現代日本語をとらえると、現代語としての用法に、規範にしたがった用法からすると、揺れが生じているということだろう。国語にあらわれた規範は学校時代に学習する。教えてもらったか、しつけてもらったか、日本語とは、微妙な、異なった響きを持つ国語のことである。規範はすべて文献にあるとばかりに、国語の科学は規範科学として成り立ってきた。それは、いわゆる実験科学ではないと意見を述べる人もいるので、日本語を現代語としてとらえての議論はそれなりに考える立場を必要とする。先の物言いで極論すると、すべて現代語のとらえる規範に国語を顧みないことになるから、歴史的に用法を積み重ねてきた現代日本語をとらえがたくなる。わたしたちに生きている言葉は、わたしたちとともにあるし、世代を受け継ぐものでもある。 . . . 本文を読む
いまさらにという感じですがスマフォからの書き込みです。最近の通信状況はよくなったなぁと思います。移動通信は、それこそ、イドーのころに自動電話として開発されたような、たぶんモバイルの象徴は車内通話にあったのでしょうか、その大きな電話機を小型にしたようなのを持って使いはじめました。思い起こせば1993年ごろか、その時に取得した電話番号をいまもそのままなのでもうすぐ20年になるという思いがよぎりますが、そのときから随分と変わりました、当然の時代の流れでしょう。そのケータイ電話の話からいくつもの話題ができそうですね。 . . . 本文を読む