当代を代表する専制主義政府が国外からの非難を「民主主義を口実にした外国による内政干渉」と言い換え、あるいは「ジャーナリズムとはいえ法律は守らなければならない」と自らの行為の正当性を説明しようとしている。一つは「選挙で選ばれた政権を軍事力で転覆し、その行為に抗議する無防備の市民には銃を発砲する」という勢力、また一つは「武力をちらつかせて民衆の意見を封じ込め、反対する意見を力で封じ込めても良いとの法律を自ら制定し遵法を強制する」という勢力。
自らを憲法の外に位置付け「治外法権」を軍事力で押し付けた勢力が、民衆が選挙で選んだ政権を武力で強奪した場合、その武力強奪の「正当性」とは「強者は常に自分に都合の悪い者を排除して良い」という「正当な理屈」なのだろうか。片や、民主主義を守ると言いつつ自らを批判することを一切許さず、自分の権力を押し付けるために一方的に作った法律に従うべきという「正当性の主張」もある。
民主的手続きによらず専制的に制定し押し付けられた専制政治のための「掟・定め」は、「民主主義に則った法」とは別物であり、民主主義を前提とした「法治国家」とは全く異なる。ましてや、自分達は法の外に置いてその支配を受けず「都合が悪い時にはいつでも武力で全てをひっくり返す正当性を有している」などというのは、まるで映画の中で村々を襲って支配する山賊集団や野盗集団と変わりがないだろう。自分に反論する者、自分に意見を言う者、自分と異なる考えを持つ者の全てを「敵」として殲滅の対象とする考え方は、数世紀前の専制君主時代の遺物である。
世界にはまだそのような武力集団・専制主義信奉者による支配が無くなってはおらず、彼らににはその「正当性の主張」、つまり「弱者を虐げる支配者同士の共感・共鳴を声高に募る行為」が有効だと思えるのだろう。専制主義の政府が民主主義社会に向けて「自らの行いは法律に則っている」と主張するのなら、まずその「法律」が「民主的プロセスによって成立した法律」であると証明しなければならないことを知るべきだ。
反対意見との十分な議論の末に制定されたものでなく、反対者を捕え・意見を封じ・武力と権力で脅して成立させた法は、反対者にとっては「法」ではなく弾圧の「口実」でしかない。権力者が自分の都合で制定した法を万人に押し付け、「私が法律だ」と言うに等しいやり方で人々に武力を振るう姿が「法治」と言えるだろうか。
頻繁に彼らが論うように、民主主義を信奉する社会においてすらその全てが民主主義の理想に沿っているとは言えない状況が確かにある。しかし、少なくとも民主主義を信奉する社会においては、その欠陥を指摘したり自分なりの批判を展開する自由の範囲は圧倒的に広い。そのことを、彼らは認めなければならないだろう。「現実は理想に達していない」と民主主義信奉者の欠陥を論っても、それは専制政治を正当化する理由にはなり得ない。