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教育用文法

2020-11-30 | 日本語文法

学校文法の文節は橋本学説のいわば専売特許であるか。その分析を採用した学校教科書の係官にある。教育は文節の考えを進めることになった。それには文語文法をベースにしているという批判は至極当然のことで、言ってみると書き言葉の捉え方で、それ自体は記録された作品を言語対象としているので、文語はさておきとか、文語では理路整然としたのでそれを論外とする議論は日本語を知らないといっても過言ではない。
ところが口語文法教育に、その例外となる現象が現れていて、それをまた記述して文語口語の対照で教科書に説明されてきたにもかかわらず、口語となって起こしている語や文に見る音韻現象をとらえようとせずに一概に、口語文法の記述を批判して、いまみるような現代語文法のようにする。
古典語と現代語を分けるのは、近代言語学の通辞、共時の論議のこととなるが、それを歴史言語学の手法と記述言語学の方法とで区別してみても、通辞論に成果を見る日本語のような言語では、歴史言語という事実の時間の連続、継続を切り離すことは得策ではない。確かに現代語研究は、言語の過去を捨象するものであるけれど、構造主義の理解に誤れる日本語現象の採取による主張は、国語そのものの解釈も持たないのである。
すでに、明治時代のころから研究者たちは、その現象を、資料には書きことばでないものと、講義録、抄物、キリシタン資料とさかのぼって、時には文法の破格を起こしている言語事実にも向けて用例収集をして説明している。文章のうちで漢文訓読の語法が主流であったところへ、講談、説教、そして福沢諭吉いうところの演説に現れている、文語にない語法で、音韻を明確にするとらえ方である。これもまた、日本語の意味のことは当然、そのバックボーンにある。
形態論の手段方法である自立形式が、現代語文法の単位にまとめられた記述のなかで明快にみられるわけではない。その文法分析書の出現が待たれるところであるから、記述して実証的でにあればあるほど、そこに見る文法の考え方はとらえやすい方がよい。形態は分析が施されて、品詞が文節であっても、あるいは単位が自立語付属語であっても、伝統にある詞辞であっても、そこに必ずしも文節があるわけではないだろうから、わかりよい単位の設定にレベルを据えて常識でありたいものである。




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4 コメント

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口語文法 (Maria)
2020-12-02 10:06:05
> それには「文語文法をベースにしている」という批判は至極当然のことで、言ってみると書き言葉の捉え方で、それ自体は記録された作品を言語対象としているので、「文語はさておき」とか、「文語では理路整然としたのでそれを論外とする」とかいった議論は、「日本語を知らない」といっても過言ではない。
はい。全面的に賛成します。
教育用文法が「口語文法」に偏った理由としては、少なくとも三つの要因があると思います。
ひとつは占領軍に「将来的には英語を国語にする」という意図があった(当用漢字はそのあらわれです)こと。
ふたつめは、日本の識字率が国際標準に比べて高かったこと。
みっつめは、その結果として「紙媒体」による情報伝達の長い歴史があったこと、です。
WikiPedia によれば、日本語速記の整備の着手が一八七五年、初代快楽亭ブラックの誕生が一八五八年、二葉亭四迷が一八六四年、夏目漱石が一八六七年。日本には活字文化は普及していませんでしたが、それは単に木版印刷で間に合っていたからであって、「読む」言語というのはすでに江戸時代から定着していました。
日本語話者は鸚鵡や九官鳥でもなければテープレコーダー(死語ですね(笑))でもないので、「口語」(耳から聞く言語)といえども「(文字と対応する)音の並び」として認識し、語(ひとつながりもモーラの塊)として捉えるようにできあがっています。それを前提として「万葉集」も編まれているわけですから。
そうなると、「日本語文法」は通時的には「日本語システムの規則」であり、文語と口語というのは「文語体」「口語体」という「文体の差」であって文法の差ではない、と考えることができます。これが共時的には方言や男言葉女言葉武家言葉として区分されているだけとなります。
そもそも、敬語というのは「文語体」の延長であり、「口語体」が「くだけた言葉づかい」で「文語体」は「ちゃんとした・丁寧な言葉遣い」であるという意味があるので、「教育現場で教えられる文法」とは、畢竟「敬語の文法」ということになります。
ことことは、ビジネスマナーとして重要視されるのが客先との会話やビジネスレターの文章だということにも表れています。発達心理学の点では、方言のきつい地方でも幼稚園児の「おままごと」の会話は標準語になる、という現象があるそうです。私は自閉当事者と接する機会が多いのですが、だいたい敬語です。また、標準語(敬語)というのは「スタンダードな文法」に基づいているせいか、『自閉症は津軽弁を話さない』という本もあります。
ですから、「文節」というのも、おのずと「時間軸で切ったかたまり」であり、「大きなかたまり」を「小さいかたまり」に分けることは自然なことで、「文節は入れ子構造・階層構造になっている」のが普通で、「最小の単位」として教えることはあまり教育的ではない、と考えています。
落語家であった初代・快楽亭ブラックは、落語を速記させて出版しました。おそらく講談・歌舞伎・浄瑠璃なども江戸時代から出版物として出回っていたと思います。
そこまで考えると、「口語」は「読み聞かせのための言葉」という「基本は文語、口語はその延長」というスタイルが、国文法の基本と考えてもよいと思います。句読点、括弧、!?などが導入されたのも、「文語を口語的に解釈する」という目的のためではないかと思います。
大学時代(航空宇宙工学科ですが、必修でした)の国語国文学の時間に井上 謙先生が使ったテキストが『方丈記』でしたが、これが手書きの草書の写真版で、副読本が『かな字源』(笑)。で、試験問題が「方丈庵の見取り図を描け (-_-;)」。壁にかけてあった「羊歯のほどろ」が分からなくてずっと気になっていたのですが、卒業後三十年ほども経ってから「そうか、カニクサ(つる性の羊歯です。別名ツルシノブ)か!」と納得しました。
史前から歴史時代という順序は確かにあるのですが、「日本語文法は、文語の文法である」と考えるのも、ひとつの態度としてあるのではないか、と思います。
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文書と口話 (Mr.Moto)
2020-12-02 20:49:21
江戸時代の川柳で、
 「親という 二字と無筆の 親は言い」
つーのがあります。
狭山事件の脅迫状があり、「民は、まともな文章が書けない」という話があって 大野晋先生が異義を唱えたとか、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)」の文体が問題になったという話があります。
「文語がちゃんと使えない奴は、社会人として失格」みたいな風潮はあるわけですが、所長以下われわれは、「書字」というものが苦手です。「習字」ならともかく、「ちゃんとした文章」を手書きしようと思うと、「文章を考える」のと「文字を書く」のが同時にはできないんですよ。
そんなわけで、下手をすると「プリントアウトを手書きで書き直す」みたいな話になっちゃうわけで、これって不効率ですよね?
ところが、ひところは「ワープロは失礼」という話がありました。昨今は、「メールは失礼」という話もあります。
いまどき「キーボードも打てなきゃメールも打てない」というのは、たぶんフツーです。「スマホでフリック入力なんで、長文だと面倒臭い」とか「一応パソコンなんだけど、チョップスティックなんで」とか、「かな漢字変換がバカで」とか「音声入力がアホで」とか言われたら、いまどきのネットワーカーは(高齢の方も多いわけですから)「苦衷をお察しします」という共感も多かろうと思います。
つーか、母語が日本語ではない人は、国語辞典すら引けない (T_T)。それくらいのツールは無償で配布しろよ、と思います(初代 rStone は、それくらい平気でできました。当初は「ビアウェア」といって、「使ってみて気に入ったらビール券を送ってこい」という代物でした)。
国文法を、「差別の道具」にしてはいけない、と思うのは、たぶん私だけではないと思います。
「現代文の文語」というものを、とりあえず確立しておく必要はあるのではないか、と思います。
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現代文の文語 (ksk_ym)
2020-12-05 09:54:25
コメントをありがとうございます。
文書清書にワープロか、手書きか、効率、不効率の選択は、これは思わぬことでした。ひところの文書編集機になるツールには今も、こうして、考え、考えて打ち込んでいますから、下書きになりますね。すると、下書きをするというのは、なんなのか。作文は必ず下書きをするように言いますから、それをするかしないか、時間のこともあるでしょう、ただ、ワープロ機器を使って文字変換できない、漢字発音を中国母語読みでしていた人がいましたから、日本語教師です、それで苦しんでいるのをかつて見ました、音声入力の時代になりつつあるので、それになると、どう変わっていきますか。
現代文の文語、とらえ方は、そうだと思います。
これをそのまま、国語で、近代文語文というような、明治以降の文語で、現代文に出てくる近代文語文、文語体、というような影響がまだあります。
名称のことだから、現代の文章語の意味になるようですね。
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文言と白話 (Maria)
2020-12-05 15:32:35
Maria です。
WebLog というのは、個人的なメールではなく公開書簡なので、「第三者が読んでいる」というのを前提としています。通りすがりの人が読んでもわかるように書こうと思っていますので、ご無礼な申しようになってしまうかもしれません。ご容赦願います m(_ _)m。
もちろんご存知のように、中国語にも「文言音」と「白話音」というものがあります。私は臺灣語を学んだときに知りました。同じ「話しことば(音)」であっても、文章語と会話では、「言い回しが違う」わけです。
いちばん素朴な例ですと、数詞の読み上げがあります。「イチ・ニ・サン・シ」という漢語系の発音と、「ひと・ふた・み・よ」というやまとことば系の発音があるのですが、軍隊や金融・証券では、「ひと・ふた・サン・よん・ゴ・ロク・なな・ハチ・キュー」という和漢混合の発音になります。
「文字表記を読んで、正しく発音できる」というのは「大人の文化人」のたしなみだという話はあるので、マンガでも「少年マンガは総ルビ」「青年マンガは(極力)ルビなし」といった区分があります。正直な話、青年誌を総ルビにしろとは言いませんが、「ルビなし」に関していうと「あれは、どうだろう」と思います。
だいたい、「独壇場」ってどうなんだろう。「独擅場(どくせんじょう)」が正なんじゃないの?と知人に言ったら、「編集者が勝手に "直し" ちゃうんだよ (T_T)」と嘆いていました。
所長氏の恩師の佐貫亦男先生は自動車雑誌に連載を持っていらっしゃったのですが、「毎回、編集者との戦いでした」とのこと。「BMW」は「ビー・
エム・ダブリュー」ではなくて「ベー・エム・ヴェー」。「ジャガー」ではなくて「ジャギュア」。「マセラティ」ではなく「マゼルラッティ」。「メルセデス」ではなく「メルツェデス」か「マーセディーズ」。
そんなわけで、一般的な人との日常会話と、専門家同士の会話では、モードが違ったりします。
「ルパン三世」が愛用する拳銃は、「ワルサー・ピー・さんじゅうはち」と言われていますが、ミリヲタ(ミリタリー・ヲタク)同士の会話では、「ヴァルター・ペー・ドライツィヒ・アハト」だったりします。
航空宇宙工学工学科だと、「YSー11」を「ワイエスじゅういち」とか読むと白眼視されます。正式には「ワイエスいちいち」。「零戦」は「ゼロセン」ではなく「レイセン」。
こういう違いは、専門分野だと結構重要です。日本でいう「コンデンサ」は、英語だと「キャパシタ」。日本語の「テスター」は、「アンメーター」と「ボルトメーター」で、「こんな便利なものがあったのかぁ!」と感動されたとか(今はなんと呼ばれているんでしょうか)。カツオも向こうでは「ツナ」だしなぁ。
文語と口語を数百年前から使い分けてきた民族としては、「不完全な表音文字を使わされてきた文化の人が、日本語の『漢字かな交じり文化』に憧れる」というのはよく理解できます。そうやってリスペクトしてくれる人に対しては、こちらも応えてさしあげたい、と思います。
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