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枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

上弦・雨水

2013年02月18日 | Weblog

 当に、この雨は、雨水だ。少し暖かみを感じる。春雨ではないが、春の息吹を呼び覚ます、程好さがある。此の所随分と球根の芽や、零れ種の発芽が多い。青々とした苗が、命の恵みを受けている。雨にけぶる温泉もいいもの。テレビでやっている。

 温泉のランクつけはどうでもよかったが、料理に枇杷葉の葉を使っていた。美しい緑の葉が、料理を引き立てていた。なるほど、こういった方法もあるんだ。妙に感心してしまった。でも、最も自然なやり方ではあるようだ。とても清々しい思いがした。

 熱海に行くなら、初夏がいい。温泉にはちょっと不都合だが、人が少なくて静かである。ぼんやりと湯に浸かるのもいいのだ。湯上りに枇杷を戴くのも、都合がよろしい。新幹線で熱海まで行き、温泉に一泊すると、1人分の経費は、往復3万強くらい。

 外国よりも、国内の旅の方が高い。料理に見惚れるが、あんなには食べられない。粗食でいいんだが、温泉には入りたい。景色と眺めというと、割高になるのか。我が家で温泉気分に浸るには、もう少しかかりそうだ。玄関横に枇杷葉を植えねば。

 雨水とは、二十四節気の一つで、雪が雨に変わり、氷が溶けて水となる。草木の芽が出始める頃だ。だが油断はならない。霜は5月の初旬まではあるから、霜除けには注意がいる。枇杷葉も同じで、結実していても、青い実が落ちたり熟れない。

 ここ数年、枇杷葉の花芽に心を癒され、実が生ることに思いを馳せたが、矢張り自然は厳しい。一昨年辺りから、収穫しようと勝手をするため、天が旋風を曲げたように思える。こういったサイクルを、頭に入れておけばいいことらしい。

 皮膚病の大抵の者に、ドクダミ茶が効く。飲んで佳し。薬湯に用いて良し。枇杷葉との相性もよいので、安心して使える。寒中の根槐は甘みがあって美味しい。今年は泥がついたままにしてある。使用時に洗って用いよう。腐れがない。

 この時期には、暴飲暴食が祟って、胃腸が弱ってくるもの。お粥を食べたり、粗食での対応にしたいもの。ノロウイルスや嘔吐・下痢症状等は、不規則な仕事から来ることが多い。或いは心痛があったり、心に悩みを抱えると起きる。

 寒中に咲いたバラ。蕾ができたので、室内に鉢ごと入れた。1ヶ月ほど待って咲いたもの。

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陽射し淡く・・・

2013年02月17日 | Weblog

 少しづつ、光も風も、宇宙でさえ明るさを増す。冬の寒さに耐えてこそ、春の淡い陽射しが訪れてくる。宇宙の昴の輝きも、狩人や大犬、子犬の吠え立ても、力強さが弱まっていくようだ。だが油断はいけない。梅の蕾は、未だ固く閉じている。

 枇杷葉の花芽の、咲ききっていないのを採る。軟らかい風に乗って、運ばれてくる香りの何と心を満たすことか。ぼんやりと、唯立ち尽くす。宇宙をふと、仰ぎ見る。緩やかな雲が棚引いている。梅の花が一輪咲けば、拙い鶯の声がし始める。

 午前中は布団に居よう。としたが、捗々しい程ではないが、天気に布団を干す。先月、鍼灸をしてから、左手の調子がよくなって、痛みが軽減したこともうれしい。手が動く、回せるという何ということもない動作が、これほどありがたいとは。

 左手にあった鈍痛が消えると、上下に動かせ、背中にも回り、孫の手も要らなくなった。略3週間である。鍼灸・末廣堂さんには、お礼の申しようもありません。まだ完全に治ってはいませんが、肩にバックがかけられるようになったのです。

 枇杷風呂にはいることは無論だが、塩で揉むのも続けている。寒中に素足で歩くこと等、考えもしなかった。冷えた足が温まるのは至難のことだ。それが消えたのもありがたい。風邪の初期症状になりはしても、熱は然程出ずなのも嬉しい。

 喉の痛みには、嗽を繰り返し、イガイガすれば、金柑酒や梅酒を生地で飲む。最終的には、山女酒で治る。だがこれは、本当に切り札でしか使わない。枇杷葉茶も、種と花芽を入れて煎じるから、風味がよく甘い。とても口当たりが佳い。

 季節の野菜を戴き、さして肉は口にしない。大根・白菜・ほうれん草。玉葱や牛蒡、豆類に乾物も利用範囲が広く、水で戻しては弁当に持って行く。卵は、3Kgを1ヶ月で済ます。特に寒中の卵は美味で、自然からのエネルギーがもらえる。

 午後に急に想い立って、プリンを作る。その間に粥を用意した。昨夜は七草だったが、横着をして今日に回した。明日は早出か、と勤務表を見ながら、散らし寿しをすることに。牛蒡と沢庵と蒲鉾、鮭があるのだ。菜の花を上に乗せよう。

 東の用水路に向かう、茂木の赤枇杷。今までにたった1粒しか生っていない。さて、今年はどうだろう。

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旧暦・七草

2013年02月16日 | Weblog

 道端のはこべなが、15cm程になっていた。矢張り、この時期にならねば、七草は集まらぬ。太陽の光が零れたような、タンポポが咲いていた。自然に眼を向けると、春が小さな足音をさせて来ているのがわかる。梅の花もそろそろですね。

 二月は逃げるとも云うが、早後半である。あっという間に月日は過ぎる。帰宅しようとしたが、息子の家で、録画しているがんこちゃん・スペシャルを観に寄る。嫁が、孫の映っているというNHKの訪問スナップも観たが、学校名と写真が逆だった。

 間違いとわかるのは、人物を見知っている者であるが、受信料を取るくらいなら、お詫びでは許されない。まあ、何処の放送局も、何分いい加減ということがわかっただけ。NHKも例外ではない。自宅のテレビは観ないので売り払うか。

 以前は、新諸国物語や三国志も観ていた。それなりに面白かった。尤も、録画で観たりはしない。忘れていたら辻褄が合わない。活字なら自分の時間の工夫だけで済む。まあ、子育てをしていた時には、食べることが優先であったが。

 新八犬伝は、故坂本九さんの語りであった。辻村ジュサブロウさんの人形に、食い入るように観ていた。たかが人形とは思えない、其処には命を吹き込まれた者が、画面で演技をしていた。本を読んでいると、物語に囚われるのと似ている。

 ああ・無情には、これまで知らなかった文章がある。最初の場面からがそうで、神の御心のままに、自分のためでなく、他人の人のために、生きている司祭に、とても深く考えさせられた。神に仕える者は、何者をも怖れないことにも驚いた。

 何故そうなれるのか?自分の物には執着なく、他人のためなら、かかる火の粉も厭わず、其処に行けるのだろう。キリストも、お釈迦さまの所まで、経典を取りに天竺に向かった、玄奨三蔵師弟も、苦難をものともせず、旅が続けられたのか。

 俗界に於いては、修行が未だ足らず、まだまだ遠く遙けき路を、進んで行かなければならないらしい。努力の仕方も、働きも乏しい。不平不満ばかりが口を突いて出る。ジャン・バルジャンに、遙か及ばない。還暦とは、元に還るということ。

 長崎茂木。剪定する前の状態。どの枝にも花芽がある。昨年は寒冷紗を掛けたが、今年はしていない。雪が2度積もった。

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梅は咲いたか・・・

2013年02月15日 | Weblog

 陽射しが、ぐんと明るくなって来、景色も何処となくぼんやりとして見える。春だなぁ、雨も細く煙るようだ。温暖化で、雪が雨に変わっている。春の雪は根雪にならない。雪の呼び方も、各々の季節で違う。凍み雪に牡丹雪、粉雪、淡雪に名残雪。細雪。

 雪も、少々なら娯楽に使えるが、豪雪ともなると、暮らしに影響が出る。北国の冬は、雪掻きがあるのだ。それも屋根に登ってするそうだ。雪の重みで家が潰れる。其処に住む人々は、生死の問題が常にある。何に付けても、生きていくことは困難がある。

 人間は、時として困難を工夫することで、克服することもできる。だが、自然を侮ってはならないのだ。神さまの決められたことには、何らかの意味がある。ああ無情を読みながら、人智を超えた何かが彼方にあることがわかる。神の近くには必ず往き着く。

 何人もの人を殺したかった。何故?何のために?どのような罪があったのだろう。人間は、絶えず佳き行いをしているとは限らない。けれども、誰かのために、生きているのは確かだ。慢心してはいけないが、心から感謝することは必要だろう。

 母親は、自分の体を犠牲にして、幼いわが子の命を守った。然し尚、祖母にとっては孫である母親。周りに居た人々も、深い哀しみから逃れられない。衝撃が包みこんでいる。察するに余りある遭遇した人々。かける言葉もない。祈ることしかできない。

 犯人が結果的に死刑になっても、亡くなった人が還ってくる訳ではない。命は一つだから。これ以上、誰であろうと、無益な殺しは止めて。殺す理由にもならない。死にたければ、独りで往ってほしい。今、死を考えているあなた。虐めで死のうとはしないで。

 咲き始めの花芽のアップ。この香りには、精神を安定させる働きがある。お茶で飲んでも、枇杷湯にしても、心が落ち着くのです。風呂場に挿している。

 

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光溢れる・・・

2013年02月14日 | Weblog

 春めいてきた。朝の光に目覚める。カーテンを開け、布団を干し、朝昼兼用の食事をする。その後は、お決まりの珈琲で、新聞をじっくりと読む。休日の特権だ。そこに近所の親子の会話が聴こえて仰天する。春みたいだ。と母親が話している。えっ?春ですよ。

 日常的な会話に、口を差し挟む筋合いではないが、余りにも常識に欠けている。苦笑するしかなかった。手紙や葉書を、というか、文章を書かなくなったのも一因。だが、小学校も、中学校も義務教育で出ている。敢えていえば高等学校も出ているだろう。

 高齢者と関わっていると、決まったパターンに出くわす。個々に持ち合わせた体内時計が、ある一定の時期や、何かでフラッシュバックすると、追い立てられる行動に出る。それが、体調や精神的な構造に多大な影響を与え、信じれらない事態になる。

 図書館に出向く。予約をかけておいた、ああ無情が届いていた。新潮社の世界文學全集。とある。1972年5月5日発行。全三巻になっている。価格は340円。いやいや、探せばある物です。期間は2週間で、その間に読まなければならない。徹夜だ。

 活字中毒とはいえ、試験の暗記も、特にしなければならないこともない。久々に掃除機も掛けたし、出歩くこともないのが幸い。これまでに読んできたのは、完訳ではなかった。こういったチャンスに、ちゃんと読んでおくのもいいかな。図書館にあったのも幸運。

 暇ではないが、花芽を摘んだり、葉を切ったりし、庭に佇んで暫し花芽の芳香をかぐ。心が洗われるような、それでいて爽やかな心地になる。屋敷内の花芽を見て歩く。立春過ぎた苞は、今年は咲かないので摘む。サンタさんのは2枝、結実は3個あるかな。

 白枇杷葉は、かなり咲いている。北側だが、あまり方角は関係ないらしい。中の方のも咲いている。東の川側のも、咲いているが結実がどうだろう。長崎茂木は、咲き切っている。これらは確実に結実する。剪定したのがよかったらしい。

 長崎茂木とりささん枇杷葉。剪定する前の茂木。どの枝にも花芽がついていた。あちこちに活けて咲かせた。室内は暖かい。

 

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ダイエットするには・・・

2013年02月13日 | Weblog

 痩せるにはお粥がいい。節約ができる。脂肪は溜まらない。だが、食生活の変化で、体質的なことが、大きく変わった。冷蔵庫がなかった時代には、保存するには塩漬けか、味噌漬けにしていた。醤油もある。現代では、信じられないような手間隙をかけた。

 荒神さまで、寒鮠の干物を見かけた。あれを炭火でちょっと焙って、三杯酢にして食べると旨いのだ。祖母がどうやって捕ったのか、冬の或る日に持って帰った。腹を裂いて串に刺していた。七輪で焙った鮠を、三杯酢につけて食べた。あの味は忘れられない。

 鮠は、清流に棲む。田畑の農薬塗れでは、棲息は無理だ。蜆もいなくなった。小鮒釣りし彼の川は見当たらない。市場には、凡そ手に入らない物はない。ありとあらゆる品物が出回り、贅沢三昧の限りをしている。そういった中でのダイエットはしないのがいい。

 何が怖いって、30代に近づくと、臓器全体が傷み始めて、原因不明の病気になる可能性が増える。それなら炒り子を食べているのがいい。お金を出すのではなく、自分で探し、見つける方がいいのだ。ダイエットをするくらいなら、自分の信念をつき抜こう。

 食べても栄養が無く、お腹が一杯になるのは、豆腐や揚げ。蒟蒻がよろしい。他には膨大な野菜です。消化のよい物ほど、体内に残りませんから、排泄してしまいます。栄養分にまでは達しません。味付けもシンプルに塩味がいいですよ。

 ダイエットの基本は、晴耕雨読でしょう。朝は粥、昼は野菜だけ。夜は、ご飯とお漬物。これに干し魚があれば文句無し。味噌汁も、体にいいのです。先日、水戸黄門の再放送で、きらん草の浸しを、黄門さまが、これは何か?と尋ねていたのにびっくりした。

 きらん草は、解熱効果ある。体調を維持するために、昔の人等は、こうやって食べていたのだ。それでも怪我はふりかかる。仕事には鎌や鉈を使い、鍬等の工具を扱う。切れなければならず、それ故怪我は多かったのだ。枇杷葉の効能はどうであったか。

 東側の赤枇杷。夕方の薄暗闇の広がる中で、すっくと立った姿は美しい。きりりと、寒中に清々しい。

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一雨毎に・・・

2013年02月12日 | Weblog

 夕方までは、どうにか持った天気も、帰宅する頃には、本格的になった。置き傘をしているのを出し差した。駐車場までちょっと歩くのだが、ぐっしょり濡れる。傘をたたんで、よく水滴を切っておく。車内には暖房をかける。寒さがジンときた。指が冷たい。

 雪ではなく雨である。これからはこうして、一雨毎に春が近づく。その足音も、耳を澄ませば心に響く。あちこちに隠れている春の精が、空に舞う衣装を、1針1針縫っているのも微笑ましい。一斉に羽ばたく日に向けて、小さな棲み家で練習を怠らない。

 妖精はいるのか?尤も、現実的ではないから、見えていたとしても、特別なのかもしれない。私は遇った事はない。銀河が生前に、毛を逆立てたり、嗅がしていたことはあるから、もしかして居たのかもしれないが。コロボックルは、蛙の着包みを着ていた。

 枇杷の木がお気に入りで、度々見かけた。蛙と見せかけた服の中から、油断して覗くことがあった。知らん顔をして、気づかぬ振りをする。驚かせてはいけない。我が家に起きる不思議な事は、何と説明すればいいのか。そうでないと納得できない。

 自然に感謝して生活していれば、時には思いもかけない出来事に遭遇する。夢でも幻でもないのだ。神さまの悪戯かもしれないが、これほど素晴しいこともない。いやいや、錯覚ですよ。枇杷葉の木に囲まれていると、迷路に入り込んでしまうのです。

 冬場の体の痒みには、湯舟に1匙の塩が効きます。肌のかさつきもなくなり、滑々になります。枇杷湯に入れれば、更に血行もよくなる。洗顔も塩でしているが、無駄が一切ない。化粧品が要らない。拭き取りもマッサージも不要。それでいて張りと艶が保たれる。

 サンタ枇杷葉に初生りの花芽です。今年は結実するかどうかは別だが、移植して5年目になる。

 

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ダイアモンドの輝き・・・

2013年02月11日 | Weblog

 以前、007の『ダイアモンドは永遠に』で、ラストシーンは、宇宙に輝く星を写していた。あれはベガだったのか、いやプレアデス星団であったのか・・・数多の星の輝きにも似て、ダイアモンドは光っていた。美しい物は禍を呼ぶ。人間だけの所有物ではない。

 試験は終わったのに眠い。そろそろ、春眠暁を覚えず、であろうかとも思う。夜更かしも読書くらいで、ページ数を決めている。つい徹夜をしてしまい、朝が起きれらない。仕事のある日は、特に用心がいる。休みの日も無論だ。読み出すと止まらなくなる。

 平岩弓枝の『西遊記』も、何度も読み返している。どんなに便利になっても、活字で読む醍醐味はたまらない。想像を膨らませ、その世界に往けるから。同時に、いつでも還って来られる。そのスリルは、感動以外の何物でもない。扉よ、いざ開かれん。

 枇杷葉の花芽が、満開になっている。剪定したのは、お茶にしているが、お茶パックに詰めながら、その匂いが心地よい。枇杷葉茶を変えるのは、新月の時で、種と花芽とを入れて沸かす。煎じてしまったのは、自然に乾かせて、紙袋で保存しておく。

 その後は、風呂に入れたり、排水口に吊るす。臭い消しになる。風呂に入れると、体臭が消えるのと、湯が傷まない。足し湯をして、1ヶ月間入る。カルキの臭いはしないし、肌に突き刺さる刺激がない。何よりも、冬独特の痒みが軽減される。塩で擦るのもいい。

 還暦を越えると、病院などはどうでもいい。60年間生きてこられたのだ。体のあちこちが傷んでいない筈はなく、故障のないのが可笑しいだろう。どんな小さなことにも感謝し、生かされていることのありがたさを祈れていればいいのだ。これからこそ我が人生だ。

 贅沢な物は手に入らなくても、旬の野菜が戴ければよく、素材の旨味を引き出せる料理こそ、本当の贅沢さであろう。それもたくさんではなく、独りで楽しめる程がよい。神さまの与えてくれた物には、それだけでも感謝がある。また、分けることを惜しんではならない。

 朝の光を受けて、浮かび上がる花芽。透き通った花弁が、とても綺麗です。この命を戴いていることを感謝。

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荒神様・旧正月

2013年02月10日 | Weblog

 いやぁ、大勢の人混みでした。すりに注意、とありましたが、この人波に押されたら、大変です。何しろ年寄りが多い。子どもの数も、中には犬を抱いていたりする。蛇に呑まれるのに、と案じてみた。この節の神社も、謂わば金儲け。参拝してくれるなら誰でも好い。

 荒神様は、田畑の神さまで、蝮は畦や石垣におり、毒を持っていることから、特別な臭いのするお砂を、魔除けにした。祖母も母も、どの田の畦にも、丈串を刺していて、鍬で押さえておいて、頭に丈串を入れ、家まで持って帰った。薬になるので売った。

 祖母の用意周到なところは格別で、何時如何なる時にも、異変を察知して、咬まれることはなかった。子どもの頃、遊びに野山を駆け回っていたが、祖母の忠告だけは聴いていた。冬は寒いが、危険なことを自分でしない限り、安全ではあったのだ。

 春先には、とぐろを巻いているのを、よく見かけた。このくらいのは、動きが鈍いので、慌てなければよかった。夏には、例え棒切れでも、大声を出すか、間違っても飛んだり、跨いでは危ない。祖母や母の草刈鎌を入れる袋には、必ずお砂が入れてあった。

 毎年、旧正月の三日間だけ、荒神さまは参拝者があり、普段は猫が日向ぼっこをするくらい、長閑な田舎である。学校関係もその間は休み。何処も彼処も駐車場になる。期限限定の商売である。お蔭があると信じて、屋台の前には行列ができる。

 昼前に家を出たので、帰宅したら2時であった。娘夫婦と一緒に行き、向うで息子家族と待ち合わせた。参拝を終え、お砂を買って踏み切りに来たら、遮断機が下り出した。2両編成の電車が通過した。偶然にも見え、晴れた空に、皆の笑顔が広がった。

 先月の上京時の東京駅の外景。近代的な建物と、甦った明治時代の建物が並ぶ。東京駅の正面右は皇居。丸ビルが、休館だったのでランチを食べ損ねた。

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旧暦・大つごもり

2013年02月09日 | Weblog

 新暦の寒々とした雰囲気はなく、雪は舞うものの、比較的穏やかな日だ。従って、七草は16日だから、道端のナズナも、すずしろも、零れ種で芽吹いている。日本には四季折々の旬がある。そうしてみると、自然からの贈り物に感謝できる。

 近代化になれば、何でも電化製品が、スイッチ1つでしてくれる。だが、電力の無駄使いもある。同時に頭を、体を使えない人間へと変化する。火加減のちょっとした頃合いで、料理の旨みが出る。其処のところの微妙さがない。高いだけである。

 目黒の秋刀魚も、七輪で、破れ団扇で扇ぐから、旨かったのだ。殿様がお城に帰れば、秋刀魚の味は消える。先日も、白菜と人参のスープをしたが、食べてちょうだい。と言わなくとも容器は空だった。塩だけのシンプルさが、素材の味を引き出した。

 高齢者の嗜好は、それほど贅沢な物ではない。胃腸の弱ってきた年齢で、そうそう肉が美味しいとは思えない。100gが2,000するのなら納得だが、それでは採算が合わない。野菜中心の献立で、月に1度は提供できるかもしれないが。

 青空市に行くと、旬の野菜が並んでいるが、目移りするほどの食材ではない。路地物が多いので、霜除けや、管理のできている野菜だけである。だが体にはいい。じゃが芋の芽が出るまでの料理も、やり方次第では美味しくなる。カロリーも大事だけど。

 人間の体調を整えてくれるのは、朝のお粥がいいらしい。空腹では仕事ができない。然し、朝から腹一杯は動きが鈍い。お粥は胃腸にいい。個人的には梅干である。このお粥を七輪で炊きたいのだが、昔のような丈夫なのがない。土が粗悪である。

 枇杷苗です。移植したら大きくなるが、種で発芽したまま。北向きなので寒く、日当たりが悪い。従って、発育が悪いのだ。

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