愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

ワクチン接種とマイナンバー

2021-01-21 | 日記

「ワクチン接種者の把握にはマイナンバーが必須」と誰かが言ったそうだ。医療従事者のワクチン接種は事業所ごとにやれば誰が受けて誰が受けて無いかは事業所内で把握できるし、行政は事業所ごとの接種が完了したことを把握すれば良い。医療関係の事業所の多くは病院関係で、医師・看護師などへの接種であり、ワクチン接種自体だけでなく副反応の判断・対応も自らで行える。介護・福祉関係施設も、事業所ごとに行った方が同一施設内でのスタッフに接種済み・未接種のばらつきが無く、接種後の業務管理などがやり易い。政府は行事開催や経済再開に関してワクチン接種を感染管理の要と位置付けているのだから、事業所とは無関係に個々に接種の日程を決めて行われると、同一事業所内でのワクチン接種の足並みがそろわず、業務管理・感染管理などに心理的影響を及ぼしかねない。

 それ以外の一般人のワクチン接種においても、せいぜい個別の健康チェック(問診表?)と年齢チェックの必要性しか思いつかず、年齢は運転免許証で十分確認できるし、顔写真付きの免許証なら本人確認もできる。本人確認の難しいマイナンバーよりも簡単で(今のところは)信用性も高いし、これまで多くの場面でそうだったように免許証が無ければ健康保険証でも問題は生じないと考える。一度受けた人が黙って余分なワクチン接種を望むことにも、他人に成りすまし余分に接種を受けることにも、危険性の可能性こそあれメリットは無く、そのような人が多く出るとは思えない。いわゆる「接種漏れ」を、行政が逐一即時に把握しないといけないと考えるなら、その理由が知りたい。

 政策的なワクチン接種は基本的に集団免疫の確立であり、6~7割が接種を受ければ良い。接種を望まない人は受けなくても良いのだから、もし何等かの都合でワクチン接種の機会を逃した人にはいつでも希望すれば受けられる施設を設けておけば良いわけだ。必要なく何度も接種を受ければかえって危険性が増大しかねないことを周知すれば、他人の名を偽り余分の接種を受ける人がやって来るとは考えにくい。ワクチンそのものの量を把握しておけば、それを消費した時点で何人が接種を受けたか(接種率)も分かる。どうしてもワクチン接種をマイナンバーで管理しようとする考え方は、全く理解できないしマイナンバーにいろいろな個人情報を紐づけようとする試みとしか思えない。

 春の給付金の際も、各個人にマイナンバーを送ったように、各個人宛てに振込用銀行口座を一つ指定しろという書類を送れば済んだものを、わざわざマイナンバーカードの有用性を見せようと画策し却って混乱と遅延を招いてしまったではないか。ワクチン接種を個別に把握するなら、受けていない人の「受けていない理由(自ら接種を拒否したかどうか)」まで把握しなければ、受けたくない人が行政から機械的な催促を何度も受ける事態にもなり兼ねない。ワクチン接種でそれをやれば、また混乱と遅延を招くだけという危惧を拭えない。

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米国・新型コロナ犠牲者

2021-01-20 | 日記

米国の大統領交代を前に、これまでの新型コロナ感染症による犠牲者数を伝えていた。約40万人、驚くほどの数の多さだ。過去の戦争での死者と比較してみると、ベトナム戦争の7倍近く、第2次世界大戦の2倍弱、南北戦争での死者数にあと9万人に迫っている。すでにワクチン接種が進んでいるとはいえ、今年中に南北戦争の死者数を超える可能性もある。そうなれば、対新型コロナの戦いの犠牲者は米国の過去の戦争での犠牲者数を超えることになる。あらためて、その数字の余りの大きさに驚かされた。

 前大統領が新型コロナ感染症に対する当初の楽観視が、ここまでの感染拡大と死者数増大の少なくとも一因となったのは確かなのだろう。だがそれ以上に、新型コロナの致死率や感染抑止におけるマスクの有用性が明らかになってからの、前大統領の言動がそれ以上の大きな影響を与えたように思えてならない。おそらく犠牲者の多くが60代後半以降の人々で、その中には若い頃にベトナム戦争で洗浄に駆り出され凄惨な体験を潜り抜けて来た人が多いだろう。新型コロナの感染が治まった後、彼らはかつてのベトナム戦争を遥かに超える仲間を失ったことにあらためて衝撃を受けるに違いない。人類には、互いに争う前にやるべき事があったのだと感じる人も多いのではなかろうか。

 新大統領は前大統領を批判して新型コロナ対策に力を入れると思うが、果たしてどこまでこのコロナ感染拡大を抑えられるだろう。ワクチン接種が功を奏せば米国の感染者拡大はやがて鈍ってくるのだろうが、ワクチン接種が感染増加に追いつくまでは、これまで通り死亡者が増えて行く。ワクチン接種が感染拡大の抑制にどのような効果を示すか、それは後に続く日本にとっても大いに気になるところだ。

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年賀はがきの当選

2021-01-19 | 日記

お年玉年賀はがきの当選番号が発表されたことを思い出し、昨日の新聞を取り出す。当選番号が書かれた欄を見ながら、当選した年賀はがきを探した。この作業をしていると、昔、家族に来た年賀状を下2桁で種分け作業したことを思い出す。家に届いた多くの年賀状を、まず下二桁の数字で十個の山に分け、そこからまず下2桁当選すなわち年賀記念切手シートの当選葉書を探すのだ。我が家ではほとんど切手シートしか当たらず、当選葉書を探す作業はそこで実質終わりなのだが、毎年それ以上の賞品を目指して1等当選まで空しく作業を続けたことを思い出す。

 近年メール分化になって来て昔ほどの年賀状も来ず、さらに家族の人数も減って年賀状の数がぐっと少なくなった。十個の山を作るほどでもないので、当選番号の下二桁を頭に入れて年賀状を一枚ずつ吟味した。結局、今年も年賀記念切手シートしか当たってない。でも、この切手シートすら当選が無かった年の事を思うと、いくつかの切手シート当選があったことは素直に嬉しい。切手シートもずいぶん昔は10枚近くの切手が付いていて、もらった年賀切手を実際に葉書に貼って使っていた。今は、図案の異なる切手一枚ずつのシートとなり、本当の記念シートとなっている。実用的価値は薄れたが、それでもこの年賀切手の記念シートを貰わないと新年が何か物足りない気分になる。「幼い頃からの習慣だから」だけかも知れないが、かつて我が家の記念シートを並べて切手カタログと照らし合わせていた小学生の頃の気分を思い出す。

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大学入試共通テスト

2021-01-18 | 日記

大学入試共通テストが昨日終わった。コロナ禍での試験で、塾の応援や父兄の同伴も少なかったのだろう、何となくいつもより静かなうちに始まり静かなうちに終わったような印象がある。今年が「共通テスト」に変わる初めての年だったが、マスコミでの取り上げ方も非常に小さく、内容の変化などに関する報道はほとんどなかった。その変革の結果はいずれ少しずつ分かって来るのだろうが、性急に答えを求めないことが大切だと思う。

 昨春にあんなに盛り上がっていた「新学期9月始まり」の議論も嘘のように消え去り、結局マスコミや世論もそれほど本気で向き合う気は無かったのか?と感じてしまうのは自分がどこかひねくれているせいか。よく「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言うが、いつ喉元を過ぎたのかすら分からなかった。来年度に向けての準備が当たり前に進んでいく今、1年前の白熱?した議論を誰か覚えているだろうか。

 世の中はもうすぐ、東京オリンピック開催の可否についての議論で騒がしくなるだろう。昨春に東京オリンピック開催の可否について揉めた?のは約1年近く前。その後、開催の可否や開催条件に関する判断基準や材料は積み上げられて来たのだろうか? 大学入試制度も新学期問題も、そして次はオリンピック開催についても、我々はまたもや内容の分からない「総合的判断の結果」を聞かされるだけのように思えてならない。それにしても「今、コロナ感染を効果的に抑制できるかどうかで東京オリンピックの可否が決まってしまう」と訴えるほどの危機感は、政府にはまだ無いように見える。

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1月17日の記憶

2021-01-17 | 日記

1月17日は、26年前・1995年(平成7年)に阪神淡路大震災が起きた日だ。その日の朝、7時過ぎに起きてテレビを付けると大地震発生のニュースが流れていた。5時46分という早朝の地震でまだ公共交通はあまり動いておらず、道路の交通量も少なかったので、高速道路の倒壊や電車駅ビルの崩壊の映像の割に8時頃の時点ではまだ死傷者数が大きな数に達していなかったことに、少し安堵感を抱いた覚えがある。いくつかの火災が発生していたもののその時点では、それが燃え広がって大火災になるとは想像できず、やがて消し止められるのだろうとしか思えなかった。しかし、昼休みのニュース映像を見て、そんな印象は一変する。いたる所に大きな黒い煙が立ち込め、既に焼失した焼け跡が大きく広がっていた。

 最初に抱いた「まだ消化されていない、何故か?」という疑問への答えは、現場中継の映像で直ぐに得られた。「消火栓からの水が出ない」「水が無い」と叫びながら水を探して火災現場を走る消防隊員の姿、「なんで消火せんのや?」と叫ぶ住民の声が、生々しく入って来たから。そして初めて、都市直下地震が持つ事態の深刻さを悟ることになった。電源も水道も破壊されて、普段なら難なく消し止められる火災を消すことができないのだと。道路は落下物や倒壊家屋などに邪魔され、緊急車両の機動性も奪われているなかで、火はさらに都市ガスやプロパンガスボンベからガス管破損による噴出ガスや、動けない自動車のガソリンタンク・倒壊家屋の灯油タンクなどにも引火して火災を拡げて行く。

 地震災害の多い日本で、しかも関東大震災という大規模な都市型地震災害の被害経験を持つ国に居ながら、そんな当たり前のような都市の弱点をも知らずにいたことに、何の想像力も持っていなかった自分自身、多くのマスコミ、政府・自治体などの "馬鹿さ加減" を知らされた思いがした。都市部の地震被害で火災が発生した時、消火栓以外にどのように消化の水を得るかという計画は、おそらくどこの町においても作られてはなかったのではないか。地震や台風・大雨の水害など災害の多いこの国で、都市の様相や生活スタイルの変化に合わせて常に災害対策を作り直していかなければならないことが、頭の中では何となく分かっていても実際的な対策の更新は行われて来なかったのだと。

 阪神淡路大震災の災害援助・復旧の過程で災害ボランティアやインターネット網の拡がりなど、それまでには無かった多くの新しい災害支援・情報共有の動きが発展して来た。震災後に、国として「災害救助の特別部隊」を持つべきではないかという議論があったという事も耳にし、東日本大震災の後にも同様の意見が持ち上がっていたと思う。2つの地震災害の経験の中で、災害医療においてもDMATやAMATなどの災害派遣医療の協力体制が発展して来た。しかし、彼ら普段はそれぞれの地域で医療活動をしている医療従事者であり、緊急時にそこを離れて災害地域に支援に派遣されるシステムである。したがって、広域の災害や全国規模の災害医療に対して対抗することができない。広域・全国的な非常時には、当然、自ら担当する地域自体が「非常事態」に直面している場合も多いからだ。今回のコロナ感染拡大で分かったように、広域または全国的な医療逼迫に対応するには、やはり固有の担当区域を持たない一定の余剰(というか非常用)医療スタッフ・医療資源の備えが必要だと考える。

 「災害救助隊」でも医療に専念する「災害医療部隊」でも良いが、災害医療・感染症の大規模発生などに備える一定規模の特別医療チームを国として持つことを本気で考えるべき時ではないか。新型コロナ感染症でなくても、毎年どこかで地震や水害で多くの災害避難者が出ている日本で、しかも通常時から「医師不足」が指摘されている中で、災害時に通常時医療から人員を割いて災害医療に当てるには元々限界がある。今後大型地震も異常気象の頻発が予想されている日本において、そのような特別医療チームを必要とする事態が毎年どこかで発生するだろうし、さらに海外への災害医療援助派遣を視野に入れ、災害医療に特化した能力向上研修などと考えると、「非常用の特別チーム」と言えどもおそらく暇に過ごす時間など無いだろう。

 通常時に病院勤務を持つスタッフを緊急にその病院勤務から外して派遣することは、公立・私立問わず病院にとって難しいと考えられるが、現時点ではそのような通常医療への「しわ寄せ」を強いる形の災害対応に頼っているわけだ。今回の新型コロナ感染の事態は、長い間医師不足と言いながらも有効な対応の手を打たず、非常時への対応を医師・医療従事者まかせにして来たつけを支払わされているように思える。

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