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福井城[北ノ庄城] 柴田勝家が造営した輪郭式平城の遺構

2009-08-07 23:33:37 | 旅行記

◆福井城[北ノ庄城]探訪

 今回は久々に城郭特集、北陸の虎、柴田勝家が造営した広大な平城として今日も福井市の中心部に鎮座する福井城だ。

Img_3544  福井城特集というにもかかわらず、いきなり福井県庁とはこれいかに、さては道に迷い、福井県庁に道を尋ねに行ったのか、と思われるかもしれないが、実はそうではない、ここが福井城、正確には福井県庁が福井城の遺構の中に建てられているのだ。つまり、昔も現在も行政の中心が同じ場所になるということか。

Img_3538  福井城は堀に囲まれており、平城としての防御力を確立させている。この堀は今なお水を湛えており、ここが城郭なのだ、ということを知らせてくれる。県庁が城郭の中にあるというときは、いざというとき安心、・・・、いやなんでもない。県警本部も城郭の内側にある。ちなみに市役所は外側だ。

Img_3504  福井市へは、京都から特急雷鳥、サンダーバードで行くことができ、名古屋からは特急しらさぎ、で行くことが出来る。そろそろ置き換えが始まった雷鳥に乗っておきたいところだが、もうひとつ福井駅、高架駅なのだけれども、ここのホームでは、かつて北陸トンネル開通前に難所へ挑む前、停車し客車や貨物車に補機を連結する際、乗客がホームで楽しんだという今庄蕎麦を食べることが出来る。

Img_3542  福井城は、福井駅から徒歩で数分、しかし、長大な城郭を期待し、お堀を希望と共に渡ると、残念ながらそこに並ぶのは福井県庁と県警本部。ううむ、当時を思わせる建物のすべては、1871年の廃城とともに失われてしまったようだ。もっとも、本丸御殿の一部は近くの寺院に移築され健在ということではあるが。

Img_3550  福井県庁と福井県警本部。せめて重厚な帝冠様式での建物を期待したいのだが、1945年7月19日の福井空襲で、徹底的に市街地は破壊、全市の九割五分が破壊され焼失家屋36060、犠牲者1583名、1942年に人口十万人を越えた福井市で、これだけの被害、福井城のお堀も水を求め飛び込んだ市民の遺体で埋まったという。当時を思わせる建物も全て失われたというのも頷ける。

Img_3566 福井市の受難は戦後も続き1948年の6月28日に突如福井を襲った福井地震では、倒壊家屋36184、犠牲者は福井空襲の倍を超える実に3769名に達し、写真のように福井城の石垣も一部が破壊されてしまった。この写真は控天守台の跡地にあたる石垣の破壊された後である。

Img_3553  福井市の底力はこの後に発揮されたということだろうか、1952年には、福井市内で福井復興博覧会が行われている。今では、富山、金沢とともに北陸を代表する街として位置付けられ、福井県80万の県庁所在地としての今日がある。もうひとつ、福井県には世界有数の原発銀座もあるので、こちらの方が有名か。

Img_3556  福井城、しかし、その天守閣は今日、その姿を見ることはできない。1601年から六年をかけて四層の大きな天守閣を建築したのであるが、残念ながら1669年の火災により天守閣は焼け落ちてしまい、その後、三層櫓が天守閣の代わりを務めたものの、その威容も今日では見ることはできない。

Img_3557  天守閣は、かつて、この上にあったという。ううむ、福井県の財政はどのようになっているのかは浅学にして知らず、北陸地方も冷え込みは伝えられるものの、何か、再建天守閣、もしくは城門だけでも再建して、威容を後世に伝えることはできないのかな、と思ったりもする。幸い、天守閣の経常は伝えられているようであるし、技術的に再建は可能とは思うのだけれども。

Img_3564  福井城天守台からの風景、県庁と県警本部の方が大きい建物であるのが、やはり少し残念。福井城はこういう現状であるが、えちぜん鉄道を更に北に進んでゆくと、もう少し本格的な天守閣を備えた城郭があるとのことだが、こちらは次回北陸に足を運んだ際に永平寺とともに見学したいと思っている次第。

HARUNA

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