ある旅人の〇〇な日々

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読書録「甦る海上の道・日本と琉球」

2007年05月28日 | Weblog
民俗学のオーソリティというと柳田国男と谷川健一しか思い浮かばない。柳田批判はいっぱいされているが谷川批判はあまり聞かない。谷川氏は1921年生まれなので今年86歳である。図書館の新着コーナーで谷川著の「甦る海上の道・日本と琉球」(文春新書、2007年)を見つけて読む気になった。やはり書店と図書館は頻繁に訪れたほうがいい。それにしても学者には定年がないのだな。

この著作、250ページほどだが内容が濃密で難しい読みの固有名詞や古語がいっぱい出てくるので読むほどに疲れ、読了までに5日間程度要した。
まずカバーの袖に「原始・沖縄を千年の眠りから覚めさせたのは九州産の石鍋だった・・・」というフレーズを読む。日本の商人が長崎の西彼杵半島産出の滑石製石鍋を本島や先島にもたらしてから貝塚時代を終わらせグスク時代になったのである。先島では石鍋模倣土器を出現させ、無土器時代は終焉して一気にスク時代へ。琉球では滑石製石鍋は古いグスクでしか発掘されないので、日用雑器としてではなくてシンボル、呪器として使われたのではないかと考える。石鍋は日本本土で石鍋四個が牛一頭の値段に匹敵していたほど高価なものだった。

その商人たちは谷川氏によると、西九州を根拠地にする家船の人たちではないかと推測する。商人たちは主に琉球のヤコウガイ、ホラガイが欲しかった。それらは日宋貿易での螺鈿工芸特産品の材料として珍重された。琉球へは石鍋だけではなく、カムィヤキ土器、鉄塊、鍛冶職人などももたらした。琉球には鉄鉱石も砂鉄もなかったので、以後、生産力も画期的に上がった。
近年、徳之島の伊仙町でカムィヤキ土器の大規模な窯跡が発見されており、喜界島の城久遺跡からは石鍋、カムィヤキ土器、中国製の白磁などが大量に出土されているので喜界島がひとつの交易拠点になっていたと見なしている。
家船商人にまじって武装集団も加わっていた。武士団の残党や食い詰めた落伍者などであるが、家船自体が海賊といおうか倭寇みたいな存在のようである。武装集団のなかで有力だったのが、肥後八代の名和氏の系統の連中で、肥後海賊くずれで伊平屋島、沖縄島の東南部、知念半島に上陸して佐敷に根拠地を設けた。これが第一尚氏を開いたというのを折口信夫が説いている。肥後にも佐敷という地名がある。谷川氏にはこの折口説に異論はないようだ。谷川氏は肥後の水俣出身であるが、水俣に為朝伝説があり、為朝神社がある。

サバニについての記述が興味深い。サバニの語源は小舟(さぶね)だという。元来はクリブネだったが、大木を濫伐することは唐船や楷船の帆柱材の不足を招くので琉球王府が1737年にハギブネ(板造り)を奨励した。でも、なかなかハギブネは普及しなかった。ハギブネは船税が高くて構造も複雑だったからだ。明治になってもクリブネの数が優勢だったという。

この著作を要約することは難しい。谷川氏は自説をあまり主張していない。既存の様々な説、新しい知見を多数提示してくれる。これらを使って読者にいろいろ考えたり、調査したりすることを勧めてくれているような気がする。
著者の「父が歴史。母が文化。同母異父の日本と沖縄」の枠組みはずっと変わらない。

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1 コメント

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なぜ谷川批判がないか。 (加奈子)
2008-11-03 13:26:45
それは谷川氏が出版会のボスであり、学者は本を出したいのでそのような人には面と向かって批判しないから。そのような人が谷川氏の周囲にはたくさんいる。また同氏は柳田を乗り越えるというよなことを書いているが、生きている人の批判をしないという編集者的な生き方をしているから、学者とは対立しないから。次に実は谷川氏の書くようなものは学問とはみなされず、小説とみなし、従って学者の論文の参考文献にもほとんど出てこない。専門学者の多くはこの人を無視しているのです。谷川褒めをするのは、若い学生、編集者、文学者、マスコミ、一般の読者など。研究者の多くは相手にしていない。それに対して柳田氏に対しては、具体的に批判対象となる著作がある。批判してももう怖くないからするのです。
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