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無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

ブラタモリと民俗学

2018-09-30 22:47:13 | 映画・TV

 

楽しみにしていたブラタモリは、丁度都合良くその時だけ(しつこい?)NHKが映った。面白かった。
さすがにタモリさん、地図を見て「この直線は断層だ。」まさにその通りで、この山際の辺りでは(岩石がゴロゴロ生まれる)生石と呼ばれる地名があったり、直下型地震が起きたりした場所だ。この放送では、酒田生まれの私でも、知っている酒田と知らない酒田があった。

さて、本間郡兵衛の資料解説に行けなくてゲンナリしていた私の携帯がピロ~んと鳴った。見たら日曜日の午後に総合文化センターで民俗学の講座があることを知らせるものだった。ちょっと興味があったので、予定に入れておいた。参加費用は300円でも、申し込みが不要だったので行く気だったのだ。

 

今回の民俗学は主題が「飛島」だった。講師の岸本氏が「昨日のブラタモリ見た人!」と挙手を促すと、殆どの人が手を挙げた。「あの番組の中で、カンペを読ながら案内をしていた小林さんも、今日来ています。こばやしく~~ん!」番組で見た顔が現れた。
ブラタモリの構成が面白かったのは、飛島が出てきた為だと思う。なんと、この脚本を書いたのが、今日の講師の岸本氏だった。なるほどクレジットにも名前が出ている。小林さんがカンペ読み読みだったのは、2日間の取材の内、せっかく覚えた台詞が翌日に全く違う物に書き換えられ、前の台詞が逆に残っている分邪魔をしたのだそうだ。「タモリさんは凄かった。地図を見て断層を言い当てた件と、飛島での流紋岩の件といい、博識だったこと、本当にあの流紋岩を見て嬉しそうだったこと、あの後に舘岩の上でタモリさんが転ばれて、海側へ落ちたらブラタモリ最終回になっただろうこと、定期船とびしまが風が強い為に運行するか迷った位だったが、逆に強風の中で漁船で港を出て舘岩の外側に回った時に大荒れを経験できたこと、漁船での行きは椅子に座り、帰りは危険だからと甲板に座ったなどなど」裏話を沢山聴く事が出来た。

~~~~~~~~~~~~船はシマブネ~~~~イカ~~タコ~~魚~~~~~~波~~~~~~

本題の民俗学は、飛島を調査し文献に残されている物を紐解く。過去、現在、未来に分けて進めてみよう。
・過去では柳田國男、民俗学の巨匠。遠野物語などを通し、先祖の霊は山に戻る。人々は山を祀る。山は綺麗な水を流す。民俗学は人の記憶の中に有り、組み上げなければ埋もれて消えてしまう。飛島では、先祖の霊は賽の河原に戻る。

・早川孝太郎、飛島に来ている。羽後飛島■誌を大正14年に刊行。元が絵描きだけに写真やスケッチも多い。月座神社の小さな狛犬が4-50体もあると書かれているが、現在は2体しか見つかっていない。飛島の人達は漁場の共有の他、個人所有のタコ穴もあった。その数36箇所、浅瀬の穴にミズダコが入っている。その個人所有のタコ穴は、嫁入り道具として所有権の移転もあった。

・宮本常一、飛島で個人史に耳を傾ける。忘れられた日本人、忘れられた村を通して、先を急いではならぬこと、人が見落とした物を見よ。人に向き合えとした。

・現在では赤坂憲雄、柳田が一国民俗学の立場だったが、赤坂は東北を考えると中央と違う。東北の内側から語られる物で、地域学・東北学であるべきと唱えた。多様性・固有性・潜在能力の発揮を基礎にした。

・森本孝、漁具や漁船を中心に「あるく みる きく」を発行、日本の津々浦々を歩く。飛島では女性の話、農村からのもらい子の話をまとめた。漁業の生産性を上げる為に、労働力としてもらい子をしたが、家族と同様に暮らし、大きくなると島に残る者と出て行く者に別れた。飛島の人口は明治頃の風よけ港の頃は1000人ほど、漁港に移った頃が最も多かった。現在は200人程度、平均年齢も高い。
地形や環境を見ると、昭和の初めの写真から、飛島の中央の台地は田畑で覆われていた。森で燃料を探すのも畑仕事も「山に行く」と呼び、女性達の仕事だった。男性は海での漁業や出稼ぎに行った。プロパンガスが普及してくると、森での燃料探しは無くなり、森が広がってくる。現在は畑も少なくなり、ますます緑が多くなってきた。

・飛島は不思議がいっぱい。
飛島にも縄文の遺跡(6-4000年前)が3箇所見つかった。御積島にも伝説となる不思議が沢山ある。弘法大師の足跡や龍神伝説、龍のウロコの岩などが洞窟に残されている。(龍のウロコは科学的に証明できないかと調査中)暑くも寒くも無い気候、高さ75mの流紋岩、トビシマカンゾウは捨てる所が無い。ニッコウキスゲとのDNAは違うのかなどなど。
海辺の環境では、現在は日本どころか近くの海外から流れ着くゴミ問題が大きいが、昔は流木は引き上げて切って燃料にし、仏像も流れ着いたり、それらを寄り物と呼んで拾って使ったり宝物として保存していたそうだ。

(特別出演・ねこ)


タモリさんも番組の最後の方で、「酒田って面白いね。また廻ってみたいね。」と言っていたね。御積島に行けたら、もっと面白かったのにね。

 

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4 コメント

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ブラタモリ酒田編 (FUSA)
2018-10-01 09:37:03
酒田という町の成り立ちについては概ね理解できました。しかし、時間的な制約もあってブラタモリは民俗学には深入りしないスタンスですから、ちょっと不満も残りました。湊町の歴史やそこに伝わる文化、浚渫の苦労などにもう少し触れてくれるかと期待したんですが。「酒田舟方節」や「庄内はいや節」などのように北前船がもたらした文化の移動や、舟方たちの生活ぶり。天領米に携わった農民たちの生活ぶりなどを知りたかったのですが、ブラタモリの枠内では無理ですかね(笑)
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FUSAさん (cake)
2018-10-01 11:11:53
取材時間は2日、あれもこれも話した事を見事に切り落とされて時間内に収めたようです。切られた部分が多すぎるとの裏話でした。
今回は飛島の視点が出て、酒田っ子にしては面白いと思いました。北前船や最上川舟運、天領米などは、幾つもの番組で取り上げられているのを観ていたから、飛島が題材になったのは新鮮に感じられたのでしょう。
山形県内各地の歴史や観光は、毎週ローカル番組で流していますし、ブラタモリには別の期待があったように思えます。しかも時間が短かったですね。
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見ました (お幸)
2018-10-01 14:52:14
最上川舟運が栄えたのは天領地のおかげだったのですね。お米か。紅花ばかりにとらわれていましたヮ。考えてみたら紅花にあんな大きな山居倉庫とか船とか必要ないですものね。背中に背負って陸路を行けばすむ話で。天領地の米のおまけだったのですね。
タモリさんは、大きいお屋敷を見て間髪入れずに「本間家!」って、全国津々浦々を網羅しているのでしょうね。
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お幸さん (cake)
2018-10-01 18:40:57
ご覧になりましたか。面白かったですね。私も北前船はお米と紅花とばかり思っていました。天領地の米に限らず、大名も石高に応じて用地の米を売ってお金に換えて生活をしていたのですから、米を大阪や江戸に運ぶ必要がありました。紅花は小さくとも金額が張るので、重要な積み荷でしたね。
実は,山居倉庫は明治の時代になって作られた倉庫で、江戸時代は日和山公園に幕府直属の米蔵があり、新井田川の現在前田製管の場所(タモリさんが屋形船に乗った対岸)にも、いろは米蔵があったようです。昭和初期には鉄筋コンクリートの国立倉庫も建つほど、米どころだったようですね。
小型でも船を使って米を運ぶのは、いっぺんに沢山運べるわけで、庄内でも新潟でも、堰や小川が田んぼには必ずあって、運搬に使っていたそうです。

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