読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

13日本女子留学事始め

2012-05-29 09:11:22 | 歴史

 鹿鳴館は外国からの賓客を接遇するために明治政府の肝いりで作られた施設であった。
当時の日本は欧米諸国から不平等条約を押しつけられており、外国人犯罪には日本の法律や
裁判が適用できない、輸入品にかける関税も自由に決められない、という状態にあった。

 この不平等条約の改正の一助として、欧米流の社交施設を作り、日本が文明国であることを
印象づけようとしたのである。

 しかし維新までは下級武士などであった政府高官たちやその妻が、急に礼服を着て、
食事をしたり、ダンスをしても、西洋人の目から見れば、様にならない事、甚だしかった。

 当人たちにしても、そんな思いをするより、家で和服でくつろいでいた方がはるかに楽だったろう。
しかし、そんな思いまでしても、なんとしても条約改正を、と願った先人の労苦に我々は思いをいたさなければならない。

 そんな中で、日本人離れしたプロポーションで夜会服を身にまとい、外国人と流暢な会話をしながら、
軽やかなステップでダンスを踊る捨松は、一夜にして「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。

 しかし、その捨松にしても、コルセットで身動きできないほど身体を締め付け、ハイヒールの痛さを笑顔で
隠してワルツを踊るのは、大変だったろう。しかも捨松は、7年余の鹿鳴館時代に、4人の子供を身ごもっている。

 捨松は、自分が鹿鳴館で華麗に踊り、ホステス役を務めることで、日本の文明開化ぶりを示し、
それが少しでも条約改正に役立つならばと、その身の苦労を厭わなかった。