
発想を類語で見ると、思いつくこと、ひらめく考えというニュアンスである。日本人の発想、日本人と発想ということに思いを致すのは難しい。大げさに言って、自然信仰に育む、仏教などの外来思想に影響する、日本人の霊性にもとづくものとか、哲学の思想を近代になって考え出す民族だから、その発想とはどういうものか。日本語教育で学習者から日本語の発想を知りたいという難題を投げかけられたのを思い出してみる。その発想とは考え方にあると答えたものだった。
>着想・思いつき・着意・発意・思いつく・考えつく・ひらめく・思い浮かぶ
それはまた日本文化の発想という問いかけでもあったから、日本人の発想、日本語の発想とは思想にある、その思想に矢をはなつか、あきらかにするか。考え方はまず物事をどうとらえるかということであり、そのとらえたものをどう明らかにするか、そこに日本語で言うところの、考える、がある。
ドイツ語で学習したドイツ語の発想はそこに用いる授業でのドイツ語の理解のためになにが問われていてなにを答えようとするものであるかに気づかなかったという経験から導き出されてるいわば外国で授業を受けたノウハウである。テクストの解釈と批評はその文学作品の解説を試みるための、弓射るところを技術に了解しなければならない。それがわかれば教室での言語の一つ一つの理解に至る訳である。
日本の国語教育にそれがあるか、となれば、国語教師によってそれは行われているのであるが、日本人の文学好みがテクストさまざまにあるのでそのジャンルのながれを分かるだけで日本文学の理解の困難が生徒たちにある。大学に進んで国文学の専攻学生にでもなれば梗概の重要性を認識するし、それこそ言葉の解釈には自らの努力で漢和辞書と国語辞書と、時に欠かせなくなる英語辞書をもってして言葉の綾を知ることになるから、その段階で批評を学ぶことになる。
それでも日本語発想はどのようなものかとなれば言葉における時間と空間の読み取り作業に取り掛かることになる。訓読みの技法であり、文章の構成である。話し言葉の学習にはネイティブには言語環境と発育期の習得があるのでそれをいかに日本語の言葉の自らの位置づけとするかにある。文章に至って読解よりもその構成を学ぶことにはないがしろにされていることが多いのは言語環境によるものである。
さて。考えるという日本語発想とはなんだろう、どうすることだろう。
