『タイクン』とは日本語の『大君』である。
家茂、従兄弟から養子へ
十四代将軍・家茂(いえもち)は、将軍就任前は徳川御三家の紀州家の当
主で、徳川慶福(よしとみ)と名乗っていた。
安政5年(1858年)7月6日、十三代将軍・家定が死去すると、慶福
は家定の養子となり、将軍に就任した。
養子といっても、家定と家茂はきわめて近い血筋にあった。
家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は十一代将軍・家斉(いえなり)の七男
である。
斉順は、御三卿の清水家の当主となったが、御三家の紀州家に後継者が
いなくなったため、紀州家に養子として入ったのである。
家定と家茂のそれぞれの父は、いずれも家斉の息子で、二人は従兄
弟の関係にある。
慶喜、登場
弘化4年(1847年)、家定の父・家慶は、水戸徳川家の徳川斉昭(な
りあき)の七男・七郎麿(しちろうまろ)を一橋家の養子とし一橋慶喜と名
乗らせた。
慶喜の慶の字は、家慶から一字を取ったものだ。
慶喜は家慶の義理の甥にあたる。
家慶の正室と慶喜の母(斉昭の正室)が姉妹。
水戸徳川家は御三家ではあっても、将軍後継者の対象からは除外されていた。
斉昭は、我が子を一橋家に押し込むことによって、水戸徳川家から将軍を
だせると考えたのだろう。
家茂と慶喜のどちらが、徳川将軍家に近いかといえば、家茂である。
前将軍の家定と家茂とは従兄弟同士ですが、家定と慶喜は初代・家康まで
250年も遡らなければ血統が繋がらない。
まったくの他人といって良い。
家茂、従兄弟から養子へ
十四代将軍・家茂(いえもち)は、将軍就任前は徳川御三家の紀州家の当
主で、徳川慶福(よしとみ)と名乗っていた。
安政5年(1858年)7月6日、十三代将軍・家定が死去すると、慶福
は家定の養子となり、将軍に就任した。
養子といっても、家定と家茂はきわめて近い血筋にあった。
家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は十一代将軍・家斉(いえなり)の七男
である。
斉順は、御三卿の清水家の当主となったが、御三家の紀州家に後継者が
いなくなったため、紀州家に養子として入ったのである。
家定と家茂のそれぞれの父は、いずれも家斉の息子で、二人は従兄
弟の関係にある。
慶喜、登場
弘化4年(1847年)、家定の父・家慶は、水戸徳川家の徳川斉昭(な
りあき)の七男・七郎麿(しちろうまろ)を一橋家の養子とし一橋慶喜と名
乗らせた。
慶喜の慶の字は、家慶から一字を取ったものだ。
慶喜は家慶の義理の甥にあたる。
家慶の正室と慶喜の母(斉昭の正室)が姉妹。
水戸徳川家は御三家ではあっても、将軍後継者の対象からは除外されていた。
斉昭は、我が子を一橋家に押し込むことによって、水戸徳川家から将軍を
だせると考えたのだろう。
家茂と慶喜のどちらが、徳川将軍家に近いかといえば、家茂である。
前将軍の家定と家茂とは従兄弟同士ですが、家定と慶喜は初代・家康まで
250年も遡らなければ血統が繋がらない。
まったくの他人といって良い。