語彙史研究について、リマインダーから、集めた。ちょうど1年前の記事になる。11月から12月まで、その研究について触れていることである。あらためて眺めてみて、ここに再録することにするが、この続編をまた、しばらく載せることとしよう。さて、語彙史研究は語誌の研究であるとして、その学的分野の名称にいささかの疑義を持ちながら、その語誌について、語史としての記述があれば、それを集大成すればまた、語彙の研究となり、語彙史とはなり得ようかと捉えなおして、語史研究というものを想定して、するとそれは語誌であるのだから、国語辞書の用例を集めることとなると、そこに時代的な語例が並ぶことでもあると思う。その用例がそれぞれ時代の移り変わりにどのような用法のもとに記録、資料に現われていたかということになる。その羅列をまた、語の意味内容に分けて、辞書では、その細目を立てて記述している。したがって、語彙史研究は辞書記述にどのように反映していくかというようなことでもある。語彙史研究の内容は多くその問題を取り上げた。 . . . 本文を読む
意味に記述と説明とがあるようである。意味を説明すると言えばふつうである。ところが意味を記述すると言えばちがいがある、説明との違いがあるようである。わかりやすく言おうとすることと、詳しく言おうとする、その違いがある。ただ、その分かりやすく言おうとすることにはさまざま、その方法がある。それに対して詳しく言うというのは、事実のままに、ありのままにとなる。 . . . 本文を読む
意味に意味はないと議論して、意味の無意味かと思い至ると、無意味という意味に至ってトートロジーに陥る。日本語では存在を表わすのに、ないと言えば、それには、あるということを前提としている。そこにあったものが、ないのである。本がある、本がない、このふたつの表現は、いずれも本を想っている。そうでなければ、本がある、なにもない、この表現が対立している。無意味としてしまえば、その名辞によって無の状態にあるものは意味の打消しである。意味に意味がないのであって、意味に意味はないと言うときの表現と異なってくる。いささか、語彙の論としては語の意味の問題から離れてしまっているようであるが、語の存在と意味の有無のことがらとして、日本語では語に意味はないとすることに議論を必要とする。語に用法があり、その意味を求めることは、その通りであるが、語そのものに意味を解釈してきた伝統は、漢語を学び、いまや英語を使おうとする、日本語の現象である。 . . . 本文を読む
語に意味はない。語にあるのは音形である。その形式は記号化される。発音による語の形式を表すのが言語学の基本である。それに対して語に文字を宛てて、あるいは文字に語が生まれてそれを記号としたのが漢字である。絵文字を発想すればわかりいい。すると語に意味があることになり文字は意味を持つ。漢字は真字で文字の組み合わせを持つ。漢字の仮字は仮名となってそれを仮名文字というときには音形だけである。漢字は発音を持つのでその発音としての仮名をあみだしてそこに仮名の組み合わせによって語として意味を与えたのは言語学の言うように語に意味がないとは言えない。語に意味があると思い込んできたわたしたちの祖先にとって語は意味とともにあったのである。しかるに語に意味はない、語に意味があるのは音形のあらわす事物に対する指示作用であり、その指示作用をわたしたちの概念を通して形成しているものであると201世紀初めにオグデンは説いた。 . . . 本文を読む
意味作用とすると、意味そのものをとらえやすくなる。その意味作用を記号論で、意味作用とは記号学用語の一つであるとして、ある表現された記号がそのままその事柄を意味するということである、 例えばタヌキを意味するならば、タヌキの絵を示すということでこれが成り立つということである、 この場合ならば文字で表現されている「タヌキ」を示したとしてもタヌキは意味されないということである。意味作用 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/意味作用 というふうに説明して、いま言うところの意味作用を指示義において限定しようとすると、タヌキの漢字では表せないということだが、もう少し、意味作用のよって来たるところをとらえなければならない。記号についての理解が、この記述では、文字記号と言語記号とを区別しようとしながら、絵としての象徴だけをもって、記述説明しているようであるが、ウイキペディアのこの項目では明らかでない。 . . . 本文を読む
語の意味については、日本語では意味、意義、語意、語義などと、それぞれのとらえ方があるようである。語義には漢字の形音義を受けて、字義を表し、語意には漢字文字だけではなくて国字、和字にあらわしたことばを見ようとする。語意考を表して、賀茂真淵、1769年自序、五十音図を基にした、活用、延言、約言など、古語に関する語学上の見解をまとめたものがある。語意には広く語用をとらえようとしたところがある。そしてまた、意義の意味、意味の意義というように、同語反復をおこしそうな、その説明にある区別は、たとえば、大辞林に、〔類義の語に「意味」があるが,「意味」は言語や行為によって示される内容,また物事が持つ価値をいう。それに対し,「意義」はある言葉が表す内容,また,物事が他の物との関係において持つ固有の重要な価値をいう〕と見える、意味は言語行為、意義は物と物との関係として見ようとしている。価値をとらえて、そこにつくられる価値と固有の価値との違いを見ようとする。語の意味、語の意義と、その表れと本質の関係を見ることができる。 . . . 本文を読む
言という。こと である。こと は事である。ことわざ 言事 と理解された。言と事と、言葉と事件とする。諸国に国史をおいて、言事を記し四方 よも の志 ふみ を達 いた せり、日本書紀 履中訓に見える。そして、ことわざについて、こととわざと、やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、ことわざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり、古今集の仮名序にある。日本語、日本文芸について、このように議論するものは、古代には、ほかになく、言の葉の道としてここから始まる。 . . . 本文を読む
語彙の語は文字である、と、日本語は規定したほうがよい。その文字とは何か、もちろん日本語であるから、漢字であり、仮名である。そこにローマ字表記の語彙が加わるかどうかは文字の規定によるところである。音声象徴の言語記号につき、意味象徴の文字である。漢字を学びローマ字を学ぶ日本語は仮名文字を通して意味をとらえてきたのである。ローマ字はカタカナ語として意味をとってきたので、それも文字によるところである。語が何であるか、文字が何であるか、それぞれに日本語の規程をしていなければならないところ、漢字を学ぶ経緯に、済まされてしまってきたようであるが、語と単語、そして文、漢字と文字と、加えれば、詞、辞ということがあり、言語、言葉となると、ごんご、げんご、中には、げんぎょ、という人があったり、ことば、コトバというふうに、使い分けがあるようなことだ。
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語の形態は音声である。これは音声言語をとらえて議論をすればその形式に音声が分析される。形態素のレベルは形態になる音声の連合を音素のレベルに分解してその音素結合を明らかにする。それはまた、語を固定して語の意味をとらえた上で、語彙的意味、文法的意味において形態素の単位をとらえる。形態素 k- が表わすのは、形態 kuru kimasu konai などの、語となる、来る、の分析である。形態素 s- も同様である。語は、する、である。このような分析については音声言語を言語学の対象とした議論である。それに対して、日本語の場合は同様の形態素の議論が可能であるが、語の形態は文字であることに留意しなければならない。その文字に漢字がある。いま、語の形態が文字であるとして、これは文字言語をとらえて議論をすればその形式に漢字と仮名が分析される。日本語の語彙を漢字文字、仮名文字の集合としてとらえることは、語彙の論を展開する語の項目に漢字の重要性を言わなければならない。ひいては言語学を文字の論としても展開することになる。 . . . 本文を読む
語が意味を持ち、その語とその意味をひとまとまりにして分析をする。そのひとまとまりは文法によるところがあった。語を語としてとらえることは、語の文における働きを見て品詞としたり連語と見たりしてその単位をとらえてきた。語は意味の最小単位であったわけである。文法のままに語は規定された。意味を持つ最小の単位、活用するか、変化するか、語の変容はその語が持つ意味を捉えていた。つまりは単語としてあった。それにさらに分析を加えるようになったのが文法論での形態論である。形態論は統語論と組織をもち、文法論として論議される。それを形態として取り出すのは語に扱う単位との関係である。統語論での文の単位は文として共通しその単位文においての扱いは異なるところがない。統語の原理を文のレベルより下げる、それは節であるし句であるし、そのようにすると文の単位の下位分類が形態とかかわり合うようになる。さて、その形態を形態論でとらえるのは語彙の論における語の説明とどうかかわるであろうか。 . . . 本文を読む