日本語文法論議23711
文章論は文法の単位をどうとるか、文章の規定を複数の文とする学校文法では文章の最小単位をいう。その一方で複数に2文以上であるとすると単位には何文という限度がなくなる。そのような捉え方は文法的ではないし文章論に生産的な議論を期待できない。
かつて時枝学説は文章論として文章の単位を文学に取れば作品の一つ和歌俳句の短詩型においてもその作品を単位とする、まとまりを持つ文章ということであった。議論委は標語の一句、一語にも文章の単位を見るという。結局は文章論に生産的な分析研究は頓挫した。
文章と文との区別を翻訳文法でつけること難しく、それは国語に文を見ることは文法とは別の観点があり、文そのものの規定が翻訳の概念として定着するまでのあいまいさがあった。日本語では文章は文であったのだという様子である。
さて文章の単位を設定することが文、文章と文法論を行うためには、文章の機能は前提となる。帰納の考えを採ればそれはまた明白であるが、さきの最大単位にbookを見ることは言語作品としての文章にあることであるから、もう少しとらえやすい文の複数というのを規定すべきである。それは何か。
宮地学説の関係構成の論を踏まえれば文章と文の単位の間に段落を作る。文章の前提となる単位には段落が設定されるべきであろう。