読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

ラスト・タイクン

2010-12-03 09:44:06 | 歴史
『タイクン』とは日本語の『大君』である。
家茂、従兄弟から養子へ
十四代将軍・家茂(いえもち)は、将軍就任前は徳川御三家の紀州家の当
主で、徳川慶福(よしとみ)と名乗っていた。
安政5年(1858年)7月6日、十三代将軍・家定が死去すると、慶福
は家定の養子となり、将軍に就任した。
養子といっても、家定と家茂はきわめて近い血筋にあった。
家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は十一代将軍・家斉(いえなり)の七男
である。
斉順は、御三卿の清水家の当主となったが、御三家の紀州家に後継者が
いなくなったため、紀州家に養子として入ったのである。
家定と家茂のそれぞれの父は、いずれも家斉の息子で、二人は従兄
弟の関係にある。

慶喜、登場

弘化4年(1847年)、家定の父・家慶は、水戸徳川家の徳川斉昭(な
りあき)の七男・七郎麿(しちろうまろ)を一橋家の養子とし一橋慶喜と名
乗らせた。
慶喜の慶の字は、家慶から一字を取ったものだ。
慶喜は家慶の義理の甥にあたる。
家慶の正室と慶喜の母(斉昭の正室)が姉妹。
水戸徳川家は御三家ではあっても、将軍後継者の対象からは除外されていた。
斉昭は、我が子を一橋家に押し込むことによって、水戸徳川家から将軍を
だせると考えたのだろう。
家茂と慶喜のどちらが、徳川将軍家に近いかといえば、家茂である。
前将軍の家定と家茂とは従兄弟同士ですが、家定と慶喜は初代・家康まで
250年も遡らなければ血統が繋がらない。
まったくの他人といって良い。





信望厚き将軍、家茂

2010-12-03 09:37:27 | 歴史
家茂の次が最後の将軍・慶喜であるため、慶喜の影に隠がちだが
家茂は英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、
忠誠を集めたと言われている。
家茂の正室の和宮(かずのみや)は、孝明天皇の妹である。
和宮には、すでに有栖川宮という婚約者がいたが、『公武合体路線』
のため、婚約を解消して家茂に嫁いだ。
最初は「夷(えびす)が住む江戸などには行きたくない」と言ってが
家茂と生活するようになると考えが変わったと言う。
そして、新政府軍が江戸に向って進軍し、徳川家が滅亡しそうになると、
和宮は徳川家の助命を嘆願するまでになる。
その新政府軍の総司令官が、かつての婚約者の有栖川宮であったとは
歴史の面白さを感じる。