ここでこういった事情に類推をしてみる。
センテンスを文としてもっぱら理解してしまう文法学説の移入後の英語研究者たちがいて、日本語には文と文章の区別を持たずに取り入れた翻訳文法であったものを学校文法の教育が文という概念を定着させた。
山田学説は句といい、橋本学説は文節の係り受けをとらえ、時枝学説は入れ子構造を仮説に唱えていたところから、文はアリやナシやと言ってきている。松下学説は漢語文法の対象に連詞をみる断句の概念をもって文には懐疑的な議論をしている。
それでも国語教育に文の規定をして英語教育との対照を図る。学習に新たな概念修得の工夫があったからにほかならない。
そこに英語教師は規範説明に文の定義を持ちながら自らの文法範疇の文を一般に言い続けることで国語教師の持つ日本語文法の文の規定を理解してかせずか、文とは何かと、また節の概念を言い続けるというようなことがあったか。
国語教育は便宜それを日本語に当てはめて説明をして、いわば柔軟に解釈するとしても、すでに国語を規範として修得する学習者には困難はない。それは必須要素という考え方で、文の成分には日本語では必須ではないと前提して、それぞれの成立の条件を注意していたものである。
初等教科に中等教科書に、そのちがいは歴然と見えるが、おそらく英語教師はそれを顧慮しても日本語文法の不備ととらえざるを得なくて、文法の規定、定義を規範教育に批判するようなことが続いている。いまも押し付けが働いて国語文法の理論をとらえようとしない。
センテンスによる文論はそれはそれで整合性をとったものとして日本語では体系づけられ、意味の世界を投射できる。
句による連語の構成はそれなりに歴史的な対照と訓読による影響下に文章の世界を表現してきた。
遅れて入った英語との対照は文法家、研究者にはそれまでの漢語と訓読の文章世界がどれほどに理解があったであろうか。国語学者もしかりである。