無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

本間美術館-清遠閣

2019-04-01 11:26:52 | 建築・都市・港

 

3月31日、東北公益文科大学で、酒田の文化「本間美術館清遠閣」研究会のキックオフ講演会が行われた。

 朝から暴風雨に見舞われ、月山道路や山形市では雪が降ったと言う寒い日になった。

開催のパンフレットが出来たのが一週間前、何としても平成30年度に行わればならない会だったので、参加したメンバーは顔の知った仲間だった。
内容も一般向けと言うより、専門に特化して難しい。

本間美術館館長 田中氏

清遠閣の成り立ちにはっきりとした文献は美術館に残されておらず、本間家にはあると思うのだが、公開されずに詳細を知ることが出来ない。

本間家は突出した才能のある第三代本間光丘によってその基盤はつくられた。光丘は庄内酒井藩とは少し距離をおいた立場だったが、第4代の本間光道は結びつきを強くし、酒井藩の休み処として1813年(文化3年)に清遠閣と鶴舞園の建設を開始する。酒田の町とは離れた砂丘の外れの窪地に、その場所は決められたが、当時光丘の手によって造られた黒松の防砂林のお陰で、ようやく田畑として使用できるようになった浜畑(はまはた)の地だった。土地は湿潤で斜面を利用した庭園も、鳥海山や東山の山郷集落を借景にしたもので、単に殿様のお休み処や別荘としてだけ手がけられた物ではない。

当時、本間家は自前の船6隻を所有し交易をしていた。冬の日本海は荒れ、港で働く沖中士などは冬期間の仕事がない。その失業対策事業として庭造りなどに人を回した。本間家本邸には沢山の全国からの面白い庭石が並べられているが、鶴舞園にも佐渡の赤玉石や伊予の青石が配されている。これらの石は北前船の帰りのバラストとして船底に積み込まれた物である。(本間家の失対事業はこれらに留まらず、農地の灌漑事業や日和山も冬に農民が運んだ砂袋の成果だと言われている。)

鶴舞園を設計した人の名は伝えられていないが、本間光道が俳句を通して付き合いのあった(と言うよりパトロンだった)常世田長翆 ( とこよだ ちょうすい )からノウハウを学んだのではないかと言われている。清遠閣も元々は平屋で、その平屋の部屋から庭と鳥海山などの借景を望んだものだった。私が小学校の頃は、本間美術館の周りは田んぼが広がっているだけだったが、時代の流れで大きなデパートやらが建ち並び、それらを隠す為に廻りの樹木を延ばした為に、余計に鳥海山は借景にはならなくなった。現在は庭の一部からしか望めない。樹木を剪定すればある程度回復はできるが、余計な物が目に入るようになる。

清遠閣は当初焼き瓦葺きで、材料は地元の杉材をメインとして使用した。江戸時代の1階部分は杉の赤味を、2階部分は格調を重んじて白味を使っている。建物全体と規模から見て柱の径は細い。京風な作りと言われるのはそのせいだろうか。一部の銘木として神代杉・桧材・欅の玉杢など、現在では手に入らない材料が使われている所もあるが、贅沢には造られなかった。本間家の家訓として、質素倹約、他人の為の公益を掲げている為である。ただ現在は残っていないが、最初の庭と建物の作りは空中回廊や橋などのアイデアに遊びがあったと言われている。何度かの増改築を重ね、その間に幾度も大きな地震に見舞われたが、僅かのひび割れなどが見られだけで、206年経った今でも当時の物が残っている部分がある。清遠閣は本間家の別荘ではあったが、生活は基本的にはしていない。6代目泰宣が少しの間暮らしていた以外は、迎賓館として大事に保全されていた。

明治以降の清遠閣には、皇族もお泊まりになられた。酒田は日本海側にあっても湿潤な暗いイメージではなく、風の強い明るい雰囲気になっている。日清日露戦争時に戦争に駆り出された兵士の留守家族を活かして、清遠閣の保全に当たらせている。本間家は本来行政がやるべき仕事を肩代わりしている。

 

昭和22年、敗戦にうち拉がれた日本人の名誉の回復と地方文化の為に、清遠閣は本間美術館としてスタートした。本間家としては財閥解体と農地改革の厳しい時期だった。鉄筋コンクリートの新美術館が出来るまで、清遠閣は酒田市民の美術館だった。現在もその一部を担っている。ただ、建物全体を市民に解放している訳ではない。その他の部分は現美術館に収蔵できない美術品の倉庫などで、物品が溢れている。
昨年、タイルメーカーの方が清遠閣の湯殿のタイルを見せて欲しいと来館した。収蔵物の間を縫って湯殿に向かい、そのタイルの出来映えに感心したようだが、私も是非に見てみたい。最初にも書いたが、清遠閣の文献が本邸の蔵に眠っていて、手元にないのが辛い。古文書も読むことが出来る人が少なくなっているのも辛い。

206年間の歴史を持つ清遠閣に比べて、新美術館の老朽化が目立ってきた。それにせまい。出来ればそちらを改築し、清遠閣は本来の姿で、一般市民にも見て貰えるようにしたいと願っている。

 

高谷教授からは、古い建物の再生活用と町づくりと題して、鶴岡の薬局、映画館、酒田の小幡を講演して頂いた。
以下はメモ書きからなのだが、映像を見るとて照明を落とした為に、自分の書いた文字が本人なのに読めないメモが出来上がった。どうしよう。

地方都市は人口減少と首都圏への流出により、建物の数は充足を過ぎ、空き家が増加している。歴史的建造物の保存と活用を通して、歴史文化の価値のある町を形成することが大事でもある。

恵比寿屋薬局の調査修理と活用

1950年、文化財保護法が制定されたが、元々は神社仏閣の保護が目的だった。その為に調査保存の仕事には大工の棟梁が行い、建築家の出番はなかった。普通の建物は活用が伴わねば残っていかない。文化財も観光や地域活性化の為の活用を求められる。活用の為の再生である。

文化財保護法は、年を追う毎に一部改正がなされたが、直近の平成18年にも行われている。増改築がなされた場合、何時の時代の物を保存するのか、また活用するには建物の安全性で計算方法はどうするのか、補強方法はと事細かだ。もし詳しいことが必要なら、文化財保護法で検索して欲しい。

旧松文産業(絹織物工場)を再生して鶴岡まちなかキネマにした様子。

調査では、歴史の文献から調査し、図面におこし、写真を撮る。建設年代、関わった棟梁などを調べる。

 

さて、酒田の小幡(映画おくりびとのNKエージェント事務所になった)調査と活用を聴く。
現在は小波鉄板で覆われている外壁も、出来た当初はセセッション洋式の見事な洋館だったようだ。当初は割烹小幡ではなく、瞰海楼(かんかいろう)として明治9年に建築、明治22年に増築をしている。

庄内地震では、酒田の大方の建物が地震による火災で焼失した。小幡は地震前に建設されて残った建物らしい。こちらも文献があまり残っていない。当時の酒田の役場も消失し、多くの書類が燃えてしまったと伝えられている。
手前の洋館は別として、和風の建物の方は、当初から料亭ではなく酒田の町屋風な(土間が奥まで続いている)建物だったようだ。

残っているタイル。日本製のダントータイルらしい。ダントータイルは現在でも立派に生き残っている。

和風建築の母屋の方は、構造が和洋折衷で、トラス構造が使われている。現在の小幡の建物は、使われなくなって久しい為に、目に見えて老朽化がすすんでいる。再生に当たっては母屋を残し、下屋部分は取り除き、洋館も内側から新たな耐力壁を設ける予定で計画されている。そうそう鉄筋コンクリート造と思われた3階建ての洋館は、何と鉄筋が入っていなかったそうだ。その為の補強である。この方法は面白い。ただまだ発表段階ではないとのこと。

 

お二人の講師のお話が終わって、質疑応答になったが、専門的な話が飛び交い、我々には面白かった
この講演会を皮切りに、31年度からは清遠閣の実測に当たることになる。何処まで出来るだろうか、ちょっと身震いがした。

なお、自分もやってみたいと思う方はコメントを下さい! 後ほど研究会の入会申し込み書を送付させて頂きます。
(殆どがボランティアで、入会金を徴収されるやも知れません。)

寒い日だった。しかし、頭の中は燃えている。

コメント
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