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読書録「琉球と中国~忘れられた冊封使~」

2008年12月06日 | Weblog
五年半前に読んだ「琉球と中国~忘れられた冊封使~」(原田禹雄、吉川弘文館、2003年)である。著者はハンセン病の専門医(岡山の長島愛生園医長)であった。医師がなぜ、琉球王国の歴史を書くのかと少し興味があったが、復帰前、沖縄に派遣医として何度も渡り、沖縄の風物と人物の美しさにうたれ、独学で歴史を学んだそうだ。

この著書では冊封使についての中国側の資料である使琉球記などから琉球王国の歴史を浮かび上がらせている。
近代以前は東アジアの中心は中国であり、中国は中華思想をもち、周辺国も一目置いていた。自然に、中国は宗主国、周辺国は服属国という立場でなければ国交を認めない態度を中国にとらせたのである。
琉球と中国もそういう関係に置かれた。服属国の君主が、中国皇帝から国王に任命する詔勅を受けることを冊封という。沖縄方言ではサッポー。

本文は明朝の招諭のことから始まり、薩摩の侵略、明清交替の時期のこと、冊封使の琉球往還の状況など分かりやすく解説してくれる。
琉球往還では、告訃に始まり、冊封使発令、詔勅奉持、出京、奉舟建造、冊封諸礼、冊封使の琉球での日々の生活、帰任まで。

中国にとって、外交は「礼」そのものだった。冊封といい、朝貢といい、すべて礼制に則り繰り返すことが必要とされた。琉球国は、つねに職責を務め、怠ることのない「守礼之邦」であったのだ。
薩摩の侵略と琉球処分は、いわば礼を無視した泥足での侵入であった。

薩摩の侵略については、早期に琉球国から明に報告されていたそうだ。冊封使録は琉球史の宝庫であるが、今までは「球陽」一辺倒の感があったので、これからは琉球史の資料として加えるべきだと結んでいる。

参考文献として野口鉄郎「中国と琉球」(開明書院、1977年)と喜舎場朝賢「琉球見聞録」(ぺりかん社、1977年)を上げてくれている。古書として探求書になった。

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