。

 天台宗にしても真言宗にしても、教義通りに成仏できる生活を送ろうとすると、全員が僧侶になって妻帯を断つほかなく、それでは国家というものは成り立たないし社会も経済も成り立たない、全員が僧侶になるとそもそも寄進してくれる人もいなくなるから、と。

 法然さんの専修念仏は、祈るだけで救われるという概念であり、要するに大衆全員が救われる道を示して、此処でようやく仏教は国家宗教として天から天守をのみ見つめるだけではなく、大衆と向き合ったことを示しています。だた、この結論に至るのも簡単ではない。

 延暦寺と醍醐寺を経て、やはり南都六宗の視座も必要という事で法相宗、三論宗、華厳宗、この学僧たちと談義と法話を経て、しかしその最中に東大寺大勧進職という地位を進められるも辞退し、最後に大原問答という、日本哲学史に記される大会合を経ている。

 顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源、大原問答には当時の日本を代表する天台宗や真言宗は法相宗の高僧が文治2年こと西暦1186年、大原勝林院において法然と議論し、大衆は救われる有り方や仏教と民衆の向き合い方を議論、専修念仏という方向性が導かれた。

 浄土宗の専修念仏まで、比叡山を降りてから20年という研鑽と研究を経ていますが、その最初、比叡山を降り仏教教義の研究へ奈良へ向かう途上に立ち寄った当地での一晩の宿を借りました高橋茂右衛門宅において信仰を熱く語った事が現在の寺院へとつながる。

 浄土門根元地、寺院はいまこう呼ばれていまして、それは法然さんが20年を経て浄土宗を開いた際、あの始まりの一晩というべき高橋茂右衛門宅での茂右衛門夫妻との語らいを記憶していて、念仏を唱える重要性を広く問うた最初の地がここ、という所縁ゆえ。

 法然さんにとり、もちろん最初の庵を開いた知恩院の地吉水も、比叡山を降りて最初に腰かけた金戒光明寺も、すべてが思い出の地であり所縁と由緒を結んだ地であるのでしょうけれども、当地は特別であったと思われ、法然さんは没後ここで荼毘に付されました。

 法然上人の遺廟として。ただその歴史もへいたんであったわけではなく、そもそも荼毘に付すまえには法然さんはそのまま高野山の空海さんのように旅立たれたのちもご本人は安置されていたのですが、嘉禄の法難という嘉禄3年こと西暦1227年の出来事があった。

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ウクライナ情勢-ヘルソン州ドニエプル川渡河作戦とロボティネ東部及びバフムトとノボマヨルスケ北西の概況

2023-09-27 07:00:06 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 今回は少し古くなりましたが今月中旬までの戦況報告を現状と比較する為の備忘録的な話題です。

 ヘルソン州ドニエプル川が9月前半の大きな焦点となっている、イギリス国防省ウクライナ戦況報告9月19日付版が概況を示しました。ドニエプル川にはいくつもの中州が小島のように点在しており、ウクライナ軍とロシア軍が舟艇部隊を派遣し中州や対岸に橋頭保を確保しようと戦闘継続、ロシア軍はこの地域に新設の第40軍団を置いている。

 ドニエプル川での戦闘は、小隊規模の舟艇が相互に戦闘を繰り広げる状況となっていて、これは戦域単位で見れば展開している部隊は少ないものの、ドニエプル川全体の渡河作戦可否を左右するものであるため、また、ザポリージャ州やヂネツク州から兵力を引き離す要因となり得るとして、ウクライナ軍軍ロシア軍両軍が重要視している地域とのこと。

 イギリス国防省ウクライナ戦況報告9月9日発表において、ウクライナ軍はロボティネ東部でのロシア軍防衛線突破をイギリス国防省が確認している旨を発表しました。ウクライナ軍の攻撃は歩兵による浸透攻撃を行い、戦術的前進を積み重ねることでロシア軍を消耗させているとのこと。歩兵はあらゆる地形と天候を克服するとされる。

 ロボティネでの攻防戦ではロシア軍の動向として、前線部隊を再配置し消耗した部隊を新鋭部隊と交代させているとのこと。この一連の動静はロシア軍の予備戦力枯渇が進むことをしめし、ロボティネ地区でのロシア軍へのウクライナ軍圧力の増大を示すとともに、ロシア軍がほかの地域での陽動作戦を行いにくくなっていることを示す。

 ISW9月10日付分析として、ウクライナ軍はドネツク州とザポリージャ州の境界地域において攻勢に成功したもよう。これはウクライナ軍が公開した映像にノボマヨルスケ北西地域まで進出している画像が周辺地形などから確認されたため。ここはオリヒフから13kmの距離にあり、オリヒフから南方地域での着実な前進を重ねているもよう。

 バフムト、東部戦線での激戦の焦点はもう一つバフムト地区での戦闘があり、ウクライナ軍とロシア軍との間でバフムト近郊のアンドリイフカとクリシチフカにおいて交戦が確認されている、しかし、双方ともに具体的な前進にはつながっておらず一進一退の状況になっているという、ISWは分析しています。東部戦線北部では一進一退が続く。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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