現代日本語「誤」百科 982 最高潮に盛り上がる を例題にしている。コラムは、最高潮 盛り上がる このふたつの語について、その意味内容が合わないと言いたいようだが、表現の綾というのを理屈でもって、合う、あわない、と言い、盛りあがる というのと、上がる、というのを、この語をとらえて、論理飛躍を起こしている。上がる、というのは2階、頂上だというので、具体性をさすという説明はほどほどに、辞書を引いて確かめてみれば、そんな風にだけ、上がるわけではないから、盛り上がる という語もあるわけであるし、最高潮に上がる というのを言いにくいから、盛り上がる と表現して、その実際の用例は枚挙にいとまがない、定着した日本語表現である。 . . . 本文を読む
日本語「誤」百科 981 ゴールを切る を例題にしている。ゴールのテープを切ることができても、ゴールを切ることはできないという、コラムの解説である。口火を切る と言えるようになるのは、火ぶたを切る と言えることから、切れない口火を切ると言えるようになったと説明して、例題も言えるようになるかもしれないと説明する。この限りでは、誤りを指摘していることにはならないので、やはりその説明内容がおかしいと思ってしまう。口火を切る の例ですでに指摘してきたが、比喩表現のとらえ方にコラムの記述が問題である。語感がともなうかどうかについても、ゴールを切ると言ったときに、ゴールそのものをはさみで切るようなことを引き合いに出すような説明では文学表現を見るまでもなく、その表現法をとらえないことになる。日本語表に多いのは、たとえであり、比喩が暗喩として意味内容またその情報を豊かに表現してきたのである。
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現代日本語「誤」百科 978 まるで富士山ほどもある を例題にしている。まるで について、比喩の使い方をコラムは解説する。まるで天国のようだ というのを、例文に上げている。まるで は、したがって、程度を表すので、比喩の使い方と一緒にできないと説明する。そうすると、例題を数量で表現する、富士山ほどもある という言い方が、まるで富士山ほどの量がある との言いかえなら良いとなるだろう。つまり、まるで というのは、比喩的な用法でないならば、まるで富士山ほどのように と言っているわけではない。まるで山ほどもある というように、量的な比較に使われている。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 977 両者の発言の矛盾点 を例題にしている。コラムは、矛盾 の解説をしている。矛盾は全体であって点などないと思っているようだ。コラムが行うコラム子の独自の論法である。例題をそれによって矛盾概念を用いる。それはそれでよいのだろう。しかし例題を読んでその論理を当てはめてみても、この表現が間違っているという解釈にはならない。発言の内容のどこに矛盾が起きているかをとらえて、その点と言っているだけであって、それは発言の全体に及ぶと考えてよいからである。ごく普通に、矛盾と言う故事を知るわたしたちには、そのほことたての話の、どこに矛盾点があるかを承知している。コラム子はときどき、日本語の漢字を別概念化して説明をしようとすることがあるので、漢字と表現のかかわりで読むのには注意がいる。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 976 彼の話とは別人だ を例題にしている。コラムの解説は、ある人と別人 ということはできないと説明する。説明が不足しているように感じられて、よく理解できないのだが、あることと違う点 あることと相違点 このふたつは言いかえには、言うことができないとしている。ある点がある、その点と違う点、とか、また、ある点があって、その点との相違点、というふうに言うべきだとでもするのだろう。この説明で、例題の文を見ると、彼の話と別人だ、というように理解をしているようなので、それは彼の話とは別人だ、という例文と同じにはならないと考えると、やはり、説明には、~とは別の人 と結びつことができないと言う。コラムの説明文は、結びつくことすらできないと強調した言い方である。ここで、また、このコラムが説明しない、日本語の、~は と言う文法の働きである。この例題の場合には、~とは と言う表現になっているので、それに注目すれば、彼の話にあった人とは、という措定が意味内容に加えられて、表現が成り立っている。彼の話とは別人だ 彼の話にあった人と別人だ 彼の話にあった人とは別人だ 彼の話にあった人は別人だ、このように言うことのできる日本語の、それぞそれの表現性を考え直すべきであるし、例題の表現を誤りとすることはできないだろう。
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日本語「誤」百科 975 熱戦に幕が下ろされた を例題にしている。コラムの解説は、熱戦の幕が下ろされた と言えばよいとし、その理由には、幕があるのは舞台であって、熱戦に幕がないからだと説明する。同様の表現に、戦いの火ぶたを切る とは言うけれど、戦いに火ぶたを切る とは、言わないからだそうだが、この、 火ぶた について、コラムはどのように理解しているのかと、辞書を引くことにすると、弾を撃つためには火蓋を開き、火縄の火を火薬に点火するため、戦いを始めることを、火蓋を切る、と言うようになった、と語源辞典にあり、その表現のままに、そこから意味が派生したとあるから、物事の着手や行動を開始する意味に例えられていて、戦いに火ぶたを切る、戦いの火ぶたを切る ともに言うことができる。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 974 二度とやめてください を例題にしている。コラムの解説は、二度と という語句を、否定をともなう語として、否定の意味との結びつきの可否を説明する。二度と行かない となる例を挙げている。その説明で、二度と欠席する 二℃と不足する というふうには、言えないのと同じように、二度と を使っていても、例題に、やめてください というのは、言えない、つまり間違いだとする。コラムに作られた論法でそのようなことらしいが、一度、二度、三度と数え上げる言い方が、二度目はないということで、強調表現だとするのは説明ではよいとして、なぜこれを副詞として禁止と呼応する語法と説明しないのだろう。二度とするな、二度と言うな、二度と来るな、といったように、慣用表現が意味するのは明らかにされてきたように、二度としない、二度と言わない、二度と来ない、と言うように、否定と呼応することもできるが、それだけではないのであるから、意味内容を捉えるなら、日本語の使い方を議論しての意味分析をするべきでsる。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 973 完璧に忘れた を例題にしている。コラムの解説は、完璧に忘れることはあり得ないから、この表現を使うことができないと説明するようだ。はたして、どうか。用例を検索すると、忘れることの状態を強める副詞の働きであることが分かる。文字通りの意義においては、完璧にはあり得ないことがある。しかしそれは名詞の意味内容と形容動詞の修飾語となるときの違いであろうか。この語の発音は印象を強く与えるし、漢字の表す意味についても、完璧、と書くことは注意を要する。 >中国の戦国時代、趙の恵文王へ、名玉「和氏之璧(かしのへき)」を十五の城と交換しようという大国秦の昭王からの申し出の対応に、恵文王をはじめ主だった家臣らが困惑しているとき、陪臣であるw:藺相如(りんしょうじょ)が「私が使いに行き、十五の城が手に入らないならば、璧を無事に持って帰ってくる(璧を完うして趙に帰らん)」と言い、事実成功させた故事に由来。(『史記』藺相如伝) . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 972 雪の勢いが止まらず降り続いている を例題にしている。この表現は用例として取り上げるべきか、コラム作者の意図による作例か、によることだけれども、一例としてその用例に近いものを挙げてみる。>昨日からの雪の勢いが止まらず、昼過ぎになっても大きめの粒の雪が降り続いていました この実例からすると、主語の問題は解決する。つまり、この例題を日本語の誤用として取り上げるためには、コラム内の作例による説明としてとらえるべきなのではないか、というふうに考えられるから、雪は勢いが止まらず降り続いている と正用を示すことも、その説明の中ではなぜそうなるかの解説が、さらに求められる。
このコラムが日本語をとらえて、例題でいうと、雪は、とすれば、それで正しくなるという文法説明がいるだろうし、雪の勢いが止まらず、とする例題の意味内容を、雪は勢いが止まらず、としてしまう、誤った説明は日本語文法の議論を理解しているかどうかの問題をはらんでいる。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 971 参加の敷居を下げる を例題にしている。コラムの解説は、敷居を下げる という表現に、慣用句の、敷居が高い をわせて、慣用句の使い方を変えてはならない、と説明する。慣用句の使い方が、いわば、間違っているというのであるが、果たしてどうか。敷居が高い という慣用句について、不義理や面目のないことがあって、その家に行きにくいとする。その補説に、文化庁の調査で、間違った意味の使い方を紹介している。これもまた、調査による例題の取り上げ方を考えなければならない一つであるが、いまはおいて、敷居が高い、については、敷居を高くする、という表現をかんがえるとよい。すなわち、敷居を下げる、というのは、入りやすくするかどうかのイメージで、敷居が高い 敷居を高くする 敷居を下げる という連想が働いいても、その用法は場面にふさわしく使われる。文脈がそれを表しているのである。かんようくと、その新たな表現に目を向けるべきであろう。 . . . 本文を読む