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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】真如堂,洛東の隠れ寺に極楽具現願う本堂と八仙過海世界観の霊地

2025-08-21 20:23:24 | 写真
■岡崎の真正極楽寺を巡る
 岡崎の界隈は年齢を重ねるとともに見え方が変わってくるように思えるのですが最初の散策は若いころいや幼いころからの方が趣き深い。

 総門から眺めます真如堂、赤門とも親しまれる不思議と敷居ない寺院の総門は元禄時代の西暦1695年に造営されました。この妙は神楽岡吉田神社が御山の西側に鎮守していまして、神々が真如堂を拝観に参る際、躓く事の無いようにとの元禄時代の価値観とされています。

 真如堂、ここは京都市左京区浄土寺真如町に鎮座します天台宗の寺院で、正式には真正極楽寺といい、山号は鈴聲山、永観2年こと西暦984年に造営された寺院です。寺名は極楽寺と名乗る寺は多いがここが正真正銘の極楽の霊地、正真正銘の極楽の寺との由来がある。

 円仁、当寺の開基は永観年間、霊木を彫りました阿弥陀如来を奉じるべく堂宇を建てたのが御山のはじまりとされていまして、真如堂はもともと本堂を示す名であったとつたわる。岡崎の地は少し起伏と京都大学の広がる学びと哲学と科学の地に静けさは一層際立ちます。

 三重塔は文化年間の西暦1817年に造営されたもので平安朝の頃のものを再建、多宝塔は本瓦葺であり30mの高さで印象付けるものです、囲む木々は櫻に椛と季節折々の情景を醸すもので、塔を見上げる位置にお休みどころの長椅子と屋根の庵があり、ここも空気が澄む。

 洛東の隠れ寺、観光過多と呼ばれた時代は2010年代の一億総観光時代として日本は勿論世界中の観光客を招きましたが、急ぎ過ぎた時代であったようにも思いまして、寺院というものは早歩きで廻るものというには、湛えた千年を超える歴史は抱え込めないようおもう。

 うなずきの弥陀、とします御本尊を奉じています。本尊阿弥陀如来像は女人を救う仏、女性の信仰を集めた寺院です。こうして開かれた寺院は、しかし不思議と長椅子と腰掛ける配慮が点在していまして、住職の方々の、御寺を巡る心構えに応え合せをしているような。

 本堂は享保2年こと西暦1717年に再建されたのが現在の本堂となっています。七間四面総欅の本瓦葺入母屋造となっていまして、建材には寄進者が先祖代々菩提の為と記されていて、享保年間の頃から庶民に親しまれ寄進により成立っていた事を端的に示すようにも。

 本堂内部は夕刻の夜の帷とともに戸張が閉ざすまで自由に拝観へ開かれています外陣、金箔の天蓋や瓔珞が厳かな静けさを醸し祈祷や修行に祈り進める内陣、そして信仰の願いのみ受け入れる御本尊の阿弥陀如来が鎮座しました須弥壇の内々陣、こう分かれています。

 須弥壇の内々陣、見上げる外陣には転々と座布団が置かれていまして、本堂には様々な風と木々との音、お香と様々な歴史とともに積る不思議な香りが雰囲気の文字の意味を示すが如くの風情を湛え、一息つく、この語源を反芻するように触れ、時を過ごす事が愉しい。

 内陣との結界には、早春に大涅槃図、晩秋に観経曼荼羅が飾られていまして、そして内陣左脇にあります仏間には、中央に文殊菩薩像が、そして両脇に天台大師像と伝教大師像が祀られ、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人とも所縁ある歴史を感じられる。

 本堂の欄間には八仙過海、中国の神話を象る風情が。三重塔、山門、元三大師堂、鐘楼、こう京都府指定文化財が並ぶところです。御寺そのものは永観年間の建立ながら、江戸時代の“新しい”建物が並ぶのは複雑な歴史、創建の地からここに至る歴史を秘めています。

 洛東の隠れ寺、普段の静けさながら紅葉の季節と桜花の季節には観桜行楽に、といいたいところですがコロナ時代、COVID-19感染拡大を契機に桜花の季節も紅葉の時節も幕間のような静けさが戻りました。不思議な日常、これもまた新しい愉しみなのかもしれない。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】即成院,稀代の風流人橘俊綱開祖寺院は安楽の旅立願う波乱の歴史

2025-08-20 20:25:01 | 写真
■阿弥陀如来二十五菩薩像旅路
 世の中は移ろうものですが寺社仏閣も遷座と色々な歴史を辿るもの、このブログも移転できないデータは消える運命という事になるのですが、今回はこれに関連して、しかし今回はほんとうの波乱の歴史を湛えるお寺を散策しました。

 即成院。京都市東山区泉涌寺山内町28に鎮座しています泉涌寺の塔頭のひとつです。京都で一番イケメンの狛犬がいる寺院として、個人的に推しているのですが、那須与一ゆかりの寺としての方が有名でしょう。そして京都には不思議な寺院が多いのですが、此処も。

 光明山即成院を山号とします寺院は、JR東福寺駅から指呼の場所にある泉涌寺、しかし指呼の距離は総門に至る長い長い参道の始りを示しまして、この中でも即成院は泉涌寺総門のすぐ手前という、日常に拝観するには優しい立地に鎮座しています。幾つか興味深い。

 那須与一、平安朝末期から源平合戦において我が国随一の弓の名手として知られた那須与一の墓所と伝わる寺院であると云共に、そもそも即成院という名の由来が即座に成仏できる来迎を祈念する、という、なにか諦観と達観の中央を射抜く謎の崇敬を集めているもの。

 那須の与一さんとしても親しまれるお寺は、正暦3年の西暦992年に創建された光明院と寺伝に伝承として残っていますが、光明院として東福寺塔頭とも重なる印象があり、更にふかくと調べてみますと伝承である事から詳しい建立の時機は不明とも伝えられています。

 橘俊綱。歴史に残る確かなところでは橘俊綱が中興させたという事で、橘俊綱は関白藤原頼通の次男であるとともに正四位上修理大夫であり、在職中には後朱雀天皇と後冷泉天皇と後三条天皇に白河天皇と堀河天皇に仕えた平安朝末期の高級官僚、風流人と伝わります。

 伏見山荘という邸宅を造営した橘俊綱は、日本最古の庭園書である作庭記の不詳の著者として有力視される風流人であり、風流勝他-水石幽奇也、と古典文学今鏡に記されると共に、白河上皇に院政の鳥羽殿を示されたところ伏見山荘の方が良い、と自称した程だという。

 伏見寺即成院という名が建立当初の名であり、この頃には泉涌寺の塔頭ではなかった事を示すものですが、来迎引接の情景を仏像似て再現しています。これは没後に阿弥陀如来が諸菩薩と共に西方極楽浄土へ迎え取る様を表したもので、没後も風情を望んだのでしょう。

 青椛が溢れる寺域は、晩秋には紅葉に溢れ泉涌寺塔頭寺院の多くが池と風鈴はじめ端整な情感を醸し出していまして、当時の遺構は必ずしもすべてを継承されている訳ではないとしましても、一種風流人が開基とされる所以を気風というものから感じる事が出来るよう。

 阿弥陀如来二十五菩薩像を本尊として奉じるお寺は、十五体が江戸時代に彫像された菩薩像とのことですが、十体は平安朝の彫像といい、元々はこの御堂そのものが伏見、もう少し南に鎮座していたと伝わります。御香宮神社が現在鎮座する当り、という事でしょう。

 遷座の背景には、豊臣秀吉の伏見城造営という歴史的転機が在りました。しかし興味深いのは遷座先は現在位置ではなくもう少し南で、実は泉涌寺塔頭寺院となりましたのは明治時代に入っての事といいます。廃仏毀釈により一度は廃寺になってしまったのですね。

 阿弥陀如来二十五菩薩像により迷わず極楽浄土へと祈念する寺院の仏像が迷ってしまったのは皮肉ですが、阿弥陀如来二十五菩薩像はそのまま泉涌寺が引き取り廃仏毀釈での破砕を免れました。明治20年の1887年に仮本殿が再興されますが、名は法安寺となります。

 即成院の名が再興されたのは昭和16年、1941年という太平洋戦争開戦の年を待たねばなりませんでした。成仏というものはこの通り、成仏願う仏像さえも簡単ではない事を示すのですが、大切なのは今である、とイケメンの狛犬が今、示しているようにも思えます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】頂法寺六角堂,聖徳太子-小野妹子の華道発祥の伝説は京都繁華街と池の辺に静かに佇む

2025-08-20 20:00:56 | 写真
■京都街中に千四百年の歴史
 京都散歩の一つの醍醐味は壮大伽藍拝観も良いのですが、敷居抑えた街中の庵を気ままに巡る楽しさも挙げられるでしょう。祇園祭の喧騒も届かず雑踏を避けたい方にも祭のこんちきちんを感じる良い風情で。

 頂法寺六角堂。ここは京都市の中心部、地下鉄烏丸御池駅からほど近い中京区六角通東洞院西入堂之前町に所在しています寺院です。西国三十三所第18番札所である寺院は華道と池坊の発祥の地であり、寺伝によれば生け花という日本の美意識はここが源流という。

 古都京都と称しますこの街並みでは確かに至る所に歴史を感じさせる寺社仏閣街路情景文化伝承社会通念が活き活きと紡がれているのですが、六角堂は、文字通り中心部の一角、街中では平安遷都の頃には考えられないようなビル群の只中に鎮座しています寺院です。

 六角堂、その名の通り六角形の御堂は拝観とともに御本尊こそ秘仏であり心に拝む信仰の寄る辺ではあるのですが、街中の御山は夕刻の閉門までは拝観に特別の手続きや喜捨寄進料金のようなものは求められる事は無く、日常の歴史として空気風情を感じる事が出来る。

 如意輪観音を奉じる御山は醍醐寺本である諸寺縁起集に伝わるところによれば、聖徳太子が開基を務めたという。その建立が用明天皇2年の西暦587年まで遡るといいまして、当時に日本では仏教か有力豪族物部守屋率いる廃仏かの大論争の只中に建立された、という。

 如意輪観音の御本尊、その由来ですが、かの聖徳太子が驚くべきかな前世の唐にて仏道修行していた時に信仰していた仏像が、淡路国岩屋浦に流れ着いていたところを縁にて聖徳太子の手元に還り、これを奉じる為に建立した寺院がこの頂法寺、とのこと。秘仏な訳だ。

 六角堂、その名の通り真上からは六角形の御堂となっているのですが、複雑に入り組んだ建築様式であるがゆえにその御堂は見上げる場所と場所とに印象をこと成らせるものでありまして、聖徳太子沐浴の古跡には清水が湛えており暑い夏の日々も水音が響いています。

 本堂は六角堂、平面六角形積層構造の屋根とともに入母屋造千鳥破風付礼堂が隣接している構造となっていまして、御堂に入って参拝しているように見えますが屋根の下に拝する位置は全て入母屋造千鳥破風付礼堂までとなっていまして、六角堂は実は非公開という。

 明治10年の西暦1877年に造営された六角堂。寺伝によればここに1400年以上の連綿たる歴史を紡いだことにはなるのですが、過去の史跡調査では飛鳥時代の遺構はなく、しかも区画整理が平安遷都後も近世に幾度も行われ大火にも何度も見舞われている立地です。

 華道。ここ頂法寺は華道発祥の地とされています、小野妹子、遣隋使で知られる飛鳥時代の聖徳太子側近は、聖徳太子が入道としまして、つまりは生涯の旅路に就く床にて聖徳太子直伝の作法にて仏前に花を供えたという、これが華道の始り、と伝えられています。

 池坊。そして此処が池のほとりにあったことから“池坊”としまして日本独特の美術観を醸成する発祥の地となった訳ですね。もっとも華道の始りについては諸説あるようで、小野妹子と稼動の歴史についても室町時代より定着した研究の成果とされ、定かではない。

 ただ、史跡というよりも、華道が様式化されて以降はここを華道発祥の地として伝説とともに伽藍の美観を保つ努力は為されていまして、信仰と似たものといえるのでしょうか、今日に至る華道の美術感覚こそが、頂法寺六角堂の一つの大きな意味なのかもしれません。

 紫雲山と山号を示します頂法寺六角堂。この御山は天台宗系単立寺院と位置づけられているものでして、街中の、それこそ徒歩十数分で若者趣味のお店が並ぶ寺町通りにも通じる立地において、しかしここは古都なのだ、という風情と気風を湛える寺院の一つなのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】青蓮院,仮御所は青蓮院旧仮御所と華頂殿の襖は幻想的な情感

2025-07-16 20:25:15 | 写真
■霧島の庭をめぐり
 撮影の最中にバッテリーというのはフィルム時代のフィルム切れを思い出すようで世の中便利になったのか不便になったのか。

 青蓮院の庭園を眺めて。毎回思うのですが、このEOS-M5というのは、CANONのミラーレス機全般に言えるのですが、バッテリーの持ちが悪く、基本的に予備バッテリー一台あればどんな状況でも一日中撮れる一眼レフとはちがう。

 庭園を巡るとともに今回撮影に用いましたEOS-M5はバッテリー残量が微妙になってきます、理由は簡単で一眼レフはバッテリーを入れっぱなしにしておいても、自動停止機能により一定時間で電源がきられ、電気消費を抑えることができる。

 一眼レフに対してミラーレスは接眼検知機能が邪魔をして一分後に切られた設定の電源であっても、接眼部分近くに触れると電源が入ってしまい、都合一枚も撮っていないのにバッグの中で電源を使い切るという事は幾度もある、CANONの落日だ。

 鎌倉時代、この庭園は三条白川が幾度も水害に見舞われるようになりまして、何しろ今と違い御土居の堤防が無い時代ですので水浸しとなれば黴と疫病と流失と汚水に汚泥と害虫にろくなことがなく、現在地に遷座する事となりました。

 十楽院、もともと当地には十楽院という寺院があったそうですが、いまは地名に残るのみという。梶井門跡、三千院と今は呼ばれている寺院ですが、13世紀初頭には門跡寺院として梶井門跡とならぶ地位を有していたといいまして。

 華頂殿の襖、という一つの大きな建物を幾つもの襖で区切った、幻想的な情感がわたしは個人的に好きなものでして、此処、冷房がありませんので実は拝観は真冬のほうがお勧めなのですが、夏の極彩色の情景もなかなかといえるもの。

 御所として機能した時代もあった、それは江戸時代の天明年間、西暦1788年に京都を襲った天明の大火により、御所の内裏が焼失したという災厄がありまして、このとき青蓮院は当時の後桜町上皇仮仙洞御所となったという歴史があります。

 仮御所ということで青蓮院旧仮御所という、ちょっと格式高い建物もあるのですが。本堂、宸殿、小御所、華頂殿、叢華殿、好文亭、堂宇は小さくとも気風があり、それゆえ1993年に中核派の過激派が放火事件を起こしたこともありました。

 宸殿は明治時代の建築ですが、もともとの宸殿は後水尾天皇中宮である東福門院の御所が朝廷より寄進され移築したというものでして、現存するものではないのですが、再建に際して当時の気風をできるだけ、当時の限界もあろうが、再現しているもの。

 霧島の庭、こう書きますと、イージス艦の名前のもととなった旧海軍の高速戦艦を思い出すことがあるかもしれませんが、庭園は二つありましてひとつが室町時代に相阿弥の作と伝える築山泉水庭、そしてもう一つが江戸時代、小堀遠州の作と伝える霧島の庭と。

 枯山水庭園派とも買うとして、真夏の熱波に苔が耐えきれずに枯れてしまうなど、気候変動を前回に紹介しました通りの少々さびしいこともおこっているのですが、拝観の際にはちょうど苔の張替えが行われている最中でした。

 東山、といえば京都を代表する情景を醸し、東山文化を形成しているところですけれども、こちらは中でも、地下鉄東山駅から指呼の距離に、こうした情景と、歴史と、変化というものを湛えている、青蓮院さんの拝観でした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】青蓮院,古都とは何か-比叡山山頂は最澄が建立した青蓮坊が青蓮院の始まり

2025-07-16 20:00:06 | 写真
■青蓮院-古都とは何か
 先週多忙に付ちょっとまが開いてしまいましたが。

 青蓮院、しょうれんいんと読みますこの寺院、京都市東山区粟田口三条坊町、地下鉄の東山駅近くにあります天台宗の寺院です。本尊には熾盛光如来をほうじていまして、もとは比叡山延暦寺を開きました最澄さんの庵がはじまりという。

 比叡山東塔に南谷というところがありまして、ここに最澄が建立した青蓮坊が青蓮院の始まりという。もっとも、いまその南谷を単奉仕ますと、そこには延暦寺第三駐車場、もう少し格好いい駐車三庵とか名前にしてほしかった施設が並ぶ。

 慈覚大師円仁、安恵、相応、多くの僧侶を排出しています。円仁さんは第3代延暦寺座主となっていますが、駐日大使を務めたエドウィンライシャワー氏が研究論文を発表するまで知名度は低かったという、20世紀の話題を兼ねて知られます。

 青蓮院さんの拝観、門跡寺院となっていますので建物が様々な構造のもの、格式というものと共に並んでいまして、この新緑が深い緑へと転換した夏の季節には熱い夏を彩る陽光の色彩天然色が特に印象深いのですね。

 真夏というのは地獄のような季節を醸すのですけれども、太陽はま上から強烈な陽光を寺仕込みますので、逆に室内は天井が影となりまして、少し薄暗い環境となります、冬は真横から、すこし明るく仕立ててくれるのですが。

 陽光の角度は室内の陰影をくっきりと濃淡白黒わけてくれます、一枚一枚の写真ではわかりにくいのですけれども、並べて眺めてみますと、何か意味のあるような象形文字のような、違う世界観のようなものを。

 京都と云えば混雑、とはいっても混雑するのは繁華街と一部の寺院だけですので、青蓮院さんはその対象外となっていまして、ひとのいない寺院の静けさ、しいん、と音が擬音を醸しそうな風情さえ見られるのですが。

 三千院とならぶ門跡寺院となっている青蓮院さんですけれども、その拝観の都度に思うのは、歴史とは何か、古都とは何か、というところです、それは特に三千院さんを思い浮かべると、現在地に遷座したのは明治時代の事だぞ、と。

 比叡山の山頂にあった青蓮坊、その遷座はしかし実のところかなり古く、平安時代末期の青蓮坊第12代行玄大僧正の時代であったといい、決して織田信長にやられたからというような遷座ではありません、ただ、最初の遷座は三条白川へ。

 三条白川、遷座は現在の青蓮院から見てやや北西の三条白川に、久安6年こと西暦1150年に遷座したとあります。この明確な歴史に残っています背景には、当時の鳥羽上皇と美福門院皇后が行玄大僧正に帰依して祈願所とした、という歴史ゆえ。

 鳥羽上皇は第七皇子覚快法親王を行玄のもとへ出家させたという出来事がありまして、これが今に至る門跡寺院としての青蓮院の歴史のはじまり。ただ、遷座したものの青蓮坊はそのまま比叡山の山頂に残っていた、こういう話がある。

 山頂の青蓮坊は室町時代に廃絶するまで残っていたといい、これはなにか、Weblogのgooブログサービス廃止を前に移転で右往左往している中、移転後もgooブログサービス終了までこっちも残せたら、と考えている当方には少し羨ましく思える。

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【京都幕間旅情】青蓮院,庭園の緑から読み解く気候変動による温暖化と国際関係への不協和音

2025-07-02 20:25:27 | 写真
■気候変動
青蓮院の苔がやけていたところで気候変動を実感したと紹介しましたのは何年前でしたでしょうか。

地球温暖化よりも気候変動そのものの方が問題だ、これは二十年ほど前、前期課程の頃に強調していたことなのですが、気候変動の危険性を甘く見ているのではないかという表現をしましたが、これ、外でやると。

単に”地球温暖化懐疑論”と一緒くたにされると云うことに驚かされました、温暖化では無く起きているのは気候変動である、と。当然その気候変動には温暖化が含まれるもので、こう付け加えているのですが。

この部分、全体を聞かずに一部の言葉狩りのように我田引水する論理が、ポピュリズムの温床になっているのだなあ、と。温暖化、これは単に暖かくなるだけであれば、今まで農業が負荷応であった地域での農耕が可能になるということで。

温暖になるだけならば、一見地球全体で見れば食糧生産可能な地域が増えるという利点が見えてきます、が、問題としている気候変動では、地域によっては冬期の寒冷化が進みすぎ、ということを想定せねばならない。

また地域によっては温暖化と云うよりも雨量そのものの総量に変化が生じて、砂漠化、とまではいかずとも農業用水の確保が困難になり、地域全体が居住に適さない状態に陥るという懸念が出てくる。

このあたり、気候変動という単語で全体を俯瞰しなければ、温暖化という安易な言葉を使った場合には、冬期の降雪量や気温を例に出して、懐疑派から冬期の温度は寒冷化している、と言う。

これは逆に温暖化では無い論に利用される数値を示してしまう。気候変動が温暖化以上に懸念しなければならないのは上記の通り、いま居住している地域の環境が雨量と温度とともに、冬期に居住が極端に難しくなる地域が。

夏季には気温が50度を超えるようになり森林の保全と云うよりも外を歩けない地域がでてきて。特に温暖で人口の多い地域が、途上国の経済発展の最中にこうした影響が及び、地域不安定化の要因となる懸念も。

これが年間平均温度でみれば帳尻がとれていても、居住可能地域の偏差に問題が出ること、そしてグローバル社会という単語が二十数年ほど前には流行となりましたけれども。

人間の移動はやはり結局の所国境と文化と社会や宗教に左右されるものですから、これは極論だけれども、ガザ地区は爆弾が振って危ないからテルアビブに移住しよう、という論理が成り立たないような安全保障上の視座が。

気候変動による気候難民にたいしても成り立つものだ、と言う視座が必要なのかもしれません。これは理想論での自由な移動、国境の開放という理念が、成り立ちそうであったのは1990年代から同時多発テロ直前の2001年初頭までであり。

結局、居住環境を移動させるというのは一時的な就労はともかくとして。居住起点を入れ替えるという永住地の移動は、気象を理由とした広域の移動には適さないというか、現実的では無いことを示しているのですね。

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【京都幕間旅情】青蓮院,梅雨時の短さと梅雨明けの雨天曇天と祭事をとりまく気候の視座から

2025-07-02 20:00:31 | 写真
■梅雨の京都
梅雨明けに梅雨の話題が追い付くというのが遅筆の北大路機関らしさということで。

梅雨の合間に東山の青蓮院へ行って参りました、降るかな、と思った空は曇天のままでして、しかし京都には雨だからこそ愉しむ事が出来る拝観、つまり堂宇のなかから雨滴に濡れる事無く拝観できる寺院が多い。

青蓮院もその一つでして、そう、庭園散策は雨天の場合にはちょっとこまるのですが、堂宇から、静けさの中で眺める情景は心休まるものです。そして門跡寺院ならではの伽藍の入り組んだ構造は視覚を様々な角度へいざないます。

梅雨明け、梅雨が、ことしもというか早く終わりまして、例年は梅雨時にこそ輝く紫陽花が空振りのように取り残されているという今日この頃です。梅雨の晴れ間の紫陽花というのはほんとうに、いい。

紫陽花というのは、広角レンズで近く寄って撮影しても、望遠レンズで背景をぼかして撮影しても、被写体を堂宇か紫陽花か、伽藍とどのように構図に含めるかなど等、撮影していますと中々に考えさせられるところで。

梅花桜花ほどではないけれども、綺麗な季節は限られているゆえ、今週は何処に行けるだろうか、梅雨の晴れ間と都合の付く時間を見比べ、どのあたりが咲いているだろうかと考えるのも一つの楽しみでしたが。

降らないと紫陽花というのは干からびてゆくような構図がちょっと寂しく思います。ただ、思えば例年と比較すると、桜の開花時期が非じょうに遅かった故に、春はかいてきに過ごせたように思える。

実際問題、今年は異常気象、こんなに早くから熱い、こういうコメントを報道バラエティ番組、つまり民放の報道全般と、NHKニュースなどを見ていると頻繁に聞くように思うのですが。

実際は昨年の方が熱くなるのは早かったよう、おもう、実際、昨年は四月下旬に冷房を使った秘の記録があるほどに。気象庁の発表を見ますと、例年と比べてそれほど開花時事は遅くなかったように言われていますが。

京都では桜の開花時期に合わせて祭事がくまれますので、この祭事の時期に昨年と一昨年が葉桜だったことを思い出しますと、さくら祭りが葉桜という状況を漸く脱したと云うことでも意味があったのですけれども。

昨年も装でしたが梅雨が非常に短くなり、そして昨年はその分、七月に入って梅雨前線ではない普通の前線による雨量が多かった、災害も発生した、こう記憶します。七月豪雨、という表現が目立ったようにも。

祭事とともに季節を見ていますと、やはり痛感するのは、気候変動、という言葉でしょうか、どういわれましても、祭事とその情景が写真で記録できる時代ですので、気候変動は起きていない、こう説明することの方が無理があるところで。

気候変動の大きさというのは、高温に耐えられない植物が庭園のなかで枯れてゆく様子というものも含まれますし、それは毎日の変化では無く年単位でみていますと、京都散歩の際につねづね痛感することではある。

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【京都幕間旅情】東寺,日常の中に非日常の国際報道を思い浮かべて

2025-06-25 20:25:40 | 写真
■日常の中に非日常
 時間が無い時はどうしてもエッセイのような話題になって申し訳ない。

 東寺の写真と共に、雑感と云いますか心情の吐露のようなことを。私事ではなく報道を見ての雑感なのですが、このところ予期しない事象が多すぎて、その始まりを辿るとCOVID-19まで行ってしまうが。

 イスラエルのイランへの全面攻撃、国境を接していないために全面戦争には至っていませんが、一国の首都を含めてあそこまで気軽に全面攻撃が行われるという実情をみてしまいますと、奇襲対処、これを思い出す。

 日本本土への奇襲対処というのは、冷戦時代に真剣に議論された内容ですが、これも過去の話ではないように、ある日突然、台湾海峡で高まった緊張が京都含め日本へ全面的に飛び火する懸念が生じるわけで。

 ロシアウクライナ戦争を一例にとって、今の時代でも大国が隣国へ全面侵攻するという事象があるのだ、ということを再認識すると共に、北海道などはロシアに面しており、対岸と云うには宗谷海峡は狭い。

 イエメンからサウジアラビアやアラブ首長国連邦へのミサイル攻撃を見ますと、そう、昔ほど弾道ミサイルが高価では無く気軽に撃てる時代になっており、しかも自爆用無人機という安い長距離打撃力もある。

 ミサイル防衛は北大路機関創設東寺から、いや当時から関心事でしたが、THAADミサイルはじめ、高価な防衛システムがあればかなりの確率で迎撃できるようになりましたが、揃えていないとそのまま落ちる。

 インドパキスタン航空戦をみれば自明でしたが、防衛システムを整備していませんと巡航ミサイルでもロケット弾でも射程内であれば簡単に到達する、予算を組んで備えていない場合は国民が犠牲になるという。

 平和を願えば戦争は回避できるという論理ならば、平和を願うのは無料ですが、上記の事例全て、無条件の隷属と服従を質草にでも供しない限り回避できないものばかりで、やはり備えの重要さを感じさせられる。

 終戦80年となった本年ですが、祈るだけでは無く相応の努力をおこなったことで戦争を飛び火させなかったという実情が多く、逆に話し合いでは竹島問題さえ解決しません、長引かせているのみでしかありません。

 原爆投下の目標に京都がふくまれていた、言い換えれば膨大な化学兵器や生物兵器を連合国軍が保有していましたが、これがつかわれなかった理由というものも、考えてみれば抑止力があったからにほかならない。

 化学兵器が使われなかったのは、日本にも化学兵器の備蓄があり、伊号400型潜水艦を筆頭に連合国本土への運搬手段を整備していたためという実情がある、NBC兵器でNだけ人道兵器だから使ったわけではない。

 伽藍の写真と共に、日本は平和だなあ、と思うのは客観的事実なのですが、薄氷の上の平和というものを、自然に維持できると考えず、リアリズムとアイデアリズムを重ねて見てゆかなければ、破綻は直ぐ隣にあります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東寺,古都の堂宇-京都散策を拝観料抜きに日常の散策として考えてみる

2025-06-25 20:00:01 | 写真
■古都の堂宇
京都散歩のわだい。

京都には寺社仏閣様々ですけれども、拝観料が必要なところと拝観料が必要では無いところがあって、この東寺も法堂に立ち入って拝観するには拝観料が必要ですが、このあたりまででしたら自由に拝観できる。

寺院ですので、その寺院なりの哲学と信仰というものがある、もちろん政教分離の我が国にあって、その修繕費用などは自活しなければなりませんから、拝観料は非常に重要なその費用の財源となるのですけれど。

信仰を支えると言う意味では、そう、堂宇を維持するよりも重視しているところなどは、拝観料を取らずに、つまりそのつもりになれば毎日でもお参りすることができる、という一つの哲学があることにきづく。

密教の話題などは、そう、失礼にならない程度の理解と知識、失礼にならない程度というのは自分で図書館などでしれる範疇と、あとは高校日本史程度の知識があれば、いろいろ法話に留まらない話を聞けるのですね。

東寺の散策、拝観料無関係にそうこういうものを散策というのだ、という自由気ままに道行くように伽藍を眺めることが出来る寺院、思い浮かべますと、東寺から京都駅の反対側も大きな寺院が二つ思い浮かぶ。

東本願寺に西本願寺、東本願寺は庭園が拝観料をもとめられるのですが、離れた場所にあります、伽藍については開門時間内は自由にご本尊も親鸞さんもお参りできますし、西本願寺についても、しかり。

東福寺、そう、ここ、通天橋ともみじ谷の上は自由に行き来できまして、おくの庭園と谷については拝観料が必要ですが、もうひとつ、伽藍については三門をふくめて自由に拝観でき、お参りは毎日でもできます。

大徳寺も、そう、塔頭寺院の庭園は拝観料が必要ですけれども、北大路通に面した街のような風景、大徳寺はどんな季節も歩いてみますと壮大さに胸打たれるのですが、ここも散策の一環としてお参りできる。

相国寺も、金戒光明寺も、妙心寺も、知恩院も、拝観料は庭園といちぶのところのみでして、拝観料というものを考えずに散策出来る範囲の方が圧倒的に多く、全域が拝観料必要なところと云いますと。

鞍馬寺、鹿苑寺、慈照寺、清水寺、三千院、善峯寺、神護寺、とまあ思い浮かべると、こういうところでしょうか。逆に法然院や西明寺のように拝観料をとらないところもありますので。

寺院、仏教は哲学の宗教という解釈があり、世界三大宗教に仏教が含められない背景にはその哲学が経典からはばわれているゆえに宗教では無く哲学そのものだと理解されているとさえ言われるものでして。

観光地では無く、そういういみで信仰のために開かれている、ゆえに、そう、維持に必要な費用はあるのだけれども、道を求める方々、散策に親しむかたがたには、開かれている、これが京都散歩の愉しみなのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東寺,こうした日常の記録の膨大蓄積が最終的に玉石混交の一助となるのだろうか

2025-06-18 20:25:43 | 写真
■京都散歩日常風景
当時の日常風景と共にブログの話題をもうひとつ。

gooブログの間もなくの全面終了、寂しいものです。こう、いいますのも放置されているブログなどは自然消滅することとなるのですが、自然消滅するものの中には、恐らく消えた後で気づく重要なデータなどがあるとおもうのですよね。

日本人は活字好き、といいますか、日本語論文数の世界における論文数において、多数派ではないものの少数派でも決してない点、日本の新聞発行数の多さ、出版数の多さなどを見ますと分かる通り、文字にして残す文化はおおいのですけれども。

消えてしまう、このまま消滅するというのは、寂しいというよりも、活字文化衰退のようで、そこまで衰退してしまうと、日本の活力の根源、例えば今後少子化が解消した時代が到来しても、活力ある国にはならないのではないか、危惧して。

母国語で様々なことを調べることができるというのは幸いなことです、もちろん陰謀論や誤字脱字誤報虚報榴弾砲はたまにかなりの数で交じりますが。その一端はWeblogとはいわないけれども、すそ野を形成していることは間違いないでしょう。

2005年の自衛隊関連行事で、どの護衛艦が一般公開されたとか、はつゆき型護衛艦、はるな型護衛艦、しらね型護衛艦、たちかぜ型護衛艦などなど、元気に航行している様子などは、それだけで今日的には貴重なものではないでしょうか。

ビッグデータ、という言葉がありますが、これは個人を特定できないデータの総合体を示すもので膨大なWeblogデータとは合致しないものの、時事的な話題などについては、もちろん個人の主観には留意が必要ですが、一つの知識の総体だ。

SNSとWeblogを安易に一体化するにはちょっと一考の余地がありますけれども、独自研究など、比較的長文を載せやすいWeblogにはこうした要素を盛り込んだものもあり、すべてが書籍化され国会図書館で閲覧できるわけではないのです。

ブログ、まもなくgooブログでは新規立ち上げができなくなりますが、毎日のブログ件数の順位、いくつあるブログの内の何位です、という表示サービスの、gooブログ全体数をみると、いまでも毎日30から40のブログが増えている。

サービス終了に向けて脱出するブログよりも、新規に増えているブログの方が多いという、人口減少時代ならぬブログ減少時代に、もう破滅が見えているにもかかわらず陥っていない、ということが、ちょっと不思議にも思えてくるのですね。

ブログ数の増加は、そう、放置されているものも含めて減少傾向に至っていないものなのですから、このままでは消滅を待つばかりというブログが圧倒的に多いのです。しかし、YAHOOブログ廃止等を見る限り、基本的にそのまま消えてしまう。

著作権の問題がありますから、放置されている有用なブログデータをそのまま第三者が引き継ぐわけにはいかない事は理解しているのですが、玉石混交にあって、稀にでも玉というものはあるのだ、だから数が必要なのだ、とは思うのです。

成長というか、下流時代という言葉が二十年ほど前にはやりましたが、そんな甘いものではなく、個々人の方向性を掴みどころが無くなって散ってゆく、顆粒時代のようなものが、やってきてしまうのではないか、残念に思うのですよね。

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