読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

三河物語

2007-12-15 15:24:01 | Weblog

大久保彦左衛門忠教は晩年「三河物語」と言う大作を執筆したがその作中徳川家については辛らつな内容を書いたため自ら子孫にその書物を門外不出とする訓戒を残した。主家徳川家の由来、松平歴代の当主の事、大久保家代々の武功など詳細な松平家史だが彦左衛門自身の事については僅か三箇所しか記述がなくその書物は自伝とは言い難いと司馬遼太郎が書いている。明治13年になって当時の大久保家の当主が彦左衛門自筆の書を勝海舟のもとに届けた事によって世に知られるところとなったと言う。

中央公論の始り

2007-12-14 10:54:46 | Weblog

明治維新と言う文化革命期に仏教各宗派は思想的刺激を受けず現状維持の態度を保持した。しかし思想的反応は二例ほど有ったと言う。その一つに浄土真宗が有った。明治中頃、西本願寺に、ある反省運動が起こった。当時のキリスト教の牧師や神父の真面目な生活態度が本願寺の有志に影響をもたらしたのだ。酒を飲まないようにしようと言う「反省会」が生まれ、明治20年「反省会雑誌」(後に「反省雑誌」に改題)が出された。禁酒道徳と言う幼稚なモットーであったため思想的に高まりは無かったがその雑誌は10年ほど継続した。明治32年、これが「中央公論」と言う名になり本願寺とは関係が無くなり発展したと言う事である。司馬遼太郎「この国のかたち」より。

今年の文字”偽”

2007-12-13 11:02:47 | Weblog

今年を象徴する文字が「偽」と決まった。この漢字の成り立ちについても調べて見ようと思っている。人が為すと言う事だが自然が為すと言う事に対比して言われた事だろうかと思ったりもした。川、山、木の実、草の実、雨、雪、雲、雷、嵐など皆、自然の為した事だ。それが大自然や宇宙の真理だと理解すると人の為した法律、政治、行政、制度、生産、製品などは人工のもので自然物に対しては不自然な事象と言う事なのかと今年の漢字の成り立ちを想像して見た。

投稿欄雑感

2007-12-12 14:12:48 | Weblog

新聞には色々な型の投稿欄が有る。「発言」「くらしの作文」などタイトルは様々だ。新聞の読者、その他の著作を仕事としていない人たちの文が多く発表されている。前にもブログで書いた事があるが司馬遼太郎が「この国のかたち」の中で日本は記録の国であると言っていたのを思い出す。あらゆる事に記録が残されているのだ。そうした記録好きの国民性が新聞の投書欄への参加者を多くしているのではないかと思う。一億総評論家などと揶揄される事もあるが、国民の五人に一人が俳句を読み、十人に一人が短歌を詠むような国は他に無いそうだ。上は天皇から下は農夫まで4,500首以上の歌を集めた万葉集を思うと更にその感が強い。そう言えば何々文学賞などと言う文学に関する賞の数も日本が一番多いのではないだろうか。言語別のブログ数では日本語が世界的にはマイナーな言語であるにも拘わらず日本語のブログが最も多いと言う統計を出しているアメリカの統計会社が有るのだ。

ポンペの事

2007-12-11 13:51:16 | Weblog

安政4年(1857)、江戸幕府はオランダ人ポンペを医学教官として招いた。日本の長崎に5年ほどいて医学だけでなく化学や物理学まで教えた。弟子に松本良順などがいて良順は新選組の隊士の治療などもした。山口県妨府市にポンペ神社というのがあるそうだ。四国の国立病院の名誉院長だった荒瀬進氏の生家がそこにあり、その家の庭にその祠があるそうだ。同氏の祖父の荒瀬幾三氏がポンペの弟子でポンペの偉大さが荒瀬家で伝えられ祠が造られ進氏は子供の頃、朝夕、拝んでいた。ポンペ自身は帰国後、牡蠣の養殖に失敗したり赤十字の事業をやったりして79歳で没したが自分が日本で神として祭られていようなどとは思いもしなかっただろう。

如来

2007-12-09 10:20:53 | Weblog

釈迦の目的は解脱だった。それが叶わぬ望みと判った大乗仏教は解脱した人を拝む事を決めた。釈迦は死後、自分が拝まれるなど思っても見なかっただろう。釈迦は悟ってのち、自らを如来と言ったがえらそうに自分をそう称したのではなく”如来”の意味は「法(真理)と一体となった人」と言う事で釈迦自身も先に死んだ弟子の事も如来と言う敬称を持って呼んだそうである。司馬遼太郎「この国のかたち」から

情緒が大切

2007-12-08 10:05:13 | Weblog

昔、奈良女子大に岡潔と言う数学者がいた。毎日、数学の研究に取り掛かる前にお経を一時間ほど読まれたそうである。後に数学の研究で文化勲章を貰われたとき、天皇陛下から「数学の研究はどのようにしてやるのですか。」と聞かれたとき「情緒でやるのです。」と答えたそうだ。陛下からの返事は「あっ、そう。」だったそうだが、更に新聞記者から情緒とは何ですかと聞かれ「野に咲くすみれの花をきれいだと感じる心です。」と答えた。数学者、藤原正彦も優れた数学者は美しい環境の中で生まれ育つと言う持論の人である。


続「藤原正彦とビート・たけしの対話」から

2007-12-06 10:12:48 | Weblog
数学者、藤原正彦氏の話でサイクロイド曲線と言う言葉が出て来た。高校時代に数学の授業で聞いた事が有った。円が直線状を回転するとき、その円の定点が描く曲線を言う。普通、球体が転がるとき直線上を行くのが最も速度が速いと思われるがそうではなくこのサイクロイド曲線の上を転がるのが最も早く、お寺の屋根の曲線はこれに従って建築されており従って雨水が早く流れるようになっていると言うのだ。(そうではなく、お寺の屋根の曲線は懸垂曲線ではないかと言う意見もある。)これもトリビアかも知れないが新しい発見だった。

藤原正彦とビート・たけしの対話から

2007-12-05 10:30:02 | Weblog

「日本人の矜持」と言う本でベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦氏が幾人かの著名人と対談している。その中にビート・たけしがいた。彼が算数の遊びをしていたとき、こんな事に気が付いたと言っている。奇数を足し算した和は、有る数の二乗になる事に気が付いたとその対談の中で話している。1+3=4は2の2乗、1+3+5=9は3の2乗と言う事だ。こんな事は私は知らなかった。他にも私の知らない話が出てきた。トリビアとも言えるがこんな事を発見出来るのも読書の楽しみだと思った。

「伯父は賢治」を読む

2007-12-02 11:27:33 | Weblog

この本は賢治の一番下の妹のクニの子、淳郎が書いたものである。しかし淳郎が生まれたとき賢治は既に亡く、母親クニの話と賢治の作品を基に伯父の人となりを書いている。読んでいて意外に思ったのは賢治が東京に日蓮の研究のために出てきたがその中途で賢治の直ぐ下の妹、トシが死に、国へ帰ったと、何かの本で読み記憶していたが淳郎はこの本のなかで、父親の政次郎が浄土真宗で賢治が日蓮宗だった。賢治は父親に改宗を迫ったと言う話を書いている。そのために賢治は家出をしたと書いているのだ。日蓮研究などとは何処にも書いていないのだ。トシも賢治よりの信仰だったと言う。トシは美しく、優秀でトシの死に賢治は非常なショックを受け、その後詩人になったとも有り、「銀河鉄道の夜」などの作品もその結果、成ったのだそうである。