恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

安倍政権が目指すのは「美しい国へ」などではない

2006年08月26日 | 国会・政党・選挙
■ 安倍氏「国家安保会議」設置に言及

 22日、自民党の総裁選に出馬予定者らが、自民党のブロック大会で発言を行ないました。
 その中で、最有力候補とされる安倍晋三氏は、首相直属の「国家安全保障会議」(以下、『安保会議』)(米国のNSCの日本版)の設置について言及しました。
 安倍氏は、具体的な政権構想を小出しにしていますが、彼の意図するものとは、一体何でしょうか。

■ 崩される「文民統制」

 この「安保会議」設置は、「外交・安保分野での官邸主導の政策決定のため」だということです。
 では、外務省はどうなるのでしょうか。いや、それより「国権の最高機関」である国会はどうなるのでしょうか。
 気になるのは、その「安保会議」の構成員です。安倍氏によれば、首相・外相、防衛庁長官らのほか、「統合幕僚長」が加わるということです。
 ほとんどの閣僚を排除した、外交・安保分野での政策決定機関に、制服組を参加させようというのです。それは「文民統制(シビリアン・コントロール)」の崩壊を意味します。
 国会を無視し、内閣をも形骸化させ、ごく少数の、しかも首相が恣意的に選ぶメンバーだけで外交・安保政策の政策決定を行なうという、まるで「軍事独裁政権」ではないでしょうか。

■ 国家レベルでの「日米軍事一体化」

 また安倍氏は、「安保会議」設置の理由に「外交・安全保障の基盤は日米同盟」「日米の政務レベルでの対話を、ホワイトハウスと官邸の間で行なえる仕組みが必要」と唱えました。
 米国のNSCがあり、それに対応できるように日本にも同様の機関をつくりたいというのです。
 彼の言う「政務レベル」とは、何でしょうか。
 先の「米軍再編協議」を思い出して頂きたいと思います。
 例えば、「陸」では、米陸軍第一軍団司令部をキャンプ座間に移転させ、陸上自衛隊に設置する中央即応集団の司令部を、同じキャンプ座間に同居させるということが盛り込まれました。
 これに象徴されるように、協議のメイン・テーマは、米軍と自衛隊の司令部機能の同居・共有と、それによる日米の指揮命令系統の一本化、すなわち「日米軍事一体化」「米軍による自衛隊併合」でした。
 これを、軍団・部隊レベルではなく、日米両政府の「国家レベル」にまで引き上げようとするのが、今回の「安保会議」構想ではないでしょうか。
 しかも、その地理的範囲は、米陸軍第一軍団司令部の管轄が北東アジア・東南アジアから中東にまで及ぶ、ということからも「全世界規模」だということは明らかです。
 「安保会議」は、アフガン・イラクどころか、米国が起こす戦争に日本が国家レベルで「とことんまでお付き合いする」ための機関だと言わざるを得ません。
 こうした自衛隊の海外派遣について、安倍氏は25日、講演で「恒久的な法律が必要」「恒久法を作ることで機動的な対応も可能」と述べ、米国に言われれば直ちに部隊を派遣できる態勢づくりを急ぐ考えを示しています。

■ 米国のための「新憲法制定」

 このような「集団的自衛権行使」は、憲法で禁じられています。
 安倍氏は、これについて安倍氏は「新たな憲法の制定を政治スケジュールにのせるためのリーダーシップを発揮する」と語りました。
 注目すべきは、現行憲法に則った「憲法改正」ではなく、「新憲法制定」だという理屈です。これは現行の憲法そのものを破棄する行為です。
 憲法には、天皇・摂政以下、国務大臣や国会議員、裁判官、その他の公務員に至るまで、「憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定められています。
 「改正」ではなく、「破棄」「新憲法制定」だというのであれば、それは「クーデター」に他なりません。
 憲法は、国民の立場から、国家権力を縛るためにあります。だからこそ、前文において「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうに」と規定しているのです。
 戦争は「政府が起こすもの」です。そして、その「惨禍」は国民が被るというのは、全ての歴史が語るところです。そのようなことが、再び起こることがないないように、と定めたのが、現在の憲法です。
 安倍氏の「安保会議」設置と、それを許容する「新憲法制定」の方針は、そうした60年前の国民や、現在の私たち国民の決意を踏みにじり、米国の戦争に加担するためのものに他なりません。

■ 米国に差し出される「子どもたちの命」

 そのような事態に、私たち国民はどうなっていくのでしょうか。
 安倍氏は「教育改革の推進」を掲げました。その中心に置かれるのは「国を愛する教育」「公意識の育成」です。
 教育基本法改定に熱心な安倍氏が目ざすのは、「子どもたちのための、子どもたち一人一人が尊重される教育」ではなく、「国家のための、子どもたち一人一人が自ら命を投げ出すための教育」です。
 彼が、子どもたちに植え付けたいのは「子どもたち一人一人」よりも「公」や「国」です。
 学校の先生が「お前たち一人一人の命より大事なのは、日本という国だ。」「国のために命を投げ出す、立派な日本人になれ。」と、皆様のお子さん・お孫さんに叩き込み始めたら、皆様はどう思われるでしょうか。
 そして、その「国」が、日本ではなく、米国の戦争に「尖兵」として差し出されているとしたら…。

■ 「大本営発表」

 その点、安倍氏は周到なようです。子どもたちだけでなく、親たちを「騙す」方策も考えています。
 安倍氏の22日の発言によれば、広報・メディア戦略のための「内閣広報官」の設置も検討しています。 
 そう言えば、自民党の「新憲法草案」に「新しい権利」が盛り込むというのが唯一の「目玉」ですが、そこに「知る権利」はあっても「報道の自由」はありません。
 放送法という法律では、「放送番組は…何人からも干渉され、又は規律されることがない。」(第3条)と定められ、放送事業者は番組の編集にあたって「政治的に公平であること」(第3条の2)が義務づけられていますが、自民党は2年前からこの条項を改定・削除しようと検討してきました。
 これは翌年の「NHK番組改変問題」で下火になりましたが、その事件で取り沙汰されたのは、安倍氏本人です。
 放送事業は、5年ごとに更新する「免許制」です。この「免許」に関しては総務省、すなわち政府が権限を握っています。
 もし放送法から前述の規定が消えれば、「番組改変」どころか、政府に「免許」を剥奪され、放送そのものができなくなってしまう事態をも招きかねません。
 こうしたことを考えれば、安倍氏の「内閣広報官」設置の真意は、政府による「報道管制」にあるのではないでしょうか。
 政府にとって都合の悪いことは一切明らかにせず、都合の良いことだけを並べ立て、政府を「美化」「粉飾」するための機関です。
 安倍氏の唱える「内閣広報官」について、つい「大本営発表」を思い出してしまうのは、私だけではないと思います。
 構成や機能を考えれば、「安部内閣」や「安保会議」自体が、「大本営」ではないのか、と思えてなりません。
 
■ 「…国へ」

 先日、私は書店に行きました。
 その書店では、ベストセラーのコーナーに、「美しい国へ」という安倍氏が書いた(とされる)本が、上位に置いてありました。
 これまで書いてきたことを総合してみると、「安倍政権」で作られていく日本が「美しい国へ」向かうとは、とても思えません。
 国民に対する姿勢を見れば「恐ろしい国へ」、米国に対する姿勢を見れば「情けない国へ」という表現が当てはまるように思います。
 そして、将来の国民は、再び「恥ずかしい国へ」加速していったときだったと、この時代を振り返るのかもしれません。
 この、「恐ろしく、情けなく、恥ずかしい国」づくりのために、安倍氏は9月1日、正式に総裁選への出馬を表明するとしています。その舞台となるのが、広島だということです。

 その広島では今月6日、秋葉忠利市長が「平和宣言」で、こう語りました。
「日本国政府には、被爆者や市民の代弁者として、…『世界に誇るべき平和憲法を遵守』し、…人間本位の温かい援護策を充実するよう求めます。」
 
 この広島の「平和な国へ」「平和な世界へ」という、切実な願いについて理解を求めることは、安倍氏にとって、それほど「酷なこと」なのでしょうか。

 そう言えば、小泉政権発足当初、「日本の核武装」を正当化する発言が相次ぎました。その一人が、当時の安倍晋三官房副長官だったことも思い出されます。