安倍政権は国民の理解が十分進んでいないという理由で、先ごろ、通常国会に提出する新しい労働基準法改正案の中に、自律的労働時間制度(ホワイトカラー・エグゼンプション)を導入することを見送った。
ホワイトカラー・エグゼンプションについては、本コラムの第46回「残業代なしでただ働きを強制される時代の到来」にも書いたが、既に米国で導入されているもので、仕事の進め方や働く時間を自らコントロールできるホワイトカラーを労働時間管理の対象から外してしまおうという制度だ。
これが導入されれば、雇用側が労働者の時間管理をする必要がなくなるため、どんなに残業しても残業代は支払われなくなる。
厚生労働省は、年収や職種、職階、週休2日が確保されることなどの条件で歯止めをかける考えだが、当初からこの制度の導入に熱心だった日本経団連は、「年収400万円以上のホワイトカラー」を対象とするように求めている
年収400万円の労働者が「対象者」たり得るのか?
この制度は極めて異例の形で法案化が進められてきた。というのも、労働法制は通常、労働政策審議会の中で審議を重ね、労働側と使用者側の合意を取った上で、法案化する。
ところが、今回はこうしたプロセスが無視された。労働者側は一貫して導入そのものに反対し続けてきた。決して、条件闘争ではなかったのである。しかし、労働政策審議会は強引に報告書をまとめ、導入に向けて強行突破を図ろうとした。
わたしはホワイトカラー・エグゼンプションを年収400万円以上のホワイトカラーに適用することは間違いだと思う。
これまでも労働時間と業績が必ずしも比例関係に無い職種に対して裁量労働制というものが存在している。この制度では、労働者が自由に働く時間を決められたが、労働時間管理自体は存在するため、深夜残業などをすると残業代の支払い義務が雇い主に生じていた。
ところが、新制度はこの裁量労働制の先を行くもので、労働者が自分で仕事の内容を決める制度だ。どんな仕事をするのか、どんなペースと期間で誰と仕事をするのか、何時に帰宅するのか、すべて自分で決めるのだ。
わたしは長年シンクタンクの研究員として働いてきた。わたしの勤めている研究所では、かなり前から研究員に裁量労働制が適用されていて、ある意味でホワイトカラー・エグゼンプションが最も有効に働くと考えられる職場だ。
しかし、シンクタンク研究員の中で、自分で好きなように仕事のやり方を決めて、自由な時間に帰れるのは主任研究員のなかでも上の方、プロジェクトリーダークラスだ。その年収は1000万円を超えるというのが、おおよその相場だろう。
非管理職で自律的に労働を管理できるのは、クリエイターやデザイナーなどごく一部の専門職だろう。わたしは高度な技能を持った専門職や、年収1000万円以上の管理職にこの制度を導入するのはかまわないと思う。だが、年収400万円の労働者に仕事の自律性があるとは考えられない。
例えば、上司や同僚が残業しているのに、自分だけ「お先に失礼します」と帰れる人がどれほどいるだろうか。まったく周囲を気にしないという人ならかまわないが、日本社会では現実的には難しい。
人件費を抑制したい財界と政府
それでは、なぜ財界と政府はこれほど強引に進めようとしたのだろうか。それを読み解くには過去を見る必要がある。
日本では2002年1月から景気回復が始まり、名目GDPが14兆円増える一方、雇用者報酬は5兆円減った。だが、大企業の役員報酬は1人当たり5年間で84%も増えている。また、株主への配当は2.6倍になっている。
ということは、パイが増える中で、人件費を抑制して、株主と大企業の役員だけが手取りを増やしたのだ。
ただ、人件費抑制の中で、正社員の給料は下がったとはいえ、それほど劇的には落ち込んでいない。ではなぜ雇用者報酬が減ったのか。一番の原因は正社員が300万人減って、非正社員が300万人増えたことだ。正社員に対する非正社員の比率が大幅に上がったのである。
正社員の年収は300万~500万円に対して、パートなどの非正社員は100万円前後。人件費を大幅に削減できたわけだ。
ところが、このやり方にも限界が見えてきた。というのも非正社員の尻ぬぐいは正社員がしなければならないからだ。ファミリーレストランやコンビニ、銀行でさえもいまや前線に立っているのはパートだ。ただ、パートが急に休んだり、トラブルを起こしたときには正社員が対応しなければならない。これ以上、パート比率を上げるとビジネスが崩壊してしまうというところが見えてきたのだ。
パート比率は上げられない、パートの給料もこれ以上、下げるわけにはいかない。結果、ホワイトカラーの給料を下げるしかないのだ。しかし、法令によって一方的に労働条件が不利益になる変更は禁止されている。つまり、勝手に理屈なく給料は下げられない。
そこで、使用者側が一番都合がいいのは残業代を払わないことなのだ。
現在も残業代の4割しか支払われていない
このまま、ホワイトカラー・エグゼンプションが通るとは思わないが、今でさえ、残業代が100%支払われているわけではないことを使用者側は明らかにするべきだ。
労働運動総合研究所の推計では現在、残業代の4割しか支払われていない。それがゼロになる可能性がある。
編集部注:労働運動総合研究所の試算ではホワイトカラー・エグゼンプションの導入によって、年収400万円以上のホワイトカラーから横取りされる残業代総額は11.6兆円に上る。これはホワイトカラー1人当たり年間114万円にもなる勘定だ。
経済同友会が昨年(2006年)11月21日にホワイトカラー・エグゼンプションに対する意見書を発表したが、「当面は現行の裁量労働制を活用し、並行して長時間労働などの是正を進めたうえで、改めて労働時間規制の適用除外について議論を深めることが望ましい」と、自律的労働時間制度は時期尚早だと批判した。
さらに与党のなかでも公明党は早い段階からホワイトカラー・エグゼンプションは慎重に検討するように求めており、今年に入ってからついに自民党内からも反対論が噴き出してきた。このまま強行突破を続けると参議院選挙に悪影響が出ることを恐れたのだろう。
今後、仮に主任クラスだけを対象に残業代をなくすとしても、それは結果的に平社員にも影響を与えるだろう。というのも、主任の残業代がゼロになって、部下である社員の給料がそれを上回るという状況をそのままにすることはあり得ないからだ。また、ホワイトカラー・エグゼンプションは労働時間の管理をやめて、地獄の底まで働かせる制度なので過労死も増えるだろうといわれている。
前述したように、日本の企業の中には力関係や人間関係がある。上司が毎晩、働いているという状況があれば、大半の部下は帰ることはできないだろう。そうなると、サービス残業が増えていく。残業代は今、4割しか支払われていないが、これが2割ぐらいに減るだろう。結局は平社員も全部、巻き込まれることになるのだ。
消費税率引き上げと併せて“二つの台風”
安倍政権はホワイトカラー・エグゼンプションをいったん引っ込めたが、この夏の参議院選挙が終わった後、再び、導入の動きが始まると思う。そうなれば、サラリーマンは消費税率の引き上げと併せて、“二つの台風”に直撃されることになる。
米国でもホワイトカラー・エグゼンプションの導入によって労働時間が増えたといわれているが、日本はもっと悲惨なことになるだろう。米国のホワイトカラーは個々の職務規程が明確なので、上司に巻き込まれることは少ないが、情に流されやすい日本では泣く泣くただ働きになることは目に見えている。
日本経団連は、景気拡大のなかでも「一律のベースアップはありえない」と人件費抑制の姿勢を鮮明にしている。どうやら、正社員の給料が上がらないどころか、下がっていく時代がやってきそうだ。サラリーマンはもっと政府や財界に怒りの声を上げるべきではないだろうか。
ホワイトカラー・エグゼンプションについては、本コラムの第46回「残業代なしでただ働きを強制される時代の到来」にも書いたが、既に米国で導入されているもので、仕事の進め方や働く時間を自らコントロールできるホワイトカラーを労働時間管理の対象から外してしまおうという制度だ。
これが導入されれば、雇用側が労働者の時間管理をする必要がなくなるため、どんなに残業しても残業代は支払われなくなる。
厚生労働省は、年収や職種、職階、週休2日が確保されることなどの条件で歯止めをかける考えだが、当初からこの制度の導入に熱心だった日本経団連は、「年収400万円以上のホワイトカラー」を対象とするように求めている
年収400万円の労働者が「対象者」たり得るのか?
この制度は極めて異例の形で法案化が進められてきた。というのも、労働法制は通常、労働政策審議会の中で審議を重ね、労働側と使用者側の合意を取った上で、法案化する。
ところが、今回はこうしたプロセスが無視された。労働者側は一貫して導入そのものに反対し続けてきた。決して、条件闘争ではなかったのである。しかし、労働政策審議会は強引に報告書をまとめ、導入に向けて強行突破を図ろうとした。
わたしはホワイトカラー・エグゼンプションを年収400万円以上のホワイトカラーに適用することは間違いだと思う。
これまでも労働時間と業績が必ずしも比例関係に無い職種に対して裁量労働制というものが存在している。この制度では、労働者が自由に働く時間を決められたが、労働時間管理自体は存在するため、深夜残業などをすると残業代の支払い義務が雇い主に生じていた。
ところが、新制度はこの裁量労働制の先を行くもので、労働者が自分で仕事の内容を決める制度だ。どんな仕事をするのか、どんなペースと期間で誰と仕事をするのか、何時に帰宅するのか、すべて自分で決めるのだ。
わたしは長年シンクタンクの研究員として働いてきた。わたしの勤めている研究所では、かなり前から研究員に裁量労働制が適用されていて、ある意味でホワイトカラー・エグゼンプションが最も有効に働くと考えられる職場だ。
しかし、シンクタンク研究員の中で、自分で好きなように仕事のやり方を決めて、自由な時間に帰れるのは主任研究員のなかでも上の方、プロジェクトリーダークラスだ。その年収は1000万円を超えるというのが、おおよその相場だろう。
非管理職で自律的に労働を管理できるのは、クリエイターやデザイナーなどごく一部の専門職だろう。わたしは高度な技能を持った専門職や、年収1000万円以上の管理職にこの制度を導入するのはかまわないと思う。だが、年収400万円の労働者に仕事の自律性があるとは考えられない。
例えば、上司や同僚が残業しているのに、自分だけ「お先に失礼します」と帰れる人がどれほどいるだろうか。まったく周囲を気にしないという人ならかまわないが、日本社会では現実的には難しい。
人件費を抑制したい財界と政府
それでは、なぜ財界と政府はこれほど強引に進めようとしたのだろうか。それを読み解くには過去を見る必要がある。
日本では2002年1月から景気回復が始まり、名目GDPが14兆円増える一方、雇用者報酬は5兆円減った。だが、大企業の役員報酬は1人当たり5年間で84%も増えている。また、株主への配当は2.6倍になっている。
ということは、パイが増える中で、人件費を抑制して、株主と大企業の役員だけが手取りを増やしたのだ。
ただ、人件費抑制の中で、正社員の給料は下がったとはいえ、それほど劇的には落ち込んでいない。ではなぜ雇用者報酬が減ったのか。一番の原因は正社員が300万人減って、非正社員が300万人増えたことだ。正社員に対する非正社員の比率が大幅に上がったのである。
正社員の年収は300万~500万円に対して、パートなどの非正社員は100万円前後。人件費を大幅に削減できたわけだ。
ところが、このやり方にも限界が見えてきた。というのも非正社員の尻ぬぐいは正社員がしなければならないからだ。ファミリーレストランやコンビニ、銀行でさえもいまや前線に立っているのはパートだ。ただ、パートが急に休んだり、トラブルを起こしたときには正社員が対応しなければならない。これ以上、パート比率を上げるとビジネスが崩壊してしまうというところが見えてきたのだ。
パート比率は上げられない、パートの給料もこれ以上、下げるわけにはいかない。結果、ホワイトカラーの給料を下げるしかないのだ。しかし、法令によって一方的に労働条件が不利益になる変更は禁止されている。つまり、勝手に理屈なく給料は下げられない。
そこで、使用者側が一番都合がいいのは残業代を払わないことなのだ。
現在も残業代の4割しか支払われていない
このまま、ホワイトカラー・エグゼンプションが通るとは思わないが、今でさえ、残業代が100%支払われているわけではないことを使用者側は明らかにするべきだ。
労働運動総合研究所の推計では現在、残業代の4割しか支払われていない。それがゼロになる可能性がある。
編集部注:労働運動総合研究所の試算ではホワイトカラー・エグゼンプションの導入によって、年収400万円以上のホワイトカラーから横取りされる残業代総額は11.6兆円に上る。これはホワイトカラー1人当たり年間114万円にもなる勘定だ。
経済同友会が昨年(2006年)11月21日にホワイトカラー・エグゼンプションに対する意見書を発表したが、「当面は現行の裁量労働制を活用し、並行して長時間労働などの是正を進めたうえで、改めて労働時間規制の適用除外について議論を深めることが望ましい」と、自律的労働時間制度は時期尚早だと批判した。
さらに与党のなかでも公明党は早い段階からホワイトカラー・エグゼンプションは慎重に検討するように求めており、今年に入ってからついに自民党内からも反対論が噴き出してきた。このまま強行突破を続けると参議院選挙に悪影響が出ることを恐れたのだろう。
今後、仮に主任クラスだけを対象に残業代をなくすとしても、それは結果的に平社員にも影響を与えるだろう。というのも、主任の残業代がゼロになって、部下である社員の給料がそれを上回るという状況をそのままにすることはあり得ないからだ。また、ホワイトカラー・エグゼンプションは労働時間の管理をやめて、地獄の底まで働かせる制度なので過労死も増えるだろうといわれている。
前述したように、日本の企業の中には力関係や人間関係がある。上司が毎晩、働いているという状況があれば、大半の部下は帰ることはできないだろう。そうなると、サービス残業が増えていく。残業代は今、4割しか支払われていないが、これが2割ぐらいに減るだろう。結局は平社員も全部、巻き込まれることになるのだ。
消費税率引き上げと併せて“二つの台風”
安倍政権はホワイトカラー・エグゼンプションをいったん引っ込めたが、この夏の参議院選挙が終わった後、再び、導入の動きが始まると思う。そうなれば、サラリーマンは消費税率の引き上げと併せて、“二つの台風”に直撃されることになる。
米国でもホワイトカラー・エグゼンプションの導入によって労働時間が増えたといわれているが、日本はもっと悲惨なことになるだろう。米国のホワイトカラーは個々の職務規程が明確なので、上司に巻き込まれることは少ないが、情に流されやすい日本では泣く泣くただ働きになることは目に見えている。
日本経団連は、景気拡大のなかでも「一律のベースアップはありえない」と人件費抑制の姿勢を鮮明にしている。どうやら、正社員の給料が上がらないどころか、下がっていく時代がやってきそうだ。サラリーマンはもっと政府や財界に怒りの声を上げるべきではないだろうか。