■ファントムの年度末に岐阜の城
岐阜と云えば岐阜城が岐阜駅からも岐阜基地からも望見出来るのですが、歴史的にさらに長い歴史を歩んだ城郭があるという。
年度末、そう本日は3月31日水曜日で2020年度の年度末、明日から2021年度が始ります。そして思い起こすのはCOVID-19コロナ禍に曝された今年度は自衛隊行事が総崩れで、撮影できるのはそれほど遠くない舞鶴基地の護衛艦か、岐阜基地のファントムでした。
ファントム、そのファントムも2021年3月17日に遂に引退となってしまいまして、桜前線の早過ぎる北上が五分咲きでそのファントムの自衛隊卒業を祝うよう。ファントムが除籍されますと、こう岐阜観光というものにも好奇心の軸線を移してゆきたいところですね。
桜薫る石垣の城址公園、三月中旬なのに櫻が咲き始めます、春の訪れと共に梅花の季節は素早く過ぎ去りまして四月を前にして木々は春爛漫を喜んでいるようです。ここは加納城、岐阜県岐阜市の中心部をやや南に在ります徳川家康造営という巨大城郭遺構の一つ。
加納城、岐阜基地は岐阜県美濃地方に位置していますが、この岐阜基地へ東海道本線から高山線か名鉄線に乗り換えるのが東海道本線岐阜駅です。岐阜駅は地方中核市岐阜市の中心部にあり、その岐阜駅から徒歩20分程行きましたところに江戸時代此処を収めた城址が。
岐阜県岐阜市加納丸の内、加納城は名鉄名古屋本線加納駅が最寄駅となっています、岐阜駅から微妙に遠いな、と思うのですが岐阜駅前に清水川という小川が流れていまして、江戸時代はここが加納城外堀であったという、つまり昔の城前に岐阜駅が在るということに。
天下普請、加納城は巨大な城郭ですが慶長7年こと西暦1602年に徳川家康の天下普請により造営された城郭です。奥平信昌が最初の城主となりましたが、奥平信昌は武田勝頼を離反し長篠城に籠城、織田信長が武田氏を破る長篠の戦に繋がる分岐点を造った武将という。
御三階櫓、現在は石垣が手入れされず残るのみで植樹された桜が石垣に圧力を加えている立ち入り禁止の多い城址公園ではありますが、なにしろ天下普請の城郭でしたので築城当時の城郭には御三階櫓としまして独立式層塔型三重四階の事実上の天守閣がありました。
岐阜城天守閣を移築したという御三階櫓、今は更地となった二ノ丸に置かれたといいます。山城の岐阜城は威容は凄いものの岐阜駅から仰ぎ見る程に標高が高い為に登城に時間が掛かります、すると平時の行政中枢には平城である加納城が理想的だったのかもしれません。
奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏、と歴代加納藩主の居城となりました加納城ですが、この御三階櫓は享保13年こと西暦1728年に落雷が原因という大火が在り焼失してしまいました。考えれば安土桃山時代岐阜城天守閣の移築ですので、残念と云えばそれに尽きます。
明治維新とともに加納城も廃城となり、櫓や城門と御殿等は悉く売却され荒廃を極めています。明治時代の1900年に岐阜県師範学校が置かれ、1939年には帝国陸軍第51航空師団司令部が置かれる事となりました。そして戦後は陸上自衛隊の駐屯地となってゆきました。
岐阜駐屯地、現在の岐阜分屯地は航空自衛隊岐阜基地隣接地ですが、1954年の自衛隊発足とともに陸上自衛隊駐屯が開始され、第10師団隷下の第10対戦車隊と方面直轄の第313地区施設隊、第309基地通信隊などが施設や通信塔を設け1975年まで駐屯していたという。
第51航空師団といいますと航空総軍直轄の師団ですが、旧軍師団司令部跡地で自衛隊駐屯地跡地、興味深い歴史を辿る城址は今や桜の名所となっています。城郭遺構は手入れされていない石垣と崩れやすい土塁という保存状況ではありますが、不思議な時を刻んでいる。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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岐阜と云えば岐阜城が岐阜駅からも岐阜基地からも望見出来るのですが、歴史的にさらに長い歴史を歩んだ城郭があるという。
年度末、そう本日は3月31日水曜日で2020年度の年度末、明日から2021年度が始ります。そして思い起こすのはCOVID-19コロナ禍に曝された今年度は自衛隊行事が総崩れで、撮影できるのはそれほど遠くない舞鶴基地の護衛艦か、岐阜基地のファントムでした。
ファントム、そのファントムも2021年3月17日に遂に引退となってしまいまして、桜前線の早過ぎる北上が五分咲きでそのファントムの自衛隊卒業を祝うよう。ファントムが除籍されますと、こう岐阜観光というものにも好奇心の軸線を移してゆきたいところですね。
桜薫る石垣の城址公園、三月中旬なのに櫻が咲き始めます、春の訪れと共に梅花の季節は素早く過ぎ去りまして四月を前にして木々は春爛漫を喜んでいるようです。ここは加納城、岐阜県岐阜市の中心部をやや南に在ります徳川家康造営という巨大城郭遺構の一つ。
加納城、岐阜基地は岐阜県美濃地方に位置していますが、この岐阜基地へ東海道本線から高山線か名鉄線に乗り換えるのが東海道本線岐阜駅です。岐阜駅は地方中核市岐阜市の中心部にあり、その岐阜駅から徒歩20分程行きましたところに江戸時代此処を収めた城址が。
岐阜県岐阜市加納丸の内、加納城は名鉄名古屋本線加納駅が最寄駅となっています、岐阜駅から微妙に遠いな、と思うのですが岐阜駅前に清水川という小川が流れていまして、江戸時代はここが加納城外堀であったという、つまり昔の城前に岐阜駅が在るということに。
天下普請、加納城は巨大な城郭ですが慶長7年こと西暦1602年に徳川家康の天下普請により造営された城郭です。奥平信昌が最初の城主となりましたが、奥平信昌は武田勝頼を離反し長篠城に籠城、織田信長が武田氏を破る長篠の戦に繋がる分岐点を造った武将という。
御三階櫓、現在は石垣が手入れされず残るのみで植樹された桜が石垣に圧力を加えている立ち入り禁止の多い城址公園ではありますが、なにしろ天下普請の城郭でしたので築城当時の城郭には御三階櫓としまして独立式層塔型三重四階の事実上の天守閣がありました。
岐阜城天守閣を移築したという御三階櫓、今は更地となった二ノ丸に置かれたといいます。山城の岐阜城は威容は凄いものの岐阜駅から仰ぎ見る程に標高が高い為に登城に時間が掛かります、すると平時の行政中枢には平城である加納城が理想的だったのかもしれません。
奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏、と歴代加納藩主の居城となりました加納城ですが、この御三階櫓は享保13年こと西暦1728年に落雷が原因という大火が在り焼失してしまいました。考えれば安土桃山時代岐阜城天守閣の移築ですので、残念と云えばそれに尽きます。
明治維新とともに加納城も廃城となり、櫓や城門と御殿等は悉く売却され荒廃を極めています。明治時代の1900年に岐阜県師範学校が置かれ、1939年には帝国陸軍第51航空師団司令部が置かれる事となりました。そして戦後は陸上自衛隊の駐屯地となってゆきました。
岐阜駐屯地、現在の岐阜分屯地は航空自衛隊岐阜基地隣接地ですが、1954年の自衛隊発足とともに陸上自衛隊駐屯が開始され、第10師団隷下の第10対戦車隊と方面直轄の第313地区施設隊、第309基地通信隊などが施設や通信塔を設け1975年まで駐屯していたという。
第51航空師団といいますと航空総軍直轄の師団ですが、旧軍師団司令部跡地で自衛隊駐屯地跡地、興味深い歴史を辿る城址は今や桜の名所となっています。城郭遺構は手入れされていない石垣と崩れやすい土塁という保存状況ではありますが、不思議な時を刻んでいる。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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