気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

猿払の武四郎・インディギルカ号遭難碑

2012-09-06 00:03:33 | 旅行
松山湿原を降りて、駐車場から天竜沼をカメラに収め、再び、仁宇布の交差点に戻って国道120号を進む。歌登を過ぎて、枝幸漁港で漁師さんに名物のカニを売っている所を聞き・・・水産工場に迷いながら辿りつく。
 途中、ウソタンナイ砂金堀の像をデジカメに写し、目的地に着く。「さるふと公園」内に新しく設置された「松浦武四郎宿営の地」「西部・佐留部都誌」の説明木碑である。
 ここに新設されたことは、私のブログを見てくださった方から「猿払村にも武四郎の碑が出来ましたよ!」と情報をコメントに入れてくださった方のお蔭で足跡にたどり着いたのです。教えてくださった方(松浦武四郎の足跡「道北の釣りと旅ブログhttp://blog.kitakaido.com/の管理のhiroさん)に感謝です。
碑の写真(立派な碑が二基並んであります。)

碑には『北海道人・松浦武四郎』
 北海道の名付け親といわれる松浦武四郎
蝦夷地を六回訪れ、宗谷地域には弘化三年(1846年)、安政三年(1856年)、安政五年(1858年)の三回足を伸ばしている。その際、猿払にも宿泊し「西部佐留部都誌」等を記した。
松浦武四郎はアイヌの人たちの協力を得て、山川取り調べ(地勢調査)を行い、原住民であるアイヌの人たちの生活蝦夷地の状況などを詳細に調査し、克明な記録を幕府に提出した他出版するなどして蝦夷の実態を明らかにしながら、アイヌの人たちの生活向上に心を砕き、幕閣へも再三改善の提言を行った。明治維新後、明治政府の北海道判官として奉職、北海道の夜明けに貢献し、自ら「北海道人」と号した。

『西部・佐留部都誌(安政五年)』の記
 『サルブツ、本命はシャリブツウなるよし也。シャリは湿沢にして、蘆萩(ろてき)叢鬱(そううつ)たる叢(くさむら)を指して云、フツウは川口の儀なり。此所蘆萩(ろてき)有る谷地(やち)川の口と云儀なり。(以後略)』と猿払の様子を書いてある。
そのエリアにはホタテ貝化石群やインディギルカ号慰霊碑がある。
 司馬遼太郎著「街道をゆく38」のオホーツク街道には「インディギルカ号遭難事件」のことが書かれている。昭和」14年(1939年)12月12日午前1時30分頃、漁夫など千数百人を乗せたソ連船(4200トン)が猿払の浜鬼志別の沖で岩に乗り上げて横倒しになった。その船名をとって「インディギルカ号遭難事件」という・・・。」とある。  

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