1875(明治8)年9月、16歳になっていた捨松は、近くの男女共学の
公立高校ヒルハウス・ハイスクールに入学した。
ニューヘイブンには上流階級の女性たちだけで集まる「アワー・ソサエティ(私達の会)」
という会があって、貧しい人々へのボランティア活動をしていた。
捨松はアリスのゲストとして、会合に出入りし、会員達と一緒に赤ん坊のおむつを縫ったり、
供服を作ったりした。
この活動を通じて、捨松はボランティア精神を学び、女性に与えられた能力を
発揮することによって社会に貢献することができ、またそうする義務がある、
という事を身をもって学んだ。
後に捨松は、陸軍大臣大山巌夫人となってから、ここで学んだボランティア精神を
発揮して、日本最初の慈善バザーを開いている。
捨松が高校に入学した年の夏、次兄・健次郎がエール大学での留学を終えて、
日本に帰国することとなった。健次郎は、妹が祖国への愛国心を持たないアメリカかぶれの
娘になる事を恐れて、週に一度は捨松を呼び寄せて、日本語の勉強を見てやったり、
人として歩むべき道を説いて聞かせたりしていた。
健次郎は帰国後もたびたび捨松に手紙を送り、国際政治に関することなどを説いた。
兄の教えで、捨松の心中には祖国を思う気持ちが芽生えていった。
公立高校ヒルハウス・ハイスクールに入学した。
ニューヘイブンには上流階級の女性たちだけで集まる「アワー・ソサエティ(私達の会)」
という会があって、貧しい人々へのボランティア活動をしていた。
捨松はアリスのゲストとして、会合に出入りし、会員達と一緒に赤ん坊のおむつを縫ったり、
供服を作ったりした。
この活動を通じて、捨松はボランティア精神を学び、女性に与えられた能力を
発揮することによって社会に貢献することができ、またそうする義務がある、
という事を身をもって学んだ。
後に捨松は、陸軍大臣大山巌夫人となってから、ここで学んだボランティア精神を
発揮して、日本最初の慈善バザーを開いている。
捨松が高校に入学した年の夏、次兄・健次郎がエール大学での留学を終えて、
日本に帰国することとなった。健次郎は、妹が祖国への愛国心を持たないアメリカかぶれの
娘になる事を恐れて、週に一度は捨松を呼び寄せて、日本語の勉強を見てやったり、
人として歩むべき道を説いて聞かせたりしていた。
健次郎は帰国後もたびたび捨松に手紙を送り、国際政治に関することなどを説いた。
兄の教えで、捨松の心中には祖国を思う気持ちが芽生えていった。