ある旅人の〇〇な日々

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昆布の道

2007年04月16日 | Weblog
つい先日のこと、古書店の民俗学の棚に「昆布の道」(大石圭一、第一書房、昭和62年)をみつけた。函入りの重厚な専門書である。琉球王国の時代の昆布についても載っているので読んでみる気になった。かなり高額なので図書館で借りて読むことにした。

(太平洋廻りの航路もあった。1838年に昆布を積んだ長者丸が陸前沖で遭難して漂流した)
現在、沖縄県の一人あたりの昆布の消費量は全国一だ。北海道近海で採れる昆布がなぜそうなのかを知るには、歴史書をめくらなければならない。
江戸中期に蝦夷地の松前、函館、江差の港と大阪を結ぶ日本海・瀬戸内海航路を北前船が航行始めた。船主には石川や富山の北陸商人が多かった。蝦夷地からは昆布などの海産物がほとんどだった。当時、薩摩にあった琉球館の1788年の文書に「大阪で昆布を買い、琉球で売り、砂糖を買い、大阪で売る」という記事があるそうだ。琉球は朝貢という形でこの昆布を清に輸出して、代わりに薬品や唐物を輸入し、これらを北陸路で売って利益をあげていた。当時、琉球は薩摩藩に支配されていたので、ほとんどの利益は薩摩藩の懐に入ったと言っていいだろう。
琉球や奄美の黒糖→蝦夷地の昆布→シナの薬品は、それぞれ利益を生んだ。薩摩藩は、この黒糖で借金財政を立て直し、明治政府をつくりあげたのだ。これに貢献したのが薩摩藩の調所広郷であった。

昆布を琉球から清にどのくらい輸出していたかは、「道光以後中琉貿易的統計」という中国の資料で知られている。1821年から50年間のデータである。これによると年間平均120トンであるが、実際は500トン程度と推測されている。当時、日本の昆布総生産量が5千トンだから、中琉昆布貿易はその10%に及んでいた。
中国は、なぜ昆布が必要だったのか。昆布には、ヨウ素が含まれており、風土病の治療に必要であったようなのだ。朝貢品重量の85%は昆布であったというから驚く。
18世紀末に那覇港に「昆布座」が設けられ、薩摩藩が直営していた。昆布座の背後には悪名高い「在番奉行所」があった。薩摩藩の琉球王国支配の心臓部であった。昆布座では、対清貿易用昆布の集荷、琉球国内向け昆布の一手販売等であった。この昆布座、明治12年の琉球処分で在番奉行所とともに沖縄県庁となっている。
そういうことで沖縄で昆布がたくさん消費されることになったのである。沖縄料理としてはクーブイリチー(昆布の炒めもの)、ソーキ煮などで使われており、食べたことがある。他にも昆布巻きとかいろいろあるようだ。沖縄で昆布が今もたくさん消費されるのは、こういう歴史のせいであった。