相手が何物であろうと、例え言葉が通じなくても、自分の心に偽りのないことを、わかってもらえるよう努力すれば、想いは届くのではないか。心を病んでいる人には、腫れ物に触るように接したり、痛みを刺激するような行動でいくのは、却って逆効果のように思えてしかたない。況してや、その場凌ぎの猫なで声で、どうして通じることがあろうか。
私も、そういった状況を経験した。幸いなことには、枇杷葉を知ったので、回復に至った。言葉の持つ魔力にも影響される。ちょっとしたことには違いない。本人が一番どうすればいいか途方に暮れている。慰めも励ましもいらない。静かに受け止めてほしいのに、外野ばかりが煩い。簡単に答えの出ることなら、そんなわかりきったことであれば、自分でやっている。
苦しいとか、哀しいとか、淋しいとかでなく、同じ態度でいてくれ、調子のいいことばかりを言わず、媚びず、諂わずの姿勢でいてくれることではないか。難しいことだろうか?容易いとは思わないが、一貫した態度で接することは、相手が安心もしようし、その空気に馴染んでいけるのではないか?居心地の好い空間は、誰でもない自分が創っていく。
敢えて言えば、その創り上げた空間に、土足で勝手に入っていかないこと。安易な言葉で傷つけないことのように思える。その人の心の中は視えないから、自分を取り繕うことはできるだろう。だが、それでは一方通行になってしまう。心の中では、そこから抜け出したいし、どうすればいいかがわからないから、援けを願っているのに。
人間とは、十人十色なのだ。そういうことがわかっていながら、殊、自分以外の者に対しては受け入れない。違っているのが許せない。自分と同じでなければ納得できない。正直、自分自身が可愛いのである。子どもの時からの環境や、人間関係での拘り方で大きく隔たってくる。大人に成長すれば、軌道修正は多難である。
いつも自分を高め、反省もし、学んでいくことをしていても、ふと感覚的にズレを感じてしまうこともある。正しいとか間違っているとかではなく、妙にかみ合わないことにぶつかる。空回りに陥る。自然に任せることの大切さと、自分を失わないでいることも得難い。私自身が、この先も試行錯誤であるのだから。
パソコンを始めると、膝に乗ってくる銀河。キーボードを打っている手元を覗き込んでいます。