前向きな人生の整理整頓

人生も後半、一日が短いです。明日やると思っても、若者のようには明日はたくさんないのかもと気づいた今日この頃

『この時』

2016年11月13日 14時45分40秒 | わたしの思い
小説も好きだけど、最近は寄る年波で目が悪くなってしまって、大長編小説などは
ある程度気合と覚悟を持って読まなければ、いい加減な読み方になってしまいます。

詩を読むのも好き。
だけれども、ふと思います。
詩って書き手が書いた『本当』を知らないといけないのでしょうか?って。
どんなシチュエーションで?どんな思いがあって?こういう意図で書きました。
なんて、言わないことがほとんどでしょう?
隠喩とかを追及して読むのが本当の読み手でしょうか?

わたしはただ、ふっと言葉が胸に落ちてくるといった感覚が好きなので、
あまり深追いはしたくないと思っています。
只々、その詩が好きになる。音楽の時と似ています。

たくさんそんな詩があります。
時々ここでそれについて記しておきたいなあと思います。

今日は
『この時』という詩。鶴見俊輔さんという方の詩ですが、哲学者なのだそうです。
昨年亡くなられました。知っているのはこれだけ。
この詩が素晴らしくて、それ以上は知ろうとも、知りたいとも思いません。
偶々、目にして、わたしの胸の中に落ちてきた『この時』

宇宙の底に
しずかにすわって
いると思う時がある
この自分がまぼろし
私の眼にうつる人も
ここにいる時はみじかく
いない時の中に
この時が浮かぶ

『この時』という時、どういう意図で書いていらっしゃるのか?
それは確かめていませんし、わかりません。

わたしはこの詩を読むと、自分がいつか不在となる時(未来)を思うと同時に、
遠く遠く、いつか自分が不在だった(過去)に思いを馳せるのです。
未来の方は自分が消え去る瞬間、だから心が広がっていかない。
過去の方は果てしなく広がっていく。
でも、未来の方は誰か他のひとがそう思うなら、自分のいた『この時』も
果てしないときの一瞬に加えてもらえる気がするのです。

この詩を読むと、まだ会ったことのないひとではなく、決して会うことができない人々が
通り過ぎて行った『この時』の中にいる自分を感じて、虚しさもあれば、
反対に豊かな気持ちにもなって、虚しさが決して悪い感じじゃなくて落ち着きます。

この時の中でわたしは何だか気持ち良く
猫の様にひだまりで伸びをしています。


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