おぐち自給農園、2反百姓の日記

-都市の貧困と農村の貧しさをつなぐ、「生き方」としての有機農業を目指して-

2009年3月24日(火)の農園③

2009年04月30日 07時59分16秒 | 
                  

 これが3月の僕の畑の様子です。手前の盛り土はゴボウを収穫するために掘った土。掘った土は横ではなく、真後ろに盛り、掘った部分に土を再び戻して平らにしていきます。収穫をしながら、掘った穴を埋めていくという同時並行的な作業を繰り返します。
 右側の色が濃い土の部分は、ジャガイモです。確か手前がキタアカリで奥がダンシャクです。その間はアスパラです。ジャガイモの奥にはラッキョウやエシャロット、ワケギ、スナックエンドウ、絹サヤ、ソラマメが育っています。ゴボウの手前には、ネギがあり、キャベツやブロッコリーもあります。どれも厳しい冬を越し、春に近づき再び息を吹き返した勇敢な野菜たちです。 
 総じて雑草が多いといった感じですが、気温が20度を越し、暖かくなってくるとこの雑草たちの勢いは止まりません。その姿も追々報告できると思います。

2009年3月24日(火)の農園②

2009年04月30日 07時36分14秒 | 
 さて、この緑の葉っぱ葉なんでしょう?
 
 そう、ゴボウの葉っぱなんです。去年の5月に種を直播きし、11月頃から収穫できたんですが、時間がなく、しかも寒くて外での作業が捗らず、冬を越し、現在に至っています。葉っぱは霜が降りて全て枯れていたのですが、暖かくなるにつれて緑色に再生しました。この生命力にはビックリだし、四季の移り変わりを実感しました。

 

 そして、ゴボウは1mほど穴を掘って、収穫します。大規模栽培をしている農家ではユンボなどを使用して一気に収穫してしまうみたいですが、僕のような小さい規模の農家はそうはいきません。先が鋭く、細長いゴボウ専用のスコップを使用して穴を堀り、ある程度の深さを掘ることができたら、次は小さなスコップで丁寧に、遺跡を発掘するように土を削って収穫します。本当に根気のいる作業で、疲れます。が、冬に体を動かし、温まる仕事を与えてくれる日本農業は本当に良くできているな~と感心します。まさしく、大地との格闘とはゴボウ堀りのためにあるような言葉です。



 これが収穫したゴボウです。2時間ぐらいかかりました。太いのもあれば、細いのもあり、二股、三股、四股、それ以上のものもあり、色んな形のゴボウが収穫できました。途中で折ってしまったり、傷つけたりしてしまい、きれいに収穫するのがなかなか難しいですが、主には自給用なのでこれで大丈夫。味も抜群です。


水になった村

2009年04月30日 00時26分11秒 | 映画
 4月29日、映画『水になった村』を見てきた。映画館は選りすぐりのドキュメンタリーを多く上映しているポレポレ東中野だ。
 『水になった村』は2007年に上映された映画で、すでに2年が経過している。2007年というと、僕はちょうど有機農業の研修をしていたので見に行くことができず、自主上映会にも都合が合わず、ようやく待ちに待ったという感じで見に行くことができた。
 1957年、岐阜県徳山村にダムを建設することが決まった。それから半世紀の後にようやくダムが完成した。ダム建設にあたり、行政の指導により、住民は近くの都市部に移転することとなる。
 しかし、移転をせずに、何人かのばあちゃん、じいちゃんたちは徳山村での生活を続けた。里山とも言える小さくかわいらしい山々に囲まれた地で、豊富な水、土、緑とともにある暮らしは、山から山菜や木の実を、川から魚を、土からは野菜たちを、そうした豊かな実りがそのままばあちゃん、じいちゃんの生活の豊かさを創っていた。
 その実りは、そのままばあちゃん、じいちゃんの「幸せ」であり、「財産」でもあった。あるばあちゃんが、「幸せだな~。こんな幸せを独り占めにしていいのかな~。」と口にしている姿はとても印象的だった。そのような幸せ=豊かな食を楽しそうに、うれしそうにして大西監督にお裾分けする姿を映し出す映像は農村が持つ本当の豊かさを表現しているし、改めて食はいのちの原点であるし、いのちの原点は農であることを確認した。
 しかし、ダム建設工事が始まり、移転を余儀なくされ、その豊かさの舞台となった家は取り壊される。移転した地ではこれまでの生活はできず、冷蔵庫を開けても空っぽで監督にお裾分けできるような塩漬けした保存食や野菜、魚などの食べものはなく、指輪を持って行けと差し出すばあちゃんの姿を見て胸が詰まる思いがした。お金だけでは測れない、お金に頼らない、商品経済から外れた生活の豊かさを自然とともに享受していた生活と商品経済に生活の大部分を取り込まれた生活があまりにも対照的な姿として見えるシーンであった。
 この徳山ダムは長野県の諏訪湖と同じくらいの大きさもあるという。当初は、発電用であったが、その後は多目的、工業用のダムとして期待されたが、現在はその使い道を考えている段階だという。ダムが完成してからその用途を考えるとは順番が逆である。移転したばあちゃんたちも年齢を重ね、徳山村での生活の記憶も薄れつつある。だからこそ、たった50年で、ばあちゃんやじいちゃん、その先祖代々築かれてきた生活を奪い取ったダム建設の罪は大きいと思う。
 徳山村のように、ダムの建設で沈む村はまだ数百あるという。監督は、私たちの暮らし方の選択の問題だと言っていた。第2の徳山村を生み出さないためにも、暮らしの選択をしていかなければならない。きっと、農的生活の実践はそのような社会を選択せず、効率主義や経済成長、商品経済偏重の社会経済から少しでも抜け出す一歩となるに違いない。