明治4(1871)年11月12日、欧米諸国を巡回して西洋文明を調査しつつ、
不平等条約改正の予備交渉を進めようという岩倉使節団の出発の日である。
波止場は総勢107名の大使節団を見送る多数の人出があったが、
その中で注目を集めたのは、駐日公使デロング夫人に付き添われ、
アメリカに向かう5人の少女たちであった。15歳から8歳までの
いたいけな少女たちは、これからアメリカに10年も留学する予定だという。
アメリカに女子留学生を送るという計画は、北海道の開拓使次官・
黒田清隆と米国弁務公使・森有礼の発案であった。
米国の西部開拓を学ぶために訪米した黒田は、社会で活発に発言し
、男性と対等に仕事もする米国人女性の姿に目を見張った。
訪米中、黒田は森と毎晩のように議論を交わし、日本の近代化には
女子も留学させる事が必要との結論に達した。岩倉使節団の人選を行っていた
岩倉具視がこの案に賛成したため、使節団に同行する男子留学生とともに
、女子も連れて行くことにしたのである。
しかし、当時の普通の考えで紅毛、毛唐の国にまで、娘をやろうとする
親などいなかった。出発の間際になって、なんとか、この5人の少女達を集めたのだった。
不平等条約改正の予備交渉を進めようという岩倉使節団の出発の日である。
波止場は総勢107名の大使節団を見送る多数の人出があったが、
その中で注目を集めたのは、駐日公使デロング夫人に付き添われ、
アメリカに向かう5人の少女たちであった。15歳から8歳までの
いたいけな少女たちは、これからアメリカに10年も留学する予定だという。
アメリカに女子留学生を送るという計画は、北海道の開拓使次官・
黒田清隆と米国弁務公使・森有礼の発案であった。
米国の西部開拓を学ぶために訪米した黒田は、社会で活発に発言し
、男性と対等に仕事もする米国人女性の姿に目を見張った。
訪米中、黒田は森と毎晩のように議論を交わし、日本の近代化には
女子も留学させる事が必要との結論に達した。岩倉使節団の人選を行っていた
岩倉具視がこの案に賛成したため、使節団に同行する男子留学生とともに
、女子も連れて行くことにしたのである。
しかし、当時の普通の考えで紅毛、毛唐の国にまで、娘をやろうとする
親などいなかった。出発の間際になって、なんとか、この5人の少女達を集めたのだった。