文法観を考えると、文法の論理のとらえ方になる。
文法を法則とすると、その法を説明する論理がある。
日本語文法はその法をどのように捉えてきたか。
文法観、文法論理、文法規則、そこにある法である。
文法であるから文の法を見る。
そこに論理があればそれを見て法をとらえるので与えられるところのものか、そこにおのずと見いだされるものか。
法を主語と述語とからなる文とするならば、日本語をそれに当てはめる。
ただそのときに文の主語を絶対要素とするか、文には主語がなければならないものとするか、主語がなくてもよいとするか、その文成立を主語の有無におくのが、日本語が取り入れた文法である。
それまでに文に絶対的な主語をおくということが、日本語の論理にはあったのか、なかったのか、文に主語があるとの論理は近代以降のものである。
そこに文法がともに成立するような議論を重ねてきているので、文の法は、すなわち、文には主語述語を見るものであるという前提が作られてきた。 . . . 本文を読む