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駿府城[静岡城] 天下統一を遂げた徳川家康公 終の棲家

2009-08-09 22:44:14 | 旅行記

◆別名府中城

 城郭特集、第三段は、先日、清水港祭の帰路に立ち寄った静岡市の駿府城の写真特集だ。豪雨に追われたようで、帰路は雨も静かに、あと数時間天候回復が早ければよかったのに、と立ち寄った城郭。

Img_6002  静岡市、清水市と合併することで政令指定都市となった県庁所在地には、徳川家康が造営した駿府城が、今日も威容を誇っている。・・・、少なくともそう聞いて、足を運んだ。この地は、今川義元が駿河守護を朝廷より命じられた時に城郭が築かれ、その後、徳川家康が、この駿河城を造営した。

Img_5944  徳川家康は、武田氏の衰亡をもって、居城を浜松城より、この駿河に移し、1585年、駿河に新しい城を造営した。この駿府城は、外堀、中堀、内堀を中心とした三重の堀を有する城郭で、その中心には五層七階の天守閣と、複郭陣地のように櫓が複数並ぶ輪郭式平城の構造をとる構造となっていた。

Img_5930  駿府城は、新幹線駅と在来線駅である静岡駅から徒歩10分、しかし、最も近いのは、新静岡と新清水を結ぶ静岡鉄道の新静岡駅で、徒歩五分。ただ、静岡鉄道は、もともとお茶を清水港に運ぶために建設された鉄道なので、遠方からの観光の場合は静岡駅かた徒歩で行った方が早いかもしれない。

Img_5939  新静岡駅から少し歩くと堀がみえるが、この堀が外堀にあたる堀だ。外堀と中堀までの場所、旧三の丸には、広大な敷地はあるのだが、本丸御殿などは残っておらず、学校などの公共施設が並んでいる。外堀は多くの水を湛えているようで、魚影もあった。そして釣り禁止の看板もあった。

Img_5952  中堀まで進むと、櫓と門がみえてくる。中々の規模で、駿府城が天下統一、江戸幕府を開いた徳川家康の終の棲家となった城郭であるということがわかるのだが、1635年に火災に見舞われ、天守閣が消失してしまった。天守閣は再建されたものの、1869年に廃城となり、陸軍進駐までに破壊されてしまった。

Img_5959 城門、そして櫓は、1989年と1996年に再建されたもので、当時の遺構は、実は石垣と堀だけとなっている。また、城門を潜った先にも堀、内堀があるのだが、この内堀の一部は旧陸軍歩兵第34連隊の駐屯に際して、駐屯地敷地確保の観点から埋め立てられ、今日に至る。

Img_5965  城門と櫓が債権されているのみということで、城内にはあまり見るべきものは無いという話だったのだが、公園になってもそれらしいものはあるのでは、と思い城内に足を進めてみた。しかし、城門に比して、家康が最期を迎えた城郭という、往時を思わせるものはほとんど残っていないのが実情だった。しかし、内堀、本丸堀は一部が現存。

Img_5981  天守閣跡地。みごとに更地だ。せめて、天守閣跡の石垣や郭のような跡地、それがだめでも柱のあとなどから大まかな位置でも判るものを期待したのだが、ご覧のとおり、CH-47JA輸送ヘリコプターが着陸しても差し支えない程に、広大な敷地となっている。しかも、御叮嚀にアスファルトで舗装されていた。

Img_5971  しかし、駿府城は、少しづつ再建に向かっているようで、もうひとつ、櫓が再建に向かっているとのこと。・・・、天守閣も、再建してはどうかな、と思った次第。確かに予算的なもんだなどがあるのだろうが、天守閣跡地が広大なアスファルトの舗装面というのは、ちょっと、考えられないのではないのか、と思ってしまう。

Img_5943  一周廻ってみて思ったのだが、廃城にしたのち、しっかり保存しておけば良かったのになあ、と。なんとなれ、日本の城郭全てに言えることであるが、火災で再建を繰り返しており、純粋な意味で文化財的価値は低かったのかもしれない。しかし、破壊されて百年以上を経てみれば、破壊したのは惜しかったと、言い切ることは出来る。他方、日本国内では今日も、文化財的価値はまだないものの、保存すれば充分価値につながる建物が全国で破壊されている。これは果たして看過してよいのか、と、そういう建物を見るたびに思う次第。

HARUNA

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