敗戦翌日、特攻隊散った 惨劇語る生き残り元少年兵/朝日新聞

2011-08-16 10:49:57 | 社会
太平洋を望む高知県香南市夜須町の港に「震洋(しんよう)隊殉国慰霊塔」が立つ。敗戦翌日の1945年8月16日、ベニヤ板で作られた特攻艇「震洋」23隻が、旧海軍基地内で爆発し、特攻隊員ら111人が犠牲になった。塔はその惨劇を今に伝える。助かったはずの命がなぜ失われたのか――。生き残った元少年兵が66年前の出来事を語った。

 戦争末期、いまの香南市にあった旧海軍の手結(てい)基地には、約170人の部隊と震洋25隻が配備されていた。海軍少年兵だった里見三男さん(84)=千葉県流山市=もそこにいた。

 「戦艦に向けて突っ込むのに、ベニヤ板でしょう。これはひどいなあと」

 目の前にあるのはベニヤ板でできたモーターボート。これに爆薬を積み、我が身もろとも敵艦に体当たりする。「お国のために死ぬ」覚悟だったが、震洋を初めて見た時そう思った。

 里見さんは1942年に15歳で志願し、茨城県の土浦航空隊へ。兵器も物資も尽き、上官に「もう、飛行機はない。水上特攻だ」と言われた。長崎県の大村湾にあった訓練所に移り、震洋の操縦を学んだ。

 教官が言った。「トラック用のエンジンをつけかえた。ほかに戦うものはない」「軍艦は無理だが、輸送船なら4メートルの穴はあく」。2隻、3隻と集団で体当たりする訓練を重ねた。

 45年5月、手結基地に配属されたが、敗戦。里見さんは「ぶつかってやりたかった」と悔しかった。みんな泣いた。

 その、翌日のことだ。

 部隊に「出撃準備」の命令が無線で届く。基地の拡声機が「敵が本土上陸を目的に土佐沖を航行中」と告げた。命令がなぜ出たのか今もわからない。

 船首に爆薬200キロを積んだ震洋を、みなで手分けし、壕(ごう)から浜に並べた。

 午後7時ごろ、近くの倉庫前で整備が終わるのを待っていたとき、1隻から火が出たのが見えた。「海へ放り込め」。声が聞こえた瞬間、「ボン」と音がした。周りの艇に次々と引火し、火柱があがった。

 気づくと倒れていた。大きなけがはなく、近くの松林にまで飛び散った遺体を集めた。木に刺さった胴体、根元に転がる手足……。多くは18歳前後の若者だった。初めて戦争の現実を見た。整列のときいつも隣にいた仲間も死んだ。遺骨を届けた上官の母親と妹は「戦争が終わったのに、どうして」と泣き崩れた。爆発は、燃料漏れが原因といわれている。

 戦後、警視庁の警察官として働いた。震洋の体験はあまり語ってこなかったが伝えたい思いがある。「自分の意思では何も決められず、生き死にが、運だけで決まる。それが戦争だ」

■「生きた証し残したい」命日に慰霊祭

 慰霊塔は56年、地元の人の発案で建てられた。震洋の爆発を語り継ごうと、今年も16日、慰霊祭を開く。遺族ら約50人が出席する。

 奉賛会の中村昌直会長(85)は79年から式典をとりまとめてきた。66年前の9月、入隊先の海軍から戻ると、浜は焼け野原に。「海に潜って肉片を拾い集めた」と父親らから聞かされた。「戦争が終わって家に帰れると、みんな喜んでいたはずなのに」

 旧夜須町の元職員、前田些代子(さよこ)さん(82)は浜に並ぶ震洋の方へ、爆薬を運ぶ光景を覚えている。「戦争は終わっちょうのに、どうして」と不思議がった。浜は真っ赤。拾い集めた遺体が白木の箱に納められ、民家に安置された。女学校の行き帰りにあいさつした人も犠牲になった。

 57歳で退職し、平和学習で慰霊塔を訪れる子たちに体験を語る。「戦争は忘れられてしまう。終戦後なら、なおのこと。彼らが生きていた証しを残したい」

 高知市長浜の主婦、松吉千津子さん(80)も語り継ごうとする一人。戦争が終わったのに、なぜ――。遺族は悔しさをこらえているように見えた。50代から生存者や遺族らに話を聴いており、記録を本にまとめたいという。(高木智子)

    ◇

 〈震洋〉 太平洋戦争末期、旧日本海軍が水上特別攻撃のために作った、全長約5メートルの1人乗り、6.5メートルの2人乗りの小型艇。ベニヤ板でできた船体に爆薬を積み、車用エンジンで敵艦に体当たりする。フィリピン、沖縄、本土の主に太平洋側に配備され、米軍の上陸に備えた。「人間兵器」といわれ、出撃やその準備中などに約2500人が犠牲になったとされる。



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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
悲惨な事故 (ポワトリン)
2011-08-16 17:18:26
終戦の翌日の8月16日、手詰山基地での爆発事故については、高知県の郷土史研究誌である”土佐史談”220号の中の論文”手詰山震洋隊の惨劇とその背景”に詳しく書かれてあります。第八特攻戦隊司令部の位置など若干間違っているところもありますが、経緯や背景については正しいのではないかと思います。興味がおありのようなら御一読をおすすめします。
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