北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】立本寺-観桜,洛中法華二十一寺は松本問答を経た天台宗と日蓮宗の全面対決

2024-04-25 07:00:11 | 写真
■いまはさくらが誇る
 こころと信仰の解釈を巡る対立というものは今なお世界を巡りますが中世には日本でも例外ではなかった実情があります。

 立本寺、このお寺の歴史を深く知るには日蓮宗の理解も開山となりました鎌倉時代の日像さんの歴史も一通り興味深い歴史を讃えているのですが、なにより洛中法華二十一寺と天文法華の乱という歴史を踏まえておきますと奥深さと難しい日本史の一端がみえる。

 松本問答という、今でいえば問答という話し合い的な要素ではなくこれは暴行に入るのではないかなあ、論破しただけでさやに収めればよかったもの、ともいえる一つの事件を契機に天台宗と日蓮宗が全面対決となります、天台宗は日蓮宗の法華宗自称も反発していた。

 天文5年こと1536年、天台宗からの報復を恐れた日蓮宗宗徒は相国寺を占領し陣地構築を開始、この陣地構築は塹壕を掘り櫓や障害物を増強、野戦築城というに相応しいもので、同時に天台宗もこの暴挙を含め室町幕府へ仲裁と武装解除を求めるも幕府は動きません。

 山科本願寺の戦い、というこの遡ること五年前に勢力を伸ばしていました浄土宗の勢力が一向一揆に打って出た際、日蓮宗は幕府に呼号し、細川晴元や茨木長隆の軍勢とともに本願寺攻撃に参加しており、幕府としては天台宗の要請を受け入れられない事情があった。

 幕府の係争に対する慎重姿勢は、熟考を重ねているうちに状況が悪化する危機管理上の禁忌でもあり、60年前に勃発した応仁の乱と似た構図とともに広がったものなのですが、この結果、日蓮宗の寺院は京都を追放、これが立本寺の形成させる背景となっています。

 本願寺と興福寺及び三井寺と東寺はこの動きに対して中立を宣言、他者の介入がないことを確信するとともに比叡山は僧兵の動員を開始、この時の兵力は6万とも15万ともいわれます、これに対して日蓮宗は洛中法華二十一寺から兵力を動員し2万を集めていた、と。

 陣地構築で先行した日蓮宗側は、遊里を活かすべく先制攻撃をかけたとされています。鹿苑日録記など当時の日記にしるされている一方、近江より六角定頼の軍勢3万が延暦寺に増援を出し、当時係争中であった三井寺も3千の増援を派遣し戦闘加入で兵力増強へ。

 洛中法華二十一寺、陣地構築で先行していた分は有利であったのだけれども兵力差は如何ともし難く、開戦から五日を経て比叡山僧兵は六角氏とともに洛中まで到達、洛中法華二十一寺への攻撃に移りました。日蓮宗も激しく応じ、応仁の乱以来の市街戦となった。

 四条口から洛中に進出した比叡山僧兵は洛中法華二十一寺を構成する本圀寺以外の20の寺院を焼き討ちし、戦闘七日目には本圀寺を包囲し焼き討ち、これにより日蓮宗側の戦死者は一万ともいわれます、しかしこの焼き討ちによる火は留まるところなく延焼してゆく。

 応仁の乱では京都の寺社仏閣の大半が焼け落ち、と説明されますが当時動員された足軽は現地雇用の傭兵に近く多くが下町に住居を構えていました、この為に応仁の乱の主戦場に広大な下町は含まれず、現在の市域に置き換えればおおくが焼け残っていましたが。

 天文法華の乱では焼き討ちされた洛中法華二十一寺は町衆の支持を集めたこともあり下町に隣接する寺院も多く、ここが焼き討ちされ大火を招いた。結果論ですが焼失面積は応仁の乱よりも広範な地域が焦土となり、幕府はこれをうけ日蓮宗の京都追放を決定します。

 幕府の禁令は厳しく、日蓮宗からほかの宗派へ移籍することや還俗し一般に戻ることを禁止、京都とその周辺への立ち入り禁止、そして破壊された寺院の再建を禁じました。これは勅許により許されるまで六年間続き、日蓮宗ではこれを天文法難と呼ぶほどでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】立本寺-観桜,洛中法華二十一寺は天文法華の乱と妙顕寺そして三宝尊を奉じる寺院を巡る

2024-04-24 20:22:49 | 写真
■満開の桜
 ここは静けさの寺院なのですが拝観の際に観桜とともにその歴史まで辿りますと成程感慨深いものが有ります。

 立本寺、ここは上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町という市電横丁とこどもたちには縁が遠い日活映画館あたりからぐっと住宅地のほうに入りました、ほんとうの街中の寺院です。梅花の季節には梅は香と思いましたが、数が多かれば桜並木も桜は香るのです。

 桜花の季節にはどうしてもここに歩みを進めたくなる、というのはこの堂宇を巡り合いましたのは、ふっとした偶然の向こうに出会ったような経緯がありまして、それほど混雑しない、というよりも混雑とは無縁の堂宇は激しく感受性を揺さぶる情感にみちている。

 上京区七本松通、静かな一角ですので観光客というのは、もしかしたらばいるのかもしれませんが静かな拝観者だけが歩み進めているという印象で、桜花の季節には花弁が音を吸収するためなのでしょうか、山寺のようなしんとした静寂と微かな蜂の羽音が響くのみ。

 COVID-19のいちばん猛威を振るったころ、いや日本では静観していても国際報道では世界中が欧州だけで毎日数千が死亡し、北米大陸もひどいが人口比で南米大陸がひどく、アジアでは集計さえできない地域があったなか、ふと桜を見上げていましたようなお堂だ。

 宿坊と高齢者施設とを運営しています立本寺さん、本堂の方へ桜並木が続いているのですが、伽藍の堂宇が哲学的な直線と桜花の曲線とを交響詩のように織り込んだ風景を醸していまして、そう歩けばそれほど長い距離ではないのだけれども、奥深さを感じさせる。

 由緒寺院という日蓮宗の本山にあたる寺院の一つで、門構えは入っていいのかな、とおもいつつ観光でなく拝観ならばと但し書きがありまして、凛とした方に力を入れて拝観することとしました。これは遊興の場としないためなのか、過去に何かあったのか、とも。

 天文法華の乱、何かあったのかといいますとお寺の歴史については何かあった寺院であり、このお寺は日像さんが開いた寺院という、妙顕寺を開きましたあの日像さんです。創建は1321年、元亨元年に当たる寺院でこの創建年間というものもやはり妙顕寺とおなじ。

 妙顕寺さんは上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町、堀川通沿いにありますので若干距離はあるのですが、三宝尊を奉じる寺院という点も同じでして、少し調べてみますと、ここはもともと妙顕寺さんでもありまして、洛中法華二十一寺としてもかぞえられています。

 天文法華の乱、洛中法華二十一寺といいますのは室町時代と安土桃山時代の狭間という戦国乱世の時代に京都で影響力を増していた日蓮宗と京都遷都の時代は桓武天皇の時代より京都の奉護を自認する天台宗との対立が、とうとう全面衝突に至った際の寺院のこと。

 洛中法華二十一寺は大半が現存しているのですが、天文法華の乱では松本問答という日蓮宗と天台宗の問答の末に論破を自称した日蓮宗の僧侶が上壇の天台宗僧侶から法衣を剥ぎ取る暴行を加え、これを基に反発した天台宗との全面戦争に発展した、というもので。

 立本寺のいろいろあった歴史、というものはここを示しています。詳細は後述しますが、一時京都から離れていた一つの寺院が、京都に戻った際の時差などから二つの寺院に分かれてしまった、という。日本の宗教史を遡れば意外と多い出来事なのですけれどもね。

 並木一面さくら色という風情とともに、立本寺には庭園も拝観できるという事なのですけれども、ここを見上げますと余韻は花吹雪までだよなあ、と今一度見上げるのです。刹堂は階段がありまして、少し腰かけて、春が来たのだなあ、今年も実感し時を過ごすのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】醍醐寺観桜-五重塔は五分咲き七分咲き枝垂れ桜に透ける京都最古の建築物

2024-04-24 20:00:16 | 写真
■桜すく醍醐寺五重塔
 こういう写真は年に何枚も撮影できるものではないというものがあるのですが絶景という情景を逃さないよう。

 枝垂桜、染井吉野、山桜、八重桜、此処にもう一つ御室桜でも加われば完璧なのでしょうけれども、醍醐寺には開花時期の異なる幾種類ものさくらの木々が植えられ大切にされていまして、さくらの観桜という季節を長く楽しめるようになっています。

 五重塔と枝垂桜、いやもっと早咲きのものに河津桜がありましたか、早々と大輪の花を春に添えてくれます枝垂桜を、こう曇天というのが残念だなあ、と思いつつ五重塔とともに見上げて構図に含めますと、これ、年に一枚で会うか、という情景に仕上がる。

 枝垂桜と五重塔、ここ醍醐寺の五重塔は京都でも数少ない平安時代の建築物となっています、もうひとつは千本釈迦堂の堂宇ですが、なにより京都市内の建物は悉く応仁の乱を乗り切ることができませんでしたから、平安時代の建物は例外的といえるのだ。

 醍醐寺の枝垂桜、染井吉野、山桜、八重桜、そんな情景に在って透けて見える桜の花々という無効に確たる五重塔の情景が映りこんでいる様子は、もう少し開花してしまうと花々に隠れてしまいますし、咲いていないと単なる遅れた冬景色となってしまう。

 春らしいといいますか、五分咲き七分咲きの枝垂れ桜を透かしてこの情景を撮影できたというのは。もちろん多くの方々が写真に記録する瞬間なのですが露出と圧縮効果とが、こういうのを絶妙というのか撮影できた、これこそ写真の醍醐味、というのかなあ。

 五重塔は、醍醐天皇の冥福を祈り代明親王が建立を発願したという歴史がありまして、その造営は二十年の時間を要しましたが天暦5年こと西暦951年に落成を迎えました、このころ天皇は既に村上天皇の時代、平安朝末期の混乱も始まったころとなっている。

 醍醐寺五重塔は応仁の乱の戦災も免れている一方、災害による被害は幾度も乗り越えているものの大破することも多く、例えば天正地震、天正13年こと西暦1586年の天正地震では大破し全壊直前にまで追い込まれるものの、倒壊だけは免れています。

 能登半島地震、今年は元日に、ちょうど親類のあいさつ参りという最中に地震が発生しまして、過疎地域故に傷跡は多い楽し難い大きな被害を及ぼしました、が、醍醐寺の五重塔を見上げますと、復興というものは意志があればできるのだ、という印象も。

 染井吉野の桜花は淡い白にややさくら色が薄曇りの印象を湛えていまして、しかし花弁は最もひろくひらき、これは不思議と空気中の振動、つまり雑音、音を吸収してしまうのか街中に在って静寂という、思想の探求に適した情感を醸してくれて好きです。

 山桜、日本に多く植樹された染井吉野の樹齢には人と同じくらいの限界があるとのことですが、江戸彼岸桜と並んでこの山桜は樹木としての寿命が長く、つまり大樹の桜を形成します、けれども開花と同時に若葉が茂るために独特の白さがなにか不思議だ。

 八重桜、強い鮮やかな色彩が何か紅梅の季節を思い出すような印象で、しかし遅咲き故に観桜の季節を多忙やほかの行事撮影などで逃してしまった残念な新年度の始まりという頃合いには、そうまさにこれ干天の慈雨のような情感を味わうことができます。

 醍醐寺、伏見区なのだけれども若干交通が不便ではあるところ、しかし豊臣秀吉以来の観桜という伝統を有する寺院であるために、これが今風の賑やかな花見の原型なのだ、という原点回帰的なひと時を、満喫できる寺院でもあるお勧めしたい祈りの場です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,現代花見発祥は天下統一の先に日本を一つとした勲功の最後の栄華を飾った祭事

2024-04-18 07:00:05 | 写真
■空海所縁の寺院はいま
 今年の桜も四月半ばとなりますと八重桜が咲き誇るのみでありいよいよこのほかの桜花は青葉へと季節を進めているところですが。

 醍醐寺、歴史を見ますと空海所縁の寺院、とは言うもののその長い歴史の中には多くの紆余曲折がありました。例えば応仁の乱では五重塔が残り現存する、という事なのですがいいかえれば五重塔以外は全て破壊されたということもまた厳しいですが事実です。

 文明元年の農民蜂起、1469年には飢饉から醍醐寺の寺領でありました御境内の農民が年貢の半減を求める半済要求の暴動を行った際には僧兵が徹底した弾圧と首謀者呪殺を願う護摩祈祷を行うなど、次第に民衆の寺院とはなり得ず人心の離反を生んでゆきました。

 歴史、しかし寺院は、といいますか寺院以外の建物でも長い歴史を超えるには役割というものを与えられ、これを全うすることで新しい価値を見出さなければ生き永らえることは出来ず、これは平安朝の頃の壮大美麗な宮殿も中世の豪華な武家屋敷も消失した通り。

 観桜、不思議なものなのかもしれませんが醍醐寺が今日に永らえるのは、観桜という制度ではないにしても文化的な一つの出来事と共に新しい役割を担う事ができたからです、それは五重塔を残し荒廃していた室町時代もその末期、安土桃山時代のことでした。

 慶長3年3月15日、西暦では1598年4月20日となりますか。観桜といえば騒がしいものなのですが、宮中行事の延長での観梅のような季節行事としての花見ではなく、今日的な酒宴とともに大規模に行う花見の歴史上初めての事例が醍醐寺で執り行われた。

 醍醐の花見、天下人となりました豊臣秀吉は豊臣秀頼と北政所、そして淀殿を招くとともに諸大名から女房女中など実に1300名を集めまして準備を行い、徳川家康や伊達政宗など5000名を招待し、いや庶民さえ自由に参加を許しての一大花見を行いました。

 豊臣秀吉は応仁の乱により荒廃した醍醐寺の再建に助力していまして、この関係から醍醐寺第八〇代座主の義演は、秀吉の帰依を受けるとともに良好な関係を続ける中、その体力の衰えというものを見抜くようになり、天下人に相応しい観桜会を開いた、と。

 豊太閤花見行列、という祭事としまして醍醐寺では四月第二日曜日に歴史行列の祭事を執り行うのですが、これはその時の秀吉を再現したものといいまして、いよいよ末期も近い人生に花を添えるという醍醐寺の計らいとともに、実際その五か月後に最後を。

 花見が役割、というわけではないもののしかし、今風、というべきなのだろうか、騒がしいわいわいがやがやの擬音が混じる観桜の始発店は此処に見出すことも出来るものでして、いわば一人未だない天下統一の先に日本を一つとした勲功の最後の栄華の場で。

 花見、もちろん今は日本中津々浦々、観桜の名所は数多あるのですが始まりの地といいますか、今風の花見というものの始まりがここと考えるならば、醍醐寺の桜を眺めるのは文化的な意味で個々の観桜が壮大さを感じる所以、といえるのかもしれませんね。

 混雑は、一見して明白の通りそれほどではない、もちろん物凄い混雑していたという別の日に拝観された方のお話もありましたので全部が全部ここまで安穏としていたわけではないのですが、賑やかな観桜の原点の場所をこのように静かに見上げられた、という。

 しかし、観光過多が叫ばれる京都に在って、確かに端の方ではあるのだけれどもこのような桜花の季節に在って、それがそれほどでもない観光客という醍醐寺の情景、多くの京都観光の方々はいったいどこで時間を過ごしているのか、不思議にはなりましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,花は咲く-創建の貞観年間は内憂外患の騒擾に古富士噴火と千年前の東日本大震災

2024-04-17 20:23:11 | 写真
■数多災害を越えて
 台風災害により寺域の大樹がごっそり刈り取られてしまったのが醍醐寺という寺院なのですが拝観と共に創建の時代を思いかえすと凄い事に気付かされる。

 醍醐寺、真言宗醍醐派総本山の寺院です。その歴史は古いのですが禅寺なんかでは桜花などは遊興の場になり修行の妨げになるという配慮から最初から植えられていないか伐採してしまい、紅葉の季節に遊興の場になったりもするのですけれども、ここでは。

 豊太閤花見行列、という、これは四月第二日曜日に行われる歴史行列なのですけれど、祭事が行われるほどに観桜とは所縁あるという。そう、ここは見上げて桜花を愛でてよい寺院なのですね。そしてもう一つ、ここはかの空海さんと所縁ある寺院でもあります。

 理源大師聖宝という、かの弘法大師空海の孫弟子さんが造営されたという歴史を持つ醍醐寺、空海さんと所縁あるというだけあってその創建は貞観16年、西暦でいえば874年と古く、聖宝さんといえば光仁天皇の玄孫という皇統の血筋で仏教に帰依した方でして。

 貞観16年、考えてみると自然災害が日本史では最も激しかった時代です。いや、日本史の前、日本誕生という三船敏郎主演とかドラえもん映画みたいな時代の更に前の9万年前にはASO-4というどうしようもない規模の阿蘇山噴火災害が起きているのですが。

 日本の価値観の一つを形成するなかにあって、この貞観年間というのは、奈良時代の天然痘、天平の疫病大流行と並んで実のところ価値観や文化観に影響を及ぼしているようでして、真言宗の定着とともに仏教文化と災厄の影響は大きいように思えるのです。

 ASO-4と比較しますと、火砕流本体流だけで170㎞先まで到達し、九州本州四国に及んだ巨大災害となりましたASO-4,再来しますと日本どころか北半球全域に深刻な被害を引き起こす噴火です、ただ、これは九万年前、神話の世界の更に前という。

 貞観大噴火、古富士噴火ともいいますか、貞観8年に発生しました記録される限り最大規模の富士山噴火です。剗海という琵琶湖に準じる規模の大きな湖はこの噴火による山体崩壊でいまの富士五湖となり、火山灰の被害は広範に及んだ、とされていますが。

 古富士噴火として、朝廷に記録された即ち行政文書に記録が残る最古の火山災害ですが、この様子は小松左京の小説“日本沈没”などでも紹介されています。富士山の周辺が大きく変容した噴火、これだけでも貞観年間というものは大きな災害があったといえる。

 貞観地震、千年前の東日本大震災、とも言われる巨大地震が発生しましたのもこの貞観年間で、貞観11年5月26日西暦では869年7月9日に発生した巨大地震はマグニチュード8.3以上とされ、歴史地震として記録されています。この被害は津波が大きかった。

 去海數千百里、多賀城まで瞬時に津波が到達し地震光という発光現象が公式文書に記録された世界最初の地震という。鳥海山と開聞岳が噴火し朝鮮半島からは貞観の入寇として大規模な攻撃もうけていて、更に阿蘇山も小規模ながら二度に渡り噴火しています。

 応天門の変も貞観年間で、無い有害化案に大災害連発という不安な時代、醍醐寺が造営されたのはまさにその只中という事となりまして、いや実は京都の現存するこの時代の寺社仏閣は建物こそだい変わりしているものの今に至るものが少なくありません。

 花は咲く、という東日本大震災からの復興祈念歌がありましたけれども、貞観年間に巨大災害が相次ぐ中で造営された一大寺院が、いまもかわらず、では必ずしもないのだけれども満開の木々に囲まれる様子を見ますと、ぐっとこう感慨深いものがあるのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,醍醐の花見で知られる深雪山醍醐寺は色鮮やかな花曇りと物静かな拝観者の寺域

2024-04-17 20:00:56 | 写真
■花曇りに醍醐の花見
 今年の桜の季節は曇天が多いのだけれども曇天でもはるがやってきたのだから観桜への散策してみよう。

 醍醐の花見、という言葉があるくらいなのですから告春を迎えたならば定番の観桜にこの醍醐寺を含めるべきなのでしょう。曇天というべきか花曇りと少々きざな表現を用いてみるべきなのかは人により分かれるところなのですが、そんな雲の下で観桜へ。

 花見を。こう思い立つものの、昨今花々の真下で酒宴という風潮は、事情があるとはいえ見える範囲内では、もちろん見方によっては多いのだけれども、静けさと共に観桜を嗜む方々に圧されているようで静寂というものを愉しめるのはなんともあれさいわい。

 深雪山醍醐寺、ひと昔には。十年一昔というのではなくコロナ前というCOVID-19の時代を挟むべきなのでしょうねえ、ここ醍醐寺の観応は、覚悟がいるよ、とは言われたものでして成程醍醐の花見というだけあって四百余年を隔てて今なお観桜客もおおく。

 観光客も多く、と気合を入れて探訪したのですけれども実際のところは写真が示す通りでして、人でも疎ら、というわけではないのだけれども人口密度としては平野神社とかそういう、賑わっているなあ、というところと比べても落ち着きがあって、不思議だ。

 満開、と染井吉野の話題が報道されていて確かに今年も何事もなく満開だなあ、と道端の木々を眺めつつ、それならばもう満開なのだろうと探訪したものなのですが、こここの状態は恐らく五分咲きと七分咲きの点々とした状態だったのか、やや空いている。

 伏見区醍醐東大路町、醍醐寺というのはここ山科区のように思っていたのですが実際は伏見区で、ただ有名な伏見稲荷大社からは稲荷山を越えなければならず、徒歩でも行く道はあったのかなあ、という場所にありまして、最寄りの駅は東西線の醍醐駅という。

 東西線醍醐駅、前の終点駅でしたがいまは宇治市の六地蔵駅まで延伸していて、しかし六地蔵駅まで醍醐寺から京阪バスが運行されているなど、伏見区だけれども宇治市がもう近くに感じる場所、だけれども東海道線山科駅からもバスが出ていて、不思議、か。

 路線バスの旅、BS-171で毎週火曜日に過去収録したものが放映されていますが、ここ醍醐寺も、歩いて行ける、のだけれども若干距離を感じるので路線バスを利用することとなる、それも京阪バスや市バスではなくめずらしいタウンバスが運行、これを利用して。

 観桜の季節には10分おきにタウンバスが臨時バスを運行してくれるので、こちらを利用します。醍醐駅からショッピングセンターが直結していて、ショッピングセンターの中央部からシャトルバスが運行されています、地下鉄出口がわかりにくいのだけれど。

 笠取山、おお笠取山か行ったぞ第1警戒群いやいまは第1警戒隊、と笠取山分屯基地を思い浮かべる方がいるのかもしれませんが、ここ醍醐寺も空海の所縁ある寺院であるとともに、笠取山のふもとにあるのだ。昔この上にレーダーサイトがあると誤解したのが。

 芦屋基地は芦屋市にはないように、笠取山分屯基地の笠取山は三重県の笠取山で京都のとはちがう、高雄山と高尾山分屯基地は文字違いで分かりやすいのだけれども、高雄さんもとい高尾山は東京にもあるので、此処と間違えやすいのだとか、ここは京都の。

 醍醐寺、さくらの回廊と勝手に読んでいるのですけれども、三宝院という豊臣秀吉由来の堂宇というか御殿の様な建物を更に楼門の方へ進むとともに回廊のように構成されていて、その先で法堂へと向かうのですが、先ずこのあたりから観桜の凄さに圧倒されます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】平野神社観桜,人工知能はさくら吹雪の夢を撮るか?2020年代に2030年代を未だ期待する

2024-04-17 07:00:54 | 写真
■さくら吹雪の夢を見るか
 京都をはじめ毎年同じような話題を同じような季節に紹介しているところではあるのですけれども。

 人工知能はさくら吹雪の夢を見るか?2020年代に2030年代を未だ期待する、こう銘打ち、AI人工知能の話題を平野神社の写真と共に紹介しましたのは昨年のこの季節でした、大急ぎで調べましたならば2023年4月16日とありますので、一年前でほぼほぼ。

 平野神社とAIの話題は、直接関係はないのですが要するに初詣の季節に平野神社を紹介していますので、その深い歴史というものは十数週間前に語りつくしている故の幕間の話題といえるものなのですが、平たい文章については確かにAIは頑張っているようにも。

 小説家とイラストレーターはAIが発達しても仕事を奪われない業種である、とCNNでしたかNHKでしたか、2010年代にAI人工知能の発達を背景に想定されていましたが、模倣、というAIの特性を考えますとこの二つこそ脅かされている、といえるでしょう。

 尖った文章である必要から、過去の自分の書いた文章すべてを記録させ、且つ過去自分の読んだ書籍や学習機会を入力させることで、本人の模倣を可能とするAIが開発できるのかもしれないが、現状AIが書いてくれるのはWikiのようなあたりさわりのないもの。

 ガイノイドのようなものにAIを搭載させて人間社会の一員として生活させることで、人間的な学習を積み重ねるまでは、単なる模倣でデスクに叱られるような文章しか書けないのが実情なのだろうなあ、と最先端の技術を見てさえも嘆息するのですが、ただし。

 写真は。時間のない中に将来的にこの北大路機関の一部をAIが補助してくれることを考えたのですが、AIは写真をどのように撮影してくれるのでしょうか。いやこの点こそ、たとえばCANONがAI搭載カメラを開発した事で少し期待したものなのですけれど。

 人工学習ということで、わたしはてっきりCANONのカメラ連動画像処理ソフトがカメラには同封されているので、これまでCANONユーザーが撮影した膨大な写真を、手動でも、学習させることで撮影のタイミングをカメラに教えるAIが搭載されるのだ、と。

 良い写真と失敗写真を、例えば祭事撮影、例えば行事写真、例えば鉄道写真、例えば報道写真、まあ一般的にはスナップ写真や学校行事に旅行写真など、これが100点最高の構図で、これは70点まあまあ構図、60点の及第点と15点の失敗写真、という感じ。

 CANON,しかし考えればAI開発の部署の規模は特段大きな規模ではありませんし、AI開発のスタートアップ企業を買収して傘下に置いたわけでもない、そして聞いてみると、AI搭載というものの学習させる能力がない使いにくい器材という苦情が聞こえた。

 UGV無人地上車両に搭載して行事の際などに助手一号助手二号、という感じで撮影者本人の居ない角度から過去その撮影者が撮影したような構図をズームと広角を使い分けて撮影し、そして周りの邪魔にならないような撮影、ということは技術的に可能なのか。

 カメラメーカーが本気になって、過去の本人が良い写真だ、と太鼓判を売った写真の構図を再現するような、AIを撮影者が教育できるカメラを開発して、その上でまともな性能のカメラ、AI補正ではなくミラーレスでもコンデジでもカメラを自律操作できれば。

 人工知能はさくら吹雪の夢を撮るか?2020年代に2030年代を未だ期待する、まあなんというか昨年の、人工知能はさくら吹雪の夢を見るか?2020年代に2030年代を未だ期待する、という文字をひねればこうした期待を今年新たに待ってみたくなったのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】平野神社観桜,四月十日は桜花祭と花山天皇神霊は神輿の御輿を迎えるこの春満開の桜花たち

2024-04-14 07:00:08 | 写真
■平野神社桜花祭
 この週末は彦根城等が満開なのですが桜花もさて次の火曜日水曜日の悪天候とともにいよいよというところなのでしょうかねえ。

 鳥居には扁額が戻り、台風被害から拝殿も復旧した先に本殿も修復は完了していてもとどおり、いやCOVID-19新型コロナウィルス感染症もそのさきにはありましたが、花見客用のお酒とかの出店も出ていませんが、個人的には静かで、観桜を愉しめる季節という。

 平野神社、桜花祭を迎えました。四月十日に祭日が明確に決められていますので、例えば4月14日の日曜日に今宮のやすらい祭を行っていますがこちらは曜日で決めていまして、行きやすい曜日を調整するのか、それともやはり祭日は動かさないようにするべきか。

 桜花祭というのは花山天皇がはじめて桜の木を御手植えしましたことを記念する祭事でして、もともとここ平野神社は奈良時代から続く皇太子守護の社殿でありまして、この祈りと共に平城京から平安京まで遷座した寺院なのですが、神紋はさくらとなっていまして。

 花山天皇、在位期間は特段長くはないのですが、改革の天皇として知られていまして、そのなかには梅花の花見から桜花の花見に切替えた事でも知られてまして。それまで宮廷文化での花見と云えば観梅が一般的ではあったのですが、観桜にきりかえていました。

 観桜、これは開花の期間が梅花よりもみじかい桜花となっていますので、いわゆる遊興となる花見の期間を短縮した、という事でしょうか。花山天皇は無駄を省く、いまふうにいうならば行政改革か、こうしたことを断行しましたが、反発を買う事もおおかったという。

 御輿、さて子供の頃から御神輿を担ぐ事は数多いのですけれども、考えればここ平野神社の桜花祭は花山天皇をまつるものですから、この神輿の御輿は花山天皇の神霊を祀っていることとなりますから、天皇さんご本人をそのまま祀った御神輿というのは珍しいのか。

 暖冬という事で実はこの桜花祭は心配していたのです、なにより桜花祭でしたので散ってしまってはこまる、四月十日の祭事ですので既にサクラサクは経ているのでしょうけれども昨年等はもう四月十日はサクラチルという状況におちいってしまっていたのですから。

 寒い春、そう驚いたのは確か節分までは物凄い暖冬であったので下手をすると二月中にさくらが開花してしまわないかという危惧もあったのです、こんなに暖かくて大丈夫なのか、というほどに実際スキー場も全国でどこも早々と店じまい、シーズン営業を終了していて。

 開花時期は、しかし平年よりも若干遅いといいますか昨年が異常な暖冬でほんとうに開花が早く四月一日にはほぼ散ってしまっていたような状況でしたから、もう昨年と比較すると二週間ほど開花時期が違った、という感じでして、故に今年は本当におそくかんじた。

 この週末などは全国でも夏日がありましたほどですから、もうこれは気候変動、というものを感じるのですけれどもしかし、四月初旬は開花を経てまた寒さが戻ってきましたから、さくらの期間が長く感じました、いや梅花の開花は暖冬ではやかったこともやはりたしか。

 花見では梅花が二月初旬から華やかな季節となっていた、いや一月の内から梅花は咲き始めていましたから、一月下旬から四月後半まで、梅花に桜花という、もうこれはとても長い期間を愉しむ事が出来ました訳で、さてこの先は青葉と、その先は痛い青空、となる。

 桜花祭、御輿が式典を待つところではありますが、そうここでは青空となりまして漸く曇天ばかり続いていました花曇りの季節が終わりまして、春らしい風景となりました。喩え逆光であったとしても、曇天よりも色彩が鮮やかなこの情景の方がわたしはすきです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】平野神社観桜,花曇りと黄砂超え青空戻る京都の空と大鳥居に戻る扁額とさくらを見上げる

2024-04-13 07:01:15 | 写真
■満開の桜は平野神社
 この春も色々と時間を見つけましてさくらを見上げたものですがさてさてどこまで紹介できるのだろう。

 さくら満開の季節、カメラを片手に散策しました際にどうしても今年は花曇りという言葉が適合する程にどうしても空が白く曇り、若しくは大陸からの黄砂が視界を遮ってしまう事も多かったのですが、満開を少しだけ過ぎた頃にようやく青空が戻ってきた印象です。

 平野神社、初詣の定番という一つとして位置づけているのですけれども、もうひとつここは観桜という文化の始まりの神社であることも初詣などの際に示しましたとおりです。しかし、平野神社、春がきたなあという印象とともにことしはもう一つ感慨深い。

 扁額、鳥居の扁額がようやく配置されまして、考えてみると平野神社、2018年の台風被害からの復興に非常に大きな時間がかかりましたが、鳥居の扁額の復興とともにようやく、あの災害の前まで戻ってきた、という印象でしょうか、COVID-19よりも前だ。

 台風被害はおおきなもので、拝殿が倒壊しました、全壊よりも大きな倒壊で巻き上げられたことですべて破損してしまいまして、その復興に仮拝殿を構築して、そして、江戸時代の再建されたものをさらに台風被害からの再建ということになったわけですけれど。

 COVID-19の前には拝殿の復興が目処もたった、こういわれたところで喜び勇んで参拝に歩み進められたかたもおおいのでしょうけれども、拝殿の復興は破損という非常事態を背景に進められたものですから、ようするに予定されていた修復作業を棚上げしていた。

 本殿修復は拝殿復興とともに開始されましたので、もとどおりになった拝殿のまえにありました本殿は、やはり足場が組まれて少し後に覆いで覆い隠されてしまいまして、要するに台風被害前の平野神社というよりは修復中の神社というような外見となったかたち。

 桜花の季節、それは昨年の話題なのですけれども今度こそ日常の、昨年の桜花の季節にはまだCOVID-19には感染症法上の五類変更前の二類相当とされていましたけれども、まあ致死性と社会維持と秤に掛けて再起動を始めた頃に参拝しますと、今度は扁額が、と。

 しかし、これ西大路通りから平野神社の観桜を迎えた鳥居を眺めますと、そういっけんして紅白幕が鳥居の向こうに見えるのです。COVID-19の前にあって平野神社は、観桜の季節には出店が並んでいまして、非常な喧噪の先に神社がある、という印象でした。

 団子か花かなんて言葉もあるのですけれども、ここでの酔客は参拝くらいはしたのだろうかと少々場所柄を考えてしまった以前に、やっぱりうるさいのは苦手だったなあ、と思いつつCOVID-19の時代には、静かすぎるのも考え物か、と贅沢な思いをしましたが。

 コロナ前、とは今年の平野神社も行かなかったようで、出店などはなく静かに観桜をたのしむべく桜苑が有料公開されていました。ちょっと心引くのですが一歩引けば、桜苑には神社を象徴するものはほぼ無く、みれるのは桜だけ、ちょっとなあ、と思うところ。

 日常の再開、そうこの日の参拝は特別な日に歩み進むことができるようになりまして、時間を何とかあけた次第です。それにしても昨年は桜の開花が早すぎたこともありますから、ちょっと残念ではあったのですけれど、満開、という言葉が適合するような情景だ。

 NHKが空撮の準備をすすめていまして、もう散り始めなのかという理解で望んだところ、NHKさん的には見頃、であったようで、そして特別な日ではあるのですけれども思ったほどの混雑はなく、所用を早めにすませた余裕とともに、いよいよ参拝へ臨みました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,嵯峨野のこの静けさと観光過多下京都の忙中有閑は数多市中寺社仏閣に在り

2024-04-11 07:00:54 | 写真
■この静かな観桜と拝観
 静けさというものこそが情感を実感に置換えて思考と哲学と日々の精神の清涼剤とするには重要な要素だとおもうのです。

 大覚寺、観光過多が叫ばれる京都なのですが何故かここは静けさが保たれている。なぜだろうか不思議なのです。多宝塔と大沢池の情景は、多宝塔の造営は確かに戦後なのだけれども、大東亜戦争と太平洋戦争の犠牲者鎮魂という寺院らしい所以がある。

 嵐山駅から距離があるからかとも考えたのですが、距離があるとはいっても知れている距離ですし市バスも頻繁に運行されている。すると歴史の短さがあるのかと追われれば創建は平安初期、ここよりも歴史の長い寺院は京都でもそれほど多い訳ではない。

 応仁の乱の戦火には見舞われていますが、寛永年間には復興を終えている、というよりも先ず門跡寺院でしたので多くの建物を京都御所から賜るなど、寺院に流れる宮廷文化という日本独特の風情と情感を湛えていますし、なによりもここ大沢池があるのだ。

 大沢池は、人工池泉としては日本最古のものだといいます、記録されていないだけで実はあのため池は二千年前の土木工事で、というものは実はあるのかもしれませんが記録がはっきりしているものはない、ここはかつて舟遊び、いまは農業用として現役で。

 高雄と愛宕を借景として池の向こうに見えます風景というものも、そう水面に映る情景といいますと宇治の平等院を思い出すかもしれないのですが、池泉の規模は寺院としては京都でも最も広い水面と峰々の借景なのではないか、するとますますわからない。

 観桜の季節、それはもう京都旅行を思い立つ距離が遠ければ遠いほど、なにせ観梅と違って観桜は一瞬で散ってしまいますので、京都探訪の最中に咲いている保証はないのですけれども、すると一点豪華集中の様な構図が成り立っているのかもしれません。

 天龍寺、は一応混雑しているらしい、それは嵐電への帰路の際にここには人は居るのだなあと感じた故に。あとは、金閣寺も混雑しているのかもしれない、バス停を見るだけでは如何は落ち着いたのちに使用、と感じる故に。清水寺も、まあ混雑しているか。

 東寺は日曜日にもそれほど混雑していない、此処ほど疎らという訳ではないのですが混雑という印象はありませんでした、それも先日といえばまさに満開という頃合いですので、入れないほどの混雑を覚悟していましたが、穴場なのか運がいいのか、さてさて。

 清水寺は混雑しているのでというのですが具体的には、火曜日の高台寺界隈は仕事の関係でいった話ですが、それはもう凄い混雑であったものといい改めて二年坂を通じて高台寺界隈と清水寺は直結しているのだ、と。バス駐車場の有無という関係もあるのかな。

 日曜日の夕方に、ちょっと帰路に就く前にお洒落なお店で一杯やろうか、と考えますとここではオーバーツーリズムが凄いのです、チェーン展開の焼き鳥屋もラーメン屋さえも場所によっては長蛇の列でして、いっそ此処起業しようかしらん、とおもうほどに。

 日本観光、エキゾチックなジャパニーズカルチャーにフレッシュナブルでサステマチックにシステムエラーのオリエンタルなゴージャスの、というのかもしれませんが、数ある街並みから京都を選ぶのですから、もう少し来ていてもよいと思う場所があるのだ。

 京都はオーバーツーリズムで混雑している、というのは残念ながら事実ではあるのですが、混雑しているようだから行くのはやめよう、というほどには、大覚寺のように静けさを保ち拝観の時間を過ごすことのできる場所もあるのです。そう、ここも嵐山なのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする