GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

<コミュニケーションといじめ>

2009年04月11日 | Weblog
「相手に自分の意を伝える」ことは非常に困難です。私は20歳までコクッたことがありませんでした。大学時代の私の友人はきっと「嘘だろう?」と云うに違いない。大阪から東京に出るとき、私は今までと違った自分を模索しようとしていた。その「イメージ」はポール・ニューマンの映画「長く熱い夜」の主人公、ベン・クィックです。屈折した想いを奥に秘めながら必死にそれを隠して、男が一人で生きて行くには強いガッツしかない、そんな男をイメージしていたように思います。ベンは初めて訪れた村(原作の題名は「村」(ウィリアム・フォークナー))で、大地主で支配者のバーナー(オーソン・ウェルズ)の適齢期を過ぎた娘気性の激しいクララ(ジョアン・ウッドワード、この共演で二人は実際に恋に落ち、その後結婚)がいた。ベンは時間をかけてバーナーに気に入られ、クララの心も掴んでいきます。そんな彼の強いガッツが次男の私にも必要だと強く思って東京の大学に出て行きました。

 そんなことを心に秘めていた私は人と絶対に同調することはありませんでした。自分の想いを貫こうと強く決心していました。アメリカ民謡のフォークソングクラブ入部して、夏の共〇女子大との共同合宿(白樺湖)で、ホ〇というあだ名(2年生)の女の子に目が止まりました。黒いパンタロンぽいズボンに白の薄めのセーター、胸に赤やピンクの模様があり、髪は短髪で前髪とサイドが少しウエーブがかかっており、粉を吹いたような色白の女の子でした。彼女の頬や首筋の色白は、セーターの白さより際だっていました。(いまでも良く覚えている)。そして、何よりも目についたのは周囲の女子大の仲間と話す笑顔でした。「なんて可愛い笑顔で話す子だろう!」東京に出て5ヶ月目、私の実らぬ恋がスタートしました。小学校を卒業してからの6年間コクることなどできない不毛の時代を過ごした私は、映画のベン・クィックのようになかば強引にその恋を成就しようとして失敗したのです。(バカな奴…)

 今回の日記はコミュニケーションの難しさとその負の遺産を書こうと思って始めたのですが、横道にそれそうなので戻します。今日の朝日新聞(4/9)の<私の視点×4>に萱野稔人氏(津田塾大準教授)の記述にこのような文章がありました。

『あらゆる人間関係において、自分の価値を認めてもらうためには高度なコミュニケーション能力を必要とされる。書店に行けばコミュニケーション能力を高めるための自己啓発本があり余るほどでているし、わざわざそのための学校に通う人いるほどだ。しかしコミュニケーション能力が、人々の価値を決める独占的な尺度になることは、はたして健全なのだろうか。事実、コミュニケーションべたで自己アピールにそれほど長けていなくても、能力のある人はいっぱいいる。もちろんコミュニケーション能力も人間の能力の一つである。だからそれが評価基準の一つになることはいい。とはいえ、コミュニケーション能力をめぐる過当な競争は、人間関係にひずみをももたらすだろう。… 引きこもりは一度他者とのコミュニケーションにつまずくと、なかなか新たなコミュニケーションに踏み出せなくなってしまうことから生まれる。それにつまずいてしまった人にとても社会は冷淡だ。
また、いじめは子供のコミュニケーション能力の欠如から起きているのではなく、逆に、みんなが空気を読みすぎことで生じるストレスのはけ口を特定の人間に向けることで起きている。

 この文章の中の<空気を読みすぎる子供達>という表現に注目して欲しいのです。いじめの要因が「空気を読みすぎ」だという。どうして大人のように「空気を読み過ぎる」周囲に敏感な子供達が大勢育ったのでしょうか。

 幼い頃、夏休みは私たちは家でほとんど遊ばず外で走り回っていました。つまり子供が外でどんなことをしているのか、親は知りようがなかったのです。しかし、現代の子供はどうでしょう。多くは自宅にこもりゲームに時間を費やしています。つまり大人達の目につくところにいるのです。「あーしなさい」「こうしてはいけない」と30歳前後の両親は、今までの30年間のノウハウを親として云うべき事をすべて言い尽くすので、天真爛漫な子が育たなくなっているのではないか、そんな危惧が浮かんでくるのです。

 子供は親に文句を言われないように同調する要領を身につけていきます。そして学校生活でも同調するのが当たり前になっていきます。つまり見かけだけのいい子チャンが量産されていくわけです。まだ知識と経験が足りない子供達は同調と共感の違いが分かりません。共感するにはもう少し時間や多くの物語を必要とします。子供の教育は一緒に読む本や、一緒に観るテレビドラマや映画を通して、物語の中から共感を介在にして教育していくべきです。

 量産された見かけだけのいい子ちゃんは、自分がいじめの対象にならないよう心配りすることで、負の遺産であるストレスを溜め込むことになります。体力的暴力や言葉の暴力も一種のコミュニケーション能力です。彼らは人より長けた能力でしか自分を上手く表現できない哀れな人だとも云えます。他者を圧倒する能力を駆使して自分のアイデンティティーを守ろうとしているのです。いじめの被害者は言い返す言葉のコミュニケーションもやり返す肉体的コミュニケーション能力もないために泣き寝入りするしかないのです。

 以前もこの日記で語りましたが、被害者は自分の世界が学校や職場という世界しかないために逃げ場がないのです。どんどん自分を袋小路に追い詰めていくしかないのです。学校や職場以外の世界をいくつか持って欲しいのです。他の世界と云ってもバーチャルや直物の世界ではなく人のいる世界です。人の心を癒すことが本当にできるのは、やはり人しかないと私は思っています。

もし、学校から帰ればサッカークラブという違う仲間がいれば、
職場を去れば音楽を楽しむ仲間がいれば、
袋小路で呆然と壁に向かって立ちつくすことはないのです。


 その世界からいじめの加害者達を「あんなことでしかアイデンティティーを見いだせない奴らを哀れな奴らだ」と思っていればいいのです。自分が愛する世界は、決して一人ではなく、同好の人がいることに気づいて欲しいのです。そのためにはほんの少しの勇気とほんの少しの好奇心があれが解消できるのです。

「相手に自分の意を伝える」ことは非常に困難ですが、同好の人は必ず存在するのです。その仲間の中で自分を癒し、オリジナルな自分を密かに作り上げるのです。その経験やトライ&エラーが、やがて自信を生むのです。自信が自分の成長を自覚できる最上のものなのです。そのフォローの風を受けて大海原に船出すればいいのです。そして疲れたらまたその世界に戻って心を癒せばいいのです。いつも元気な人は誰もがそうしているのです。ゲームや植物や動物相手ではそれが難しいのです。逃げ込ます、ほんの少しの勇気、ほんの少しの好奇心を追加することで自分を救えることに気づいて欲しいのです。いじめの加害者もまったく同じです。同好の世界を見つけて、その仲間の中で本当の自分自身に気づき、自分の位置を知り、自分に足りないものが何であるかを学んで欲しいのです。

 しかし、子供の同好の世界だけは決して親は介在してはいけません。リトルリーグに親が入れ込みすぎると、また愛する子供は自分を見失ってしまうからです。子供を信じて遠くから温かく見つめていればいいのです。親は監督に「一番を打たせろ!」「レギュラーにしろ!」などと云って、モンスターペアレンツになり果てて、子供の心を崩壊させては絶対にいけないのです。

萱野稔人氏はこう続けています。
『空気を壊してしてはならないという圧力は、人びとにコミュニケーション能力をさらに要求するだろう。しかし、それが進めば、社会のなかで同調圧力が強まり、社会そのものが萎縮してしまうだけである。』


[m:66]私の座右の銘
「和して同ぜず」


(写真は4/8 兵庫県のパインレイクGCです。私が行った最高難度のゴルフ場ですが、桜の満開が酷いスコアで落ち込む私を心から癒してくれました。5月に再度難コースに挑みます。)


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