東京モーターショーにEV車の出品でニュースになる。それはキーワードで、CASEと日経が伝える。テーマは、 世界を、ここから動かそう。BEYOND THE MOTOR となるが、TMS2017の主催者テーマ展示が、TOKYO CONNECTED LAB 2017 である。1つの重要なテーマは、コネクテッドカー、つながるクルマにある。クルマとクルマがネットでつながる、車車間通信が実現すると、その広がりは未来空間のバーチャルである。コネクテッド、オウトマ、シェアリング、エレクトロニクスの車は、EVとして、新たな空間移動手段になる。BEYOND THE MOTOR モーターを超える そこにはエネルギーの化石燃料からの脱却がある。馬力と称するものが、ガスエンジンとなり、蒸気にせよ、ピストン運動のエネルギー変換が如何に行われるかであったものを、電力のモーター回転になると、なにが違ってしまうのか。電気、電子の自動運転は車を所有するのでなく、電網をもって分け合うように、電子の飛び交うわたしたちの身の回りに、大きな電子の塊としての自動運転車が飛び交うようになるのだろう。 . . . 本文を読む
2017衆議院選挙はふたを開けてみれば、好きな言葉ではないが、1強政治の再スタートになったようである。アベノミクスは経済政策として表舞台に立って、その成果を教育の投資に向けることになる。野党の再編かと思われた、それまでの野党の党首選挙で見えてしまったのは党首に一任するという、野党第一党のの解体であったから、その代表選でとげるかに見えた野党連合が見事に瓦解し決裂をした、その政治では民衆はあんぐりとしてしまう。希望という名の劇場に見えたパフォーマンスはこれまた政治家の我欲と保身、行ってみれば政治屋の信念なき口先行動であった。10代の有権者の投票行動は3分の一以上が現政権の支持であったようだ。 . . . 本文を読む
選挙報道をメディアで見る。そのメディアが偏向していると、その実感をテレビ報道で感じていて、それをまともに見るのは、コメンテーターの顔ぶれで決まるか、MCの差配に拠るかと、結局はボクシング中継を観戦していて、それが終わったあとも結果だけを追うことになる。新聞の朝のニュースを待てばよいようなことだ。台風の影響で投票締め切り後の投票箱を運べないという離れ小島があって、その地域は開票ができない。西尾市の選挙区の名前が九州などの地域に合わせてあったりして驚く。さて、そのテレビ報道はさらに、見ていないから何とも言えないが、ネットニューサイトで見たのかというと、ユーチューブの画面を見るようなところで、これを言い出すと、偏りも様々で、つい聞いてしまうようなところがあって、マスメディアに流れないことがあるからである。かたや台風ニュースがあるので、それをチェックするチャンネル合わせをしている。 . . . 本文を読む
投票締め切りとともにテレビ局は速報を流し始めた。どのチャネルも出口調査予想をもとに奉じている。自民党の若手ホープの当選確実の一報に始まって次々と開票が行われていてまだわからないのに早々と票読みの結果を議席獲得の数字にしている。一つのチャネルがボクシング中継をしていた。オリンピックの金メダル選手がチャンピオン戦の再選をすると言う曰く付きである。どこを見ても同じような報道なので、そのボクシングの闘いを観ていた。ミドルクラスの重いパンチが巧みに打ち出されてはブロックするうちにだんだんとスタミナをなくして打たれ数が多くなるという展開だった。そのチャンピオン戦は王座奪取におわって、真チャンピオンは感激の涙にあげた勝利の手をレフェリ-支えられながらリンクを回った。よほどの思いだったろう、勝利インタビューで泣いたかと言われて、泣いていませんと繰り返した。そうする姿がすがすがしいものであった。チャネルを変えて開票速報を見て、台風の嵐の中、選挙戦の結果は出口予想の通りに進んでいった。希望の党がその議席をとれなくなる経過があらわれて、勢力図に変化のないこと、それ以上にチャンピオンシップのように、強いものが強いと言ったような、与党の勢力の強さが現れた。 . . . 本文を読む
雨が降りしきって台風が近づくと、そのときに、天井のクロスからどっと水が落ちてきた。そのあとのは、ぽたぽたの雨漏り、2階の天井に雨が入り込んだ事件である。3階には断熱材とそのコーティングで数年前に塗りなおして、それからまた、同じように同じところから、2階の天井に雨が入り込んだ。これは大変、まだ台風が来ていないのに、このままだとクロスに水が溜まってくる、とばかり落ちる、漏れ来る雨受けのバケツだの洗面器だのを並べて、受けてみて、本があるし、棚に置いたものを緊急避難して、さてそれからは、雨がきつくなると、そのぽたぽたと激しくなるようすに、雨漏りの場所を突き止めなければならない、応急処置でもしないと前回同様のことになる、施工業者に連絡してみて、休日であるゆえ、天候の回復を待つようなことを言われて万事は窮すとなるべく、意を決した。結果は、受け皿となるポリバケツに洗面洋のポリ桶に、たまる雨をしのいで一晩を過ごすことになった。と書けば、騒動の、意を決したことが何かと、それは3階の屋根に上がって点検したことである。風にあおられると吹き飛ばされる、その危険な高さであがるのは2度目のこと、台風がまだのことなので、風も吹いてはいない、足場の悪いところを這い上って、見てみたが、これまたわからない。結果として事故にならなくてよかったという顛末で、ボケ老人の決断には期日前投票を済ませていたすこしの勇気であった。 . . . 本文を読む
天候のようすでは投票日に荒れるかなと思って投票に出かけた。不在投票とか言っていたころの、投票風景と変わらないが、期日前投票にはたくさんやってきているようである。名古屋駅前で首相が演説に来るというので開始時刻30分前に、雨の中、立ち位置を確保して待つこと30分、演説会が始まって、来ない、かわるがわるに候補者が演説して、県連会長だの県議だのと二回りもマイクを握って、30分待っても来ない、道路の渋滞で、もう来ますとばかりにアナウンスをしていても、待つこと1時間にもなるからくたびれて、開始30分でも現れないのであきらめた。岐阜で顔を見せていて、それから車で回って名古屋市内は熱田、栄ときたか、名古屋駅前の週末土曜日の渋滞を知らないんだなと、雨降りの中、傘をさして前の人ので見えなくなり、後ろからは傘のしずくをぽたぽたとかけられて、身動きをするのもままならず、やめた、と、帰ってきた。何しにいったのかと家人に報告して言われて、それは選挙運動の見学だと成果があったよと、待ち受ける時間つぶしの格好となって、しゃべっている候補者がだんだんと、用意されない演説をグダグダと聞かされたものだから、なんだか正体がわかってきたような気もちで、もう十分、首相のはテレビと、あきらめがついた。すこし前には、ほかの党の党首の応援をこの駅前で見たので、それはまさしく聞くというものではなくて、市長と二人で掛け合いをする漫才を見たようなものだったから、選挙に向けて市民のための演説はあるのかと、思ってきた次第だ。 . . . 本文を読む
ロード・レージ Road rage は、運転手が車の運転中に割り込みや追い越しなどに腹を立てて、過激な報復行動を取ることと辞書に見える。報復行動に至ることがなくても、クラクションを鳴らす、車間を詰めて煽るなどを始めに、この語に現れる、感情は自分の思い通りにならないことによるも怒りの感情である。事故の原因にあおり運転の状況で起こすことが取り上げられれ、それはまた映像記録によって、ドライブレコーダーを搭載した車が多くなり、危険運転の証拠となっている。その発生原因には、煽リ、
割り込み、パッシング、急ブレーキ、自分より小さな車の追い抜き、追い越し車線でゆっくり走るなどをあげている。rageとは、(抑えがたい、激怒、憤怒、激しさ、猛烈、猛威、熱望、渇望、大流行(のもの) と見える。
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自分と他人と、個と個とが対立する。個人とは他人である。その個と他とはお上の前のコとコとである。おかみ、御上と言った場合、その意味には、デジタル大辞泉より、まず天皇の敬称であるし、次に朝廷、幕府や政府など、時の政治を執り行う機関となる。古代の天皇によるか、また、為政者をさすのは、律令制度の長官をそう呼んだことにある。 . . . 本文を読む
自由と権利とを守る。その国民の義務を見据える。国家であり地域の共同体であり守ることを知る。なすべきを果たす。国民の自覚にあるものが何かを知るべきである。言論の自由、思想信条の自由、基本的人権、教育と環境の権利、わたしたちの国に実現する自由と権利はどうであるか。法によるだけではない、法によらない不文律を持つことを考えるべきである。国家と共同体に持つべきものは何か。わたしたちの共有する目的、方向である。宗教ならば救済、慈悲、恩恵をもって、永遠、天国、極楽を求めるか、西方の浄土を目指すか、鎮守の森に祀られるか、それは時代を作ってきた。いま、この現代にあっては、経済と外交と、情報の革新にある未来、到来する将来のわたしたちである。 . . . 本文を読む
あゆむ、歩みをたどると、近隣の情勢には、かつての歩みを見る、ような思いがする。かつての歩みとは、この地域のこのごろの緊張はかつて日本が作り出して歩みを大きく変えたころのことである。それはなにかと、朝鮮半島、大陸のうち、欧州の文明と対比できる文化圏に起こることで、起こりかねないことが国の版図拡大である。日本国家が近代に文明国に倣えと脱亜入欧の思想をもって、これは歴史的用語となるかどうか、その動きにあらわれた、結果としての軍事、侵略、資源を求めての拡大しようとした帝国のことは、軍国主義と先軍政治、軍事力の世界への誇示と、覇権を求めようとするかの現在の情勢に、かさなり合って、そこに、日本が歩みを持ったことが、アジア近隣に繰り返されようとしている。1910年代から2010年代へと100年の歩みをとらえると、この地域に起こってきたのはアジアの日本による勢力均衡の変化であった。アジアだけに目をとどめることは、ヨーロッパとのかかわりを見ないということではない。近隣諸国のこの緊張にあるのは、いずれも欧米に向けられた、とくに米国に向けたものとして、その様相がある。一触即発のその端をなすものは、さかのぼれば南北の勢力均衡であり、自由と統制の思想の闘いである。 . . . 本文を読む