クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

五料茶屋本陣雛祭り R- 2- 2-19

2020-02-24 10:54:59 | 安中・松井田
今年も群馬県指定史跡であり江戸時代の名主屋敷でもあった五料の
茶屋本陣で「ひな人形展」が始まった。初日の19日が丁度
フリー時間が生まれたので早速訪問。
今年のテーマは「享保雛」と「京雛」。
「享保雛」は八代将軍吉宗の享保時代から宝暦にかけて当時の
バブル景気を反映して流行った豪華な大型雛だが享保雛との命名は
明治時代のものだから流行った当時に享保雛と云われてはいない。
かって雛人形は京都が中心の関西では「御殿造り」、関東では
「段飾り」という江戸後期からの棲み分けがあった。両者の大きな
違いはと云えば大まかにはこんな事だろう。
京雛は京都御所・紫宸殿を表す御殿の中に天皇皇后を模した
内裏雛を飾り男雛を向かって右に配置する。
関東雛は御殿飾りは無く多くの人形や道具を飾る段飾りで男雛は
向かって左に置かれる。だが、戦後の高度成長と全国的販売網の
確立などに拠って複雑で収納に不便な御殿造りは衰退し段飾りが
全国版になっているそうだ。
約25km程度の走行で到着した現地の室内は、薄暗い蛍光灯の元では
危惧した通り爺イのコンデジは上手く対応できなく画像は
極めて不鮮明。取り敢えずyoutubeで大体の雰囲気をお察しください。
五料茶屋本陣雛祭り


これが展示されている御殿造りの一つ。中に入っている天皇皇后を
模した「内裏雛」は極めて小さい。
念のために記しておくと男雛と女雛を「お内裏様とお雛様」
と呼ぶのはサトウハチロウ作詞の1936年の童謡歌詞での誤用が元で全くの
間違い.一対で「内裏雛」と称するのが正解。


御殿の構成は向かって右に「左近桜」、左に「右近橘」が配置される。
平安宮内裏の紫宸殿前庭に植えられていた「桜とタチバナ」で
左近・右近は左近衛府・右近衛府という警護隊の略称。左近は紫宸殿の
東方に,右近は西方に陣を敷くが,ちょうどその陣頭の辺に植えられて
いるのでこの名がある。


これが京雛の「内裏雛」の配置で向かって右が上位で男雛。
日本には古くから「左方上位」という考え方があったので当然
左大臣と右大臣では、左大臣の方が格上。「右に出るものなし」との
言い方は向かって見た形から生まれた。雛人形は元来平安貴族の姿を
表すが現在の皇室では明治時代の終わり頃から日本でも西洋に準じて
天皇は必ず皇后の向かって左側に立つし座る時も同様、従って
関西では昔のルールであっても関東雛では向かって左に男雛。


会場入口近くに仕丁を伴った小野小町人形がずらりと勢揃い、
小野小町と云えば『清少納言』『紫式部』との三人で三賢女、
柿本人麻呂・菅原道真と共に三歌人であるとともに何よりも
クレオパトラ 楊貴妃と並んで 世界三大美女となれば
理想の女性と云う事で雛祭りの常連なんだろう。
但し、世界三大美女に小野小町を入れているのは日本だけの話だってさ。


次の間は「座り雛」の大集団。


裃雛
一見、座り雛に似ているのが「裃雛」だが。江戸後期に岩槻市近辺で
作られたもので、大正時代にかけて北関東に広く普及したもの。
似ている筈で衣装は地味だが別名が「座り雛」とか。
背筋を伸ばし両手はきちんと膝の上、こんなお行儀よく育って
欲しいという親の願いだろう。髪型の「おかっぱ」「ちょんぼり」が
特徴で大集団の「座り雛」とそっくりさん。


嵯峨の衣装雛
この人形は、木彫の人形の衣裳部分に胡粉をこまやかに盛り上げて
文様をつくり、その上に金箔押をし、極彩色を施した人形。
そのルーツは定かではないが、京都・嵯峨に住した仏師が余技に
製作したとも、精巧美麗な細工への賛辞として「嵯峨」という
美称が用いられた。両袖に精巧な鶴亀松竹梅の刺繍。


胡蝶の舞
天冠をつけ蝶の羽をつけた舞姿の構図。
天冠に菜の花をはさみ、袍の背に蝶の羽を負った女性が、羯鼓を
打って舞う舞楽だが本来の舞楽では女性ではなく童子。
背中に蝶の羽根をつけるのは古代中国の胡の蝶蝶をモチーフと
したものらしい。


蝶の道行
一見すると胡蝶舞に似ているが歌舞伎舞踊。
六幕の時代物で、恋仲の助国と小槇が北畠・桃井両家の御家騒動の
犠牲となり、主家の若殿や息女の身替りとなって死ぬが、2人は
死後にその蝶になって秋の花園で道行をするという筋。


「手古舞」
手古舞雛は舞踊の上手な氏子の娘が祭礼の時に踊りを奉納したことが
はじまりだと言われているが男装をした芸妓の祭礼姿で
江戸祭礼の一風俗。花笠をかぶり、金棒を引く芸妓の男姿ーーと
単純には言えない謂れがある。
鳶職は江戸時代には「てこ」または「てこの者」とも呼ばれていた。
これは土木作業をする際に、手棍(てこ)を使っていたからだが
祭礼のときに山車の引き回しに付き添って、木遣を唄いながら
警護するのも役目だった。この山車に付き添う鳶のことを「手棍前」と言い
「手古舞」とも書いたが、特に祭礼に当たって何か踊るというわけでは
なかったようだ。その姿は右手に錫杖、左手に自分の名前が書かれた
提灯を持つとは云うがこの人形は持っていない。


蚕神雛
蚕神の人形も多い。養蚕が盛んだった群馬県では、女の子が
誕生すると、養蚕が上手になるようにと、「衣笠(きぬがさ)様」と
呼ばれる養蚕の神様の雛人形を贈る風習があった。
桑の小枝を手に持った女神・蚕神である。


享保雛
徳川八代将軍・吉宗の《享保年間》の頃に流行したものだが、
バブル期のような豪華絢爛な時代だった為に、雛人形も豪華。
特徴は、面長で、切れ長な目と少し開けた口、 細くて白い手。
女雛の赤い袴が膨らんでいるのは公家の正装が朝鮮半島から流入
したこともあり、 朝鮮のしきたりとして、女性の正式な座り方が
片膝を立てる形だったためと云う。大きな宝冠を被っているのも
バブルの象徴かな。この 享保雛は、明治時代まで製作されて
いたらしい。


古今雛
江戸後期に端を発し、庶民の関心が高まり、明治初期まで、
雛人形の主流をしめた内裏雛が古今雛である。
男雛は束帯、女雛は五衣唐衣裳(いわゆる十二単)と上級公家の
正装を模すが必ずしも有職故実に則さず、華麗に仕立てている。
女雛が単の袖を長く出し、垂髪に宝冠を被るのが特徴。


狆引き
女性の豪華な色柄の着物姿を引き立たてるため 毛並も「白黒」に
改良された犬種。
犬はお産が軽い事、また幼児の死亡率が高かった時代に
子供の健やかな成長を願う親の思いが育ちやすい犬に結びつき 
ひな人形と一緒に 好まれて飾られる習慣が出来たそうだ。
中でも 狆は日本古来の犬種で、昔から 上流階級で飼われ
ていたらしい。


三番叟
翁の舞が、天下泰平を祈るのに対し、三番叟の舞は五穀豊穣を
寿ぐといわれ、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。

其の他


五料茶屋本陣雛祭り画像



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