ある時、捨松は政府高官の夫人たちと病院を参観する機会があった。
病室を訪れると、驚いたことに男性が病人の世話をしている。
院長に「なぜ看護に女性を使わないのですか」と尋ね、米国での見聞から、
女性の方がきめ細かな看護に向いている、と説明した。
院長の答えは、「ごもっともですが、何分経費が足りず、
看護婦養成所を作りたくともとても手が回りません」ということだった。
そこで捨松は米国での慈善活動の経験を生かして、日本でバザーを開いて
資金集めをしようと思い立った。
捨松の音頭取りで、明治17(1884)年6月12日から3日間、日本で最初の
バザーが鹿鳴館で開かれた。上流階級の夫人や令嬢たちが店を開いて品物を売る
というので新聞紙上にも評判となり、皇族や政府高官たちも馬車や人力車で
押しかけて大賑わいであった。
鹿鳴館の二階に作られた売り場では、夫人や令嬢たちの作った人形、ハンカチ、
竹細工、菓子などが並べられ、値段は市価よりも随分高くつけられた。
客が買わずに通り過ぎようものなら、内務卿・山県有朋夫人、参議・西郷従道夫人など
そうそうたる夫人たちに捕まって、何か買わされてしまう。
結局、3日間で約1万2千人が入場して、収益も目標の1千円をはるかに超える
8千円にのぼり、全額が看護婦養成所設立のために寄付された。
捨松はその後も、看護婦の育成に深い関心を持ち続け、日本赤十字社に
働きかけて、「篤志看護婦人会」を設立した。
病室を訪れると、驚いたことに男性が病人の世話をしている。
院長に「なぜ看護に女性を使わないのですか」と尋ね、米国での見聞から、
女性の方がきめ細かな看護に向いている、と説明した。
院長の答えは、「ごもっともですが、何分経費が足りず、
看護婦養成所を作りたくともとても手が回りません」ということだった。
そこで捨松は米国での慈善活動の経験を生かして、日本でバザーを開いて
資金集めをしようと思い立った。
捨松の音頭取りで、明治17(1884)年6月12日から3日間、日本で最初の
バザーが鹿鳴館で開かれた。上流階級の夫人や令嬢たちが店を開いて品物を売る
というので新聞紙上にも評判となり、皇族や政府高官たちも馬車や人力車で
押しかけて大賑わいであった。
鹿鳴館の二階に作られた売り場では、夫人や令嬢たちの作った人形、ハンカチ、
竹細工、菓子などが並べられ、値段は市価よりも随分高くつけられた。
客が買わずに通り過ぎようものなら、内務卿・山県有朋夫人、参議・西郷従道夫人など
そうそうたる夫人たちに捕まって、何か買わされてしまう。
結局、3日間で約1万2千人が入場して、収益も目標の1千円をはるかに超える
8千円にのぼり、全額が看護婦養成所設立のために寄付された。
捨松はその後も、看護婦の育成に深い関心を持ち続け、日本赤十字社に
働きかけて、「篤志看護婦人会」を設立した。