1882(明治15)年6月14日、卒業式を迎えた。捨松は最初にアメリカの大学で
学士号を授与された日本人女性、いやアジアの中でも初の女性となった。
礼拝堂の壇上に並ぶ39名の卒業生の中で、捨松は美しい着物を着て前列に座った。
10人の卒業生代表の一人に選ばれて、演説をするのである。
来賓の中には、わざわざニューヨークから来た高橋総領事の姿も見えた。
9人目に壇上に立った捨松の着物の見事な刺繍に、礼拝堂を埋め尽くした
観客から思わず溜め息がもれた。しかし捨松の行った演説はさらに素晴らしいもので、
途中しばしば拍手のために中断され、演説が終わった時にはしばらくの間、
拍手が鳴り止まなかった。
演説は「イギリスの日本に対する外交政策」と題して、イギリスが不平等条約によって
日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のため
に闘うことを決して止めないであろう、という内容だった。
シカゴ・トリビューン紙は「精力的で明快な調子で、しかも純粋なアングロ・サクソンの英語で
力強く論じており、この日の演説の中で一番熱狂的な喝采を受けた」と報じた。
ニューヨーク・タイムズ紙も「彼女の論旨は、的確に将来を予見した素晴らしいものである。
完璧なまでにイギリスの保守主義的な政策を理解しており、アメリカの自由と友愛の精神に対して
惜しみない賛辞を送っている」と絶賛した。
バッカス教授が評した「彼女の中に秘めたる力」が、現れたのだろう。
その力をもって、山川捨松は祖国に戻っていった。
学士号を授与された日本人女性、いやアジアの中でも初の女性となった。
礼拝堂の壇上に並ぶ39名の卒業生の中で、捨松は美しい着物を着て前列に座った。
10人の卒業生代表の一人に選ばれて、演説をするのである。
来賓の中には、わざわざニューヨークから来た高橋総領事の姿も見えた。
9人目に壇上に立った捨松の着物の見事な刺繍に、礼拝堂を埋め尽くした
観客から思わず溜め息がもれた。しかし捨松の行った演説はさらに素晴らしいもので、
途中しばしば拍手のために中断され、演説が終わった時にはしばらくの間、
拍手が鳴り止まなかった。
演説は「イギリスの日本に対する外交政策」と題して、イギリスが不平等条約によって
日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のため
に闘うことを決して止めないであろう、という内容だった。
シカゴ・トリビューン紙は「精力的で明快な調子で、しかも純粋なアングロ・サクソンの英語で
力強く論じており、この日の演説の中で一番熱狂的な喝采を受けた」と報じた。
ニューヨーク・タイムズ紙も「彼女の論旨は、的確に将来を予見した素晴らしいものである。
完璧なまでにイギリスの保守主義的な政策を理解しており、アメリカの自由と友愛の精神に対して
惜しみない賛辞を送っている」と絶賛した。
バッカス教授が評した「彼女の中に秘めたる力」が、現れたのだろう。
その力をもって、山川捨松は祖国に戻っていった。