Sydney Yajima


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データを出せ 

2011-04-22 23:48:47 | Weblog
私は 宝石鑑定士でもあるので、スペクトルの使い方を良く知っている。
専門的に勉強した。
それはどんな鉱物にでもかならず 特殊な光の分散が起こり、それがスペクトルを通すと、さまざまな部分に証拠になるラインが特徴を持って出てくる。
しかし東京電力は そのスペクトルを出さない。
恐ろしいのは、さまざまな汚染を東電が隠している。
それも、海水にどんどんと汚染が広がっている。

この放送を聞いてみて欲しい

多くの汚染が現在行われている。
ウィンズケルの問題が話されている。

放射能物質は回収が出来ない。
高濃度の汚染を閉じ込める。
放射能を取り除く。
そうしなければならない。

原子炉を冷やすためには水を入れ続けなければならない。
それが続くかぎり汚染水は海に流れ続ける。
汚染はますます広がる。

福島第一原発の、区域には入らないという法規は、正しいのか?間違っているのか?
難しく 悲しい問題だ。
どうしていいか分からない問題だ。
チェルノブイリの事故のとき、40万の人が強制排除されたこと。
そのことから考えると、原子力発電所を建てるとそれはいずれ同じことが起こる。

今、250ミリシーベルトに引き上げられた、労働者に、別扱いで管理するというかたちで、手帳にも書かない。闇に葬るという過酷なことをしている。
日本人は一年間に1ミリシーベルトしか 受けてはいけない。
事故の時には100ミリシーベルトであったが、それを250ミリシーベルトに上げ、しかも手帳にも書かない。
まさに 棄民が行われている。

子供の問題もある。
通常の0.05マイクロシーベルト 一時間当たりなのだが、子供たちに80倍の量を我慢させようとしている。
年間20ミリシーベルトを超えないように・・・という値はすでにとてつもなく高い。
被爆は危険だからそれを前提に基準が決められてきた。
日本政府が決めたことだ。
それが20倍に上げられた。
子供にだ。
子供は放射能にとても敏感だ。

押し付けてそれが許されるのか?
屋外に出ることを一時間に制限するというやりかたで 防げるのか?

被爆はとても危険。
子供は外で遊ぶ者。
それを制限して、放射能をあびないようにする と言うこと事態 異常だ。

土や砂が入ったら、うがいをしてくださいと言う話について・・・
一時間当たり3.5マイクロシーベルトという被爆を容認している政府。それは外部の話なのだが、もし口に入ったら、うがいをしなければならないという・・・そのことは やるべきだが、そもそもそのような状態にしたのは、だれだ?
政府だ。
政府がまず、誤りを認め、そして、この異常な状態をなんとかしなければ 子供たちが守れない。
それに政府の工程表は、甘い。
もっと 事故が拡大し、汚染範囲が拡大するということもこれから ありうる。
そして、子供たちに多くの被爆を我慢しろといっている政府は、一体 誰のための政府なのか?
親の気持ちになったら、どうだろう?

被爆と言うのは、微量であっても危険だ。
なんとか、子供に限っては、少しでも被爆を少なくしてやらなければならない。
疎開・・・家庭が崩壊してしまう・・・

これをどうすればいいのか?
まずは 被爆を避けることが大事だ。

長い間住んできた土地、ふるさとを離れたくない人。
その人たちをどうすればいいのか・・・
彼らの生活をどう支えれば良いのか?
孤立した生活、食料、電気 ガス、医療など、彼らの生活を保障しなければならない・・・しかし 逃げたほうがいいに違いないだろう。

政府の計画的避難地域という区域の設定事態、疑問がある。
政府自身が追い詰められている。
それは、原子力と言う恐ろしいものを 許してしまった日本の大人たちの責任がある。
少なくとも、子供たちだけはなんとか 逃がしてやらなければならない。

納得して、なんとかしていかなければならないのに、誰も、説明しない。
日給三万円で福島原発に行ってくれないかという作業員の人たちがいる。
水素爆発はある・・・と東京電力が言っている。だから窒素を入れた。
しかし、格納容器の内圧が上がらない。つまりそこに損傷があるからだ。そして放射能がそこから漏れているということになる。

やはり、水素爆発の可能性は、あると考えておいたほうがいいだろう。

策を出さなければならない。
それは日本人の大人が子供たちを守るための策を出さなければならない。







ジュリア ギラード 豪州首相

2011-04-22 21:58:23 | Weblog
ジュリア ギラード 豪州首相が日本を歴訪している。
私は、この人が好きではない。
あの声も、あの目つきも、歩き方も、なにもかもが嫌いな人間の典型のタイプなので、とても彼女のために良いことを書けそうも無い。
したがって、せっかくの機会だけど、あまり書かない。

ただ、彼女の目的は、日本との自由貿易交渉で、それによって関税を撤廃しオーストラリアの農業製品を安く入れるようにと言う目的だ。
しかし オーストラリアのバナナはキロ当たり11ドルを超えている。
なぜなら、オーストラリアはすさまじいほど農業製品に保護主義を行っていて、たとえばフィリピンから安いバナナを輸入するというようなことは、決してしない。

一方、オーストラリアは日本と仲良くする・・・ことで軍事協定を進めようとしている。それは 対中国であり現在中国は神経を尖らせている。
しかし、オーストラリア、アメリカ 韓国 日本の連合軍が ちょうど NATOのような形を作ろうとしている。

この点、見逃さないで考えておいたほうがいいだろう。

ところでさらに、ブックマークをアップした。
遅すぎたレベル7 日本は開発途上国に堕ちた! [2011.04.17]

たいしたことはない と言う人を逮捕せよ。
本当に福島のことを考えたら、その子供たちのことを考えたら、絶対に大したことはないなどと 言えない。
子供たちを助けよ。
今なら間に合う。
と訴えている。



人間のすばらしさ いやらしさ

2011-04-22 19:54:23 | Weblog
被災した人にはとても気の毒に思う。
が・・・
要求する被災者というのも また 他方、現実に あるわけだ。

みなが、みな、「私たちのことはできるだけ 自分たちでやります」という人たちではなく、中には、やってもらって あたりまえ。という人も出てくるようになった。
それだけ、被災生活に慣れが出てくると、どこか、本来の傲慢さが出てきたりもするのだろう。

こういう 被災者を非難するようなことを 今の時期に言う人は あまりいないと思う。
気の毒な人たちなんだから、とか、家のなくなった人たちなんだから、理解してあげて。ということなんだろう。
確かに、それは私も分かっているけれど、しかし、人は「ありがとう」からはじまり、「ありがとう」で終われないものかと思うので、あえて書いている。

テレビで、昨日見た。
見たことを ありのままに言うならば、おおよそこのような感じだった。

被災して学校の教室に住んでいる被災者たちがいる。

しかし授業が始まり、子供たちは教室が使えず、床に座って60人の生徒がぎっしりと勉強している。
机が出せないのである。
学校側から被災者たちに、 体育館へと移動して欲しいと通達があった。
それで・・・
「どうして あんな泥だらけのところに住むんですか?」と怒っている 被災者の女性がいた。
自衛官がやってきて、そこを整備するという。
それでやってきた自衛官にむかって
「ここの床をしっかりきれいにしてください。こんな風だと汚くて生活できないから」と、言っている。
自衛官は
「はい、わかりました」と言って その自衛官は、一人で 広い体育館の雑巾がけを始めた。
一ヶ月 震災から時間があったわけで、もし、その気になれば、自分たちで体育館の片付けや 住めるように掃除するくらいのことは、できるはずだ。
ここには、水もあり電気もある様子だった。
なのに、この女性は、ただ、怒鳴りつけるだけで、自分たちの生活を自衛官や国が面倒を見るのは当然 のように思っている。
私は、今まで、ずっと被災者たちの味方だったし、いまも、そしてこれからも、そういう弱者の味方でありたいと思う。
しかし、この女性はすでに弱者ではない。
自分の弱い状態を武器にした時点で、この人は、すでに弱者ではないと思う。

私が被災者の立場なら、生きていることに感謝し、できることを率先して行い、そして復興のために あるいは家族や地域のために自分に何が出来るかを考えるし、死児の齢を数えるようなことは、しない。
もし、無償で何かを提供されたら、それこそ 涙を流しながら ありがたいと言うだけだ。
しかし、わたしはその提供してもらうことにたいして 文句を言う日本人を 始めて見た。
驚いた。
こんな人がいることに、暗澹たる気持ちにもなった。
この人に 明日は来ないと思う。
なぜならば・・・
明日を見るということは、それが出来る人にのみ許された資格だと思うからだ。

学校の教室から 体育館へ移動するのは、寒いかもしれないし、食べ物もなく 暖も無く つらいこともたくさんあるのは、分かる。みんな 知っている。
だが、無償で、なんとかこの困っている人たちのために、国やボランティアの人々や自衛隊員たちは、何とか生きてもらおうとさまざまな方法で、今 自分たちに 出来ることをオファーしているわけだ。
ありがとう
それで あとは何とか自分たちの力で生きていけるように頑張る。
感謝しながら ご厚意は忘れません。と言う。
ならば、もっと助けてあげようと思うし、助けてあげてよかった とも思える。もちろん、心と心のつながりもできる。

私がここで思うのは、その文句を言う被災者たちは、今は、ものの一面だけを見ているというだけで、一歩高いところから 見直してみることができないのだろう。
今の苦しみは、永遠に続くことではない。
それよりも、むしろ、今だからやらなければならないことが あるはずだから それを見出して欲しいと願う。

歩ける人は、歩いてみることで何かが変わる。
外に出れる人は、出てみることだ。

希望は、小さなところに残っていることもあるけれど、一歩踏み出すことでもっと大きく違ったところで発見できることも あることを、外国に25年も住んでいれば 分かる。
私の生まれた小さな町は、今でも そのままの小さな町で、同じような人が同じような顔をして、そして ひしめき合って暮らしている。
そこにいれば、分からなかったこと、たとえば、こだわりや、そのときには常識だと思っていたこと・・・は、一歩外に出ると なんとちっぽけなことだったことか。

もっと、大きな視点に立って、そして 明日からの生活を見直して欲しいと願う。
それが幸せになれる近道だ。
誤解を恐れずに、言うならば・・・

時代は変わった。
自然環境も変わった。
あなたたちの生活も変わった。
次は あなた自身が変わる時だ。