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朱子学

2018-08-05 | 日本語百科

日本の儒学、その朱子学を推し進めたのは、寛政異学の禁による。寛政2年5月24日、1790年7月6日、江戸幕府老中、松平定信が寛政の改革で行った学問の統制によって、正学と位置付けられた朱子学である。





ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
朱子学
しゅしがく
Zhu-zi-xue
道学,理学,宋学,性理学,程朱学,新儒学などともいう。中国,南宋の朱子,あるいは朱子に代表される人々の学説。周敦頤 (しゅうとんい) ,程 顥 (ていこう) ,程頤 (ていい) ,張載 (ちょうさい) などの思想を,仏教や道教に触発されながら体系化したもので,宋以後の中国,朝鮮,日本の中核的思想となった。その思想は,万物の構成原質である「気」と,万物の理想的なあり方を示す「理」とを中心とする。天地,人性,道徳のすべての事象がこの理と気によって説明される。それはまた,当時の士大夫の存在意義,その目指す方向を,宇宙論的規模での理論づけに成功したものであり,それゆえこの思想は,以後の士大夫社会に常に安定した力をもち続けた。朱子学は,中国では元以後,日本では江戸時代に官学となった。日本への流入は俊仍 (しゅんじょう) に始るが,学派としての権威を確立したのは,江戸時代初期の藤原惺窩,林羅山からである。江戸時代の朱子学者としては,山崎闇斎,新井白石などが注目されるが,思想としての活力は次第になくなっていった。しかし一方,朱子学の合理的性格は,実証的精神,合理的思考をはぐくみ,幕末維新の西欧文化受容の下地を準備することになった。


ウイキペディアより

江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の林羅山登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達した。だが、徳川吉宗は理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古学(山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠(古文辞学派))や折衷学派などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討された(『甲子夜話』)。

松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。

そこで寛政2年(1790年)5月24日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山・岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、林信敬の補佐として柴野・岡田に加えて尾藤二洲や古賀精里を招聘して幕府儒官に任じ、更に荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。寛政4年(1792年)9月13日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
寛政異学の禁
かんせいいがくのきん
寛政2 (1790) 年5月 24日,寛政の改革の一環として江戸幕府が朱子学以外の学問の講義を禁止した学制改革。幕府は開幕以来朱子学を正学と定め,封建支配の教学としてきたが,伊藤仁斎,荻生徂徠などの古学派,井上金峨,片山兼山などの折衷派,その他諸学派が次第に盛んになった。一方,林家には人材がなく朱子学は衰えていき,湯島聖堂 (→昌平黌 ) 廃止論まで出た。老中松平定信は朱子学擁護のため柴野栗山,岡田寒泉を聖堂の取締りとし,大学頭林信敦に異学の禁を実行させた。すなわち,林家の湯島聖堂を官学昌平黌と改め,また,朱子学をもって官吏登用試験課目とした。同 10年頃まで続けられ,冢田大峯,赤松滄洲らの反対にもかかわらず朱子学は復興し,諸藩もこれに見習うものが多く,異学は圧迫され,その後の発達を妨げられた。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
寛政異学の禁
かんせいいがくのきん
> 江戸幕府は成立以来、儒学とくにそのうちでも朱子学を、封建教学の根本とした。しかしやがて、時代の趨勢(すうせい)にマッチしない朱子学に飽き足らぬ人々が多くなり、「知行合一(ちこうごういつ)」を説く実践的な儒学である陽明学や、直接に孔子、孟子(もうし)の経典を研究することによってその真の精神を明らかにしようとする古学派や、さらには、いずれの学派にも偏せず学問研究法の自由を主張する折衷派など、朱子学以外の学問が盛んになった。これに対して、幕府の教学体制の中心である林家(りんけ)には人材が出ず、朱子学は衰える一方であった。寛政の改革を主導した老中松平定信(さだのぶ)は、このような情勢に対処して、封建教学再建のために朱子学を振興し、これを官学として明確に位置づけるために異学の禁を断行したのである。


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