恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

日本の教育の歴史に見る「教育基本法」の意義

2006年05月24日 | 教育基本法・教科書
 24日、衆議院の教育基本法に関する特別委員会が開かれ、既に提出されている与党の教育基本法改定案が実質的に審議に入りました。
 なぜ今、教育基本法を変えなければならないのか、という議論がないまま、審議入りまで進んでしまったことを非常に残念に思います。
 私は今回、日本の教育の歴史を振り返りながら、現行の教育基本法の意義を考えてみたいと思います。

■ 「被仰出書」の時代

 教育行政の始まりは、明治初期にさかのぼります。
 1871年、文部省が作られました。翌72年には「学制」の公布によって大・中・小学校が作られ、義務教育が始まります。
 このとき、教育・学問の目的は、理念を記した「被仰出書(おおせいだされしょ)」に「国民各自が身を立て、智をひらき、産をつくるためのもの」とされました。
 教育を受ける「国民各自」、すなわち子どもたち一人ひとりのための教育が、近代日本の教育の原点だったのです。このとき特に、識字率を高めるなど基礎的教養のための小学校教育に力を入れる「国民皆学」のほか「男女共学」などが定められました。

 「学制」自体は、学校の設立を自治体に丸投げしたり、決して少額とは言えない授業料を徴収があったり、と問題点が多くあり、見直されていくのですが、「被仰出書」の教育理念は評価できるものだと思います。

■ 「教育勅語」の時代

 しかし、その教育理念は次第に歪められていきました。
 1872年の「徴兵告諭」に始まり、翌73年の「徴兵令」、非公式ながら74年の「征台の役」、近代初の公式海外軍事行動である75年の「江華島事件」など、軍事面での動きが急激に加速します。
 その後、軍が強化・整備されていく中、82年には「軍人勅諭」が作られました。徴兵でかき集めた人々に対して「軍人としての心得」を説き、「天皇への絶対的な忠誠心」「天皇の統帥権(軍隊指揮権)の歴史的正当性」を叩き込むためのものです。

 しかし、これを大人になってから、軍隊に入れてからだけでなく、基礎的部分を幼い頃から全ての国民に叩き込んでおこうと、8年後の1890年「教育勅語」が作られます。
 「何かあれば国に義勇をささげ、天皇陛下をお助けせよ」という教えが、教育の中心に置かれ、子どもたち一人ひとりのための教育ではなく、「愛国心」「忠誠心」を教え、そして将来、「義勇をささげる」つまり軍務につくための基礎を作ることに力が注がれました。
 その後、1903年に教科書が国定化されたことで、ますます政府が子どもたちの「心」に踏み込むこととなり、以後その軍国主義的な内容に強化しながら、1945年の敗戦まで、こうした教育が続けられました。

■ 「教育基本法」の時代

 敗戦後、日本は「教育の民主化」を行なうべく、教育基本法を定めました。
 この教育基本法が定める教育理念は、「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」となっています。
 また、第10条の教育行政のあり方について、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と定めましたが、これは敗戦までの国家の教育の不当な支配を反省し、政府や権力者のためではなく、子も親も含めた国民全体のためのものであると規定したのです。
 子どもたちは、教育の「権利主体」すなわち主人公となり、政府はその環境整備を行なうという役割を担うこととなり、「教育勅語」の下で行なわれたような「不当な支配」から、子どもたちは解放されたのです。
 現行の教育基本法が戦後の占領下で制定されたことを、教育基本法の批判材料とする人々が多くいますが、こうして見てみると、「被仰出書」の理念であった、子どもたち一人ひとりのための教育を取り戻したに過ぎないと言えるのではないでしょうか。

■ 「教育基本法」改定案

 いま、この教育基本法が危機に瀕しています。
 与党・民主党とも、子どもたちに再び「愛国的態度」あるいは「愛国心」を求めています。
 子どもたちの、自由で自発的な愛着ではなく、政府が定義した人為的な「心」を、公教育の現場で子どもたちに叩き込もうとしているのです。
 「教育勅語」の時代と似ているのは、それだけではありません。
 自衛隊の海外派遣、米軍再編による日米軍事一体化が進められ、防衛「省」昇格法案も間もなく提出されるという、軍事面の強化という背景を見逃すことはできません。
 さらには、改憲の策動と相前後して行なわれている点、また教科書検定に際しての政府見解の偏重など、共通点が多くあります。

 「戦争に駆り立てるための改正」との批判に対し、小泉首相は特別委員会で「誤解というより曲解」と断じたそうですが、私は小泉首相の言葉を鵜呑みにすることはできません。

 国家のための教育への逆行を許さず、子どもたち一人ひとりのための教育を守り、実現していくために、絶対に教育基本法を、与党案や民主党案のように変えさせてはならない、それが歴史的見地からの私の強い思いです。

自公民3党による教育基本法「改悪」

2006年05月16日 | 教育基本法・教科書
 「愛国心」教育導入などを盛り込んだ教育基本法改定案は16日、趣旨説明と質疑が行なわれ、審議に入りました。

■ 政府案よりひどい民主党の「対案」

 この法案の焦点であり、最大の問題点は、「法律によって、政府が子どもたちの心に踏み込もうとしていること」にあります。
 民主党は与党案への「対案」を、昨15日に正式決定し、近く国会に提出するとしていますが、焦点の「愛国心」の表現では、「国や郷土を愛する…態度」とする与党案よりも、さらに踏み込んだ「日本を愛する心」とするなど、どちらも「改悪」案であると言わざるを得ません。
 15日の民主党の会議(教育基本法問題調査会総会)でも、「愛国心」教育について、「強制ではないことを明記すべきだ。」「政府の解釈や運用によって将来的に押し付けとなる懸念が残る。」という意見が出されましたが、取りまとめ役の西岡武夫参議院議員は、「理念として前文に書いたので強制される恐れはない。」とし、原案のまま決めてしまいました。
 私は、これを聞いて驚きました。「前文に書けば強制されない」というのは一体、何の根拠があって言っているのでしょうか。

■ 根拠を与えればエスカレートは避けられない

 現実問題として、いま既に「小学校学習指導要領」には、「我が国の文化と伝統に親しみ,国を愛する心をもつ」、「中学校学習指導要領」には、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に努める」という文言が、法的根拠がないにもかかわらず、盛り込まれているのです。
 政府がこのような教育の強化を「ごり押し」しようとしているこの状況下で、前文であろうと、条文であろうと、根拠を与えてしまえば、子どもたちの心に政府が踏み込んでいくことを助長するだけですし、ますますエスカレートしていくことは避けられません。
 さらに、学校で「愛国心」が評価や競争の対象にされ、成績や内申書、進路に影響するとなれば、それはもはや「強制」です。

 このようなことを、西岡氏のような大ベテランが気付かないとは到底思えませんし、いくら民主党といえども、そこまで「素人」ではありません。まず間違いなく、全てを分かった上での「確信犯」と考えて良いでしょう。

■ 民主党の「対案」の狙い

 ではなぜ、このようなことを民主党はするのでしょうか。
 「民主党は、もともと自民党と同じ」と言ってしまえばそれまでですが、他にも、教育基本法改定を望む経済界や米国、そして保守系メディア・論者の機嫌を取って目立ちたいという、ポピュリズム的発想もあるでしょうし、「武力行使」を容認する上で、結局はそれを実際に行なう国民を作る、すなわち「子どもたちに銃を取らせる教育」を必要とした、という実態もあるでしょう。どれとは特定できませんが、こうした様々な思惑が入り混じったものが、民主党の「対案」の実態だと思います。

 しかしそこに、本当に考えるべきはずの「子どもたちの将来」はあるのでしょうか。
 私は、ないと思います。もしあれば、「対案」と称して政府案に迎合するようなものを作るような、愚かな行為はしないと思います。

 このような政党や議員に振り回されようとしている、現在・将来の子どもたちが哀れに思えてなりません。

■子どもたちの心は、子どもたちのもの

 冒頭、私は「法律によって、政府が子どもたちの心に踏み込もうとしていること」が問題だと書きましたが、自民・公明・民主3党、これだけの巨大勢力が、「対立」を演じながら、実は同じ方向へ教育を捻じ曲げようとしているという、現代版「大政翼賛会」の姿に、怒りを禁じ得ません。

 こうした3党の動きに対し、他の国会内勢力では、共産党は「教育基本法改悪に反対するアピール」を発表し、闘争本部を立ち上げています。また、社民党も「広範な諸勢力と連携し、廃案に向け全力を挙げる。」としています。

 子どもたちの心が、子どもたちのものであり続けられるよう、私も広範な連携を強めながら、教育基本法の改悪に反対していきたいと思います。

なぜ教育基本法「改悪」を急ぐのか

2006年05月12日 | 教育基本法・教科書
■ 特別委員会設置

 11日、衆議院では、教育基本法を改定するため特別委員会が設けられました。
 昨年の郵政民営化特別委員会のように、強行的な審議日程を組み、教育基本法を早く変えてしまいたいという考えによるものです。
 各国会議員の事務所をまわり、この法案への反対を求める要請を行なった、ある団体から話を聞いたところ、自民党議員の事務所の反応は「今が変えどきだ」の一点張りだったそうです。
 この教育基本法という子どもたちにとって重要な法律を、なぜ「変えどき」という「時機」を持ち出して急ぐのでしょうか。
 私は、その理由は二つあると思います。

■ 大型選挙が近づかないうちに

 一つは「選挙日程」です。
 昨年は各地の合併選挙が行われ、また総選挙がありました。その影響で今年は、ごくわずかしか選挙がありません。今後は、来年の春に統一自治体選挙、夏に参議院議員選挙が行われますが、そこまで大きな選挙は行われません。
 与党側の思いは、早めに教育基本法を片付け、できるだけ国民の記憶から消し去っておかないと、次の大型選挙への影響が心配だということです。それほど、この内容が、「国民の反発を買う」ことを彼ら自身がよく分かっているということではないでしょうか。

■ スポーツでナショナリズムを高揚

 もう一つは、政治以外の「外的要因」にあります。
 与党側は、明らかにこの作業を急いでいました。国会は1月に召集されましたが、それ以前から与党側が、この国会会期中に成立を目指す、と息巻いていたのが、この改定案でした。
 この国会は、国会とは無関係な別の要因である、スポーツを利用することができる会期だったのです。
 冬にはトリノ五輪があり、春にはWBC(ワールドベースボールクラシック)が行なわれました。この後、ドイツでサッカーのワールドカップが行なわれます。ナショナリズムを煽り立てるには絶好のチャンスだというわけです。
 ナチスが1936年のベルリン五輪をプロパガンダに利用したのと同じやり方です。
 近年では中国の重慶で行なわれたサッカーの試合で、中国人サポーターが暴れた際、「政治とスポーツは別だ」と言っていた政府が、今度は敢えて、スポーツ大会でナショナリズムが盛り上がっている内に、ナショナリズムを強制する法案を通してしまおうというのですから、あまりに姑息、かつ卑劣です。
 逆に、そうした雰囲気の中ではないと、国民にとって到底受け入れられないものだということを証明しているようなものではないでしょうか。。

■ 政府の「変えどき」は国民にとっての「正念場」

 選挙から遠ざけたい、スポーツの国際大会でナショナリズムを喚起したい、その「時機」として最適なのが、今国会だということです。
 政府・与党が「変えどき」だと言うのであれば、私たち国民にとっては「踏ん張りどころ」「正念場」です。
 彼らが目論む「国家のための教育」ではなく「子どもたちのための教育」を守り抜きたい、そのためにも教育基本法改悪を許してはならないと強く思います。

教育基本法改悪「推進本部」の思惑

2006年05月09日 | 教育基本法・教科書
■ 文部科学省挙げての「推進本部」

 教育基本法改定を進めようとする文部科学省は8日、省内に「教育基本法改正推進本部」を設置し、初会合を開きました。
 この推進本部は小坂文部科学大臣を本部長とし、副大臣・政務官・事務次官を、本部長代理・副本部長・事務局長に置き、省内のすべての局長・次長が組み込まれています。さらにこの推進本部の下に、ほぼ全職員を配置するプロジェクトチームを置くという、正に省を挙げての異例の徹底ぶりです。

 当然この推進本部は、子どもたちに「愛国心」を求め、それを「態度」で示すことを強制しようとする与党の要請で設置かれたものでしょうが、では、これほどまでに強力な体制をつくり、文部科学省は何をしようというのでしょうか。
 報道によれば、この教育基本法改定案の成立に向け、法案の広報活動、国会対応にあたることだというのです。
 
■ 立法に対する、行政の「介入」

 まず私は、この設置に疑問を持たない国会議員がいるとすれば、その方には直ちに「議員辞職して頂きたい」と思います。

 立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所にあります。言うまでもなく、民主主義国家である大前提としての「三権分立」です。
 国会と行政の関係で言えば、主権者から選挙で選ばれた議員で構成され「国権の最高機関」である国会が法律を作り、その法律を執行することが、
 もちろん、内閣の各省が法案を起案することがほとんどですが、法案が閣議決定を経て国会に提出されてからの法案の審議の仕方は、あくまで国会の主導によって行われます。内閣提出法案について、内閣は国会に対し、審議を「お願い」する立場にあります。趣旨説明してから後は、立法権を持つ国会の領域だからです。
 それを、内閣所属の一行政機関、そして「官僚集団」である文部科学省が、日常業務「そっちのけ」で全省挙げての推進本部を立ち上げ、法案の成立に向けて動き出すとなれば、正に「行政」による「立法」への「介入」です。
 しかもまだ審議にも入っていない法案について、その成立を図る「初会合」の開催を、あらかじめメディアに流し、カメラや記者を招き入れて開くことに極めて意図的なものを感じざるを得ません。
 こうした意図的な「介入」を、疑問に思わない議員がいるとすれば、その方は自分が受けた主権者の負託に耐えうる人物とは言えません。私がこのような方に「議員辞職して頂きたい」と思う所以です。

■ 敢えて文部科学官僚が「介入」を行う理由

 もちろん、このようなことは文部科学省の官僚たちも十分、認識しているはずです。
 国会開会中は普段、質問の通告を受けて、大臣らの答弁原稿を作る官僚たちが、「広報活動」すなわち「一大キャンペーン」を打とうというのですから、仕事も増えますし、違和感を感じていることでしょう。
 しかし、彼らにあるのは違和感だけではないでしょう。仕事が増えれば、予算がつきます。予算といっても元は税金ですが、予算があれば権限が増します。そして業者とのコネを深め、「天下り」先の確保が可能になります。しかし、「天下り」できるのはごく一部のベテランの官僚に限られます。ところが、それ以外の官僚のメリットは別にいくらでも広がっているのです。

 まず、「与党へのコネ」です。官僚出身の政治家で多いのは、財務(旧大蔵)を筆頭に、他に経済産業(旧通産)・総務(旧自治)・国土交通(旧建設・運輸)などは目に付きますが、文部科学省出身の政治家はごく僅かです。実は「キャリア組」で文部科学省は権限が少ないため人気がなく、人材も集まらないと言われています。
 しかし今回のように、自民党が異常に力を入れる法案で、力を尽くせば何か期待できるのではないか、と期待するのも無理はありません。
 政治家にならなくても、先ほどの「天下り」に手が届くようになるためには、出世競争に勝たねばなりません。その足がかりとするには、若き官僚には絶好の機会なのです。
 
 そして、最も彼らにとって魅力的なものは、法案の内容そのものに潜んでいます。
 私は、教育基本法改定案を「改悪」案と呼びますが、その最大の理由は、「国家・政府中心の教育を子どもたちに強制すること」に主眼を置いているからです。一見不思議に思えるかもしれませんが、彼ら文部科学官僚たちも、「国家・政府」側の人々なのです。
 しかも、彼ら官僚は「政治家以上に国家主義的」な存在だと言えるのです。
 彼らの上司である大臣・副大臣、そしてさらに上の首相は、数ヶ月~数年で代わります。しかし、彼らは何十年も、その道のスペシャリストとして、「国家」の中枢に居座り続けます。
 「国家・政府」側に権限を集中させることは、彼らにとって大いに歓迎すべきことであり、そのための労力は惜しまないのです。
 先ほど「文部科学省は権限が少ない」と書きましたが、「権限」すなわち「許認可権」も恒常的に生まれます。これほど文部科学省という官僚組織にとってありがたい話は、早々あるものではないのです。

■ 「教育」は、国家や官僚のためにあるのではない

 今回の法案が、与党や文部科学省にとって、どれほど強く願うものであるかは、これまで述べてきた通りです。しかし、私たち国民や、とりわけ「教育の権利主体」である子どもたちにとっては、どうでしょうか。
 国民にとっては、自分たちに対する「強制権」を持つ法律が、自分たちが選挙で選んだ議員による「審議」ではなく、官僚たちが行う「キャンペーン」によって作られていくことを見過ごすことは、自分たちの首を絞める行為でしかありません。
 そして、このような思惑によって、子どもたちの受ける教育が、子どもたちのための教育ではなく、「国家・政府」のための教育に変えられてしまうならば、子どもたちにとって、これほど不幸なことはありません。

 しかし今、ほとんどの子どもたちは、これに異を唱えることができません。こうした本質を知らないからです。
 だからこそ私たち「現在の大人」が、子どもたちに代わって叫ばなければならないと思うのです。

 現行の教育基本法の本質は、「教育は子どもたち一人一人のためにある。」です。
 私は、この当然の真理を守り抜くことこそ、「現在の大人」の使命であると思います。

「子どもたちのための教育」を守ろう

2006年04月28日 | 教育基本法・教科書
 今日28日、教育基本法の改定案が午前に閣議決定され、午後には国会に提出されます。
 私は、この改定案の問題点の一部をご紹介し、今の政府・与党が、私たちの子どもたち・孫たち、そしてまだ生まれていない「将来の国民」に、何をさせようとしているのかをご理解いただきたいと思います。

■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ

 「国民全体」は子どもたちを含みます。もちろん親も含みます。
 子・親、そのどちらにもなったことがない人はいないと思います。
 現行の教育基本法は、教育というものを、そのどちらに対しても直接に責任を負うものと定めています。つまり、責任をもって「子どもたちのため」かつ「親たちのため」の教育を行うことを掲げているのです。
 今こうした教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えられようとしています。
 では、その「法律の定めるところ」の教育、とはどのようなものなのでしょうか。

■ 「伝統と文化を尊重し、・・・我が国と郷土を愛する」

 国や郷土は「当たり前」だ、という主張がありました。「当たり前」であれば自由で自発的な意思に任せておけば良いのです。
 しかしこれを敢えて条文化することには特別な意味があります。
 学校で「国を愛する」ことが求められ、子どもたちの「心」に権力が踏み込もうというのです。
 学校で「どの子が、どれだけ愛国的か」が評価・競争の対象となり、画一的な「国への愛」つまり「忠誠」が子どもたちの間で比べられます。
 しかも、子どもたちには、その「忠誠」を「態度」で示すことが求められます。
 これをはじめ、改悪案を見渡してみると、子どもたちの「心」に踏み込もうとする部分が20箇所以上もあります。
 それほど本腰を入れて子どもたちの「心」を支配しようとしているのです。

■ 「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 一見、「愛国心」は排他的ではない、他国への尊重とバランスを取った、と見える表現です。
 戦前も「修身」で「他の国家や民族を軽んずるやうなことをしてはならぬ。」と教えていましたが、実際には「他の国家や民族」に何をしていったか、ご存知の通りです。
 ただし、この規定の設置についての、政府・与党、とりわけ自民党の思惑は、もっと別のところにあります。

 近年の外交政策はどのようなものだったか思い出して下さい。
 「日米関係がうまく行けば全ての国との関係がうまく行く」と小泉首相は言い続けました。
 確かに米国との関係はある程度うまく行っているのかもしれませんが、その他の国とは最悪の状態です。
 また小泉首相は「国際貢献のため」と言って、自衛隊をインド洋やイラクに派遣しましたが、それは米軍のアフガン戦争の後方支援や、イラク占領政策のための派遣に過ぎませんでした。
 つまり、彼らが言う「他国」とは、ほぼ米国に限定されたものと言って良いでしょう。
 彼らが推し進めようとする憲法改悪案は、「集団的自衛権」、つまり「他国(米国)との共同作戦権」の行使に主眼が置かれています。
 彼らは、「政府のため」だけでなく「米国のために寄与する態度」も、子どもたちに求めようとしているのです。

■ 現行「真理と平和を希求し」から「真理と正義を希求し」へ

 一見「平和」を「正義」に置き換えただけに見えるかもしれません。
 しかし、この違いはとても大きなものです。
 3年ほど前、米国や英国、日本などでは、イラクを攻撃することを首脳が「テロとの戦い」と呼ぶと同時に「正義の戦い」と呼びました。
 日本でも多くの人々が、その「正義」にだまされましたが、真実が明らかになるにつれ、その「正義」を本気で信じる人々は、かなり減りました。「真理」は別のところにあったのです。
 しかし、ブッシュ大統領やブレア首相、そして小泉首相らが唱えた「正義」によって、「平和」が壊され、計り知れない命が失われたのは、紛れもない事実です。
 歴史上のあらゆる侵略戦争は、例外なく「正義」を唱え、国民を駆り立てていきました。

 この法案を推進する人々は、「正義」とさえ言えば、進んで自他の「平和」を捨て、破壊することを求める子どもたちを作ろうとしているのです。

■ 「個人の価値をたつとび」から、「公共の精神を尊び」へ

 「個人の価値」は、「子どもたち一人一人の価値」です。
 子どもたちはもちろん国民には、憲法によって「生命権」をはじめ数十の権利・自由が一人一人に保障されています。
 判例などで派生して認められている権利も含めれば、より多くの権利・自由が約束されています。
 しかし政府・与党、とりわけ自民党は、その憲法改悪案で、このような権利・自由の全てを「公益」「公共」の下に置いて、まとめて制限してしまおうとしています。

 「公益」「公共」は誰が決めるのでしょうか。それは政府です。
 彼らが教育現場に求めているのは「君たちの価値、命や権利・自由はどうでもいい。それより政府の利益のための精神を大切にしろ」という教えです。

■ 教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」

 一見、問題がないような文言ですが、現行法では「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」という義務が、これに書き換えようというのです。
 「公正」「適正」という曖昧な基準は、誰が決めるのでしょうか。これも政府です。
 これまで「子どもたちのための教育」の条件を整備するという義務が、国や自治体に課せられていたのが、「政府が決める基準の達成」の義務に変えられようとしているのです。
 では、「政府が決める基準」とは何でしょう。
 これまで書いてきた、「子どもたちが、国家・政府、そして米国を大切に思い、正義への寄与のために、自分の命や権利を進んで投げ出す教育」に他なりません。
 このような教育を行うことが、都道府県・市区町村にまで義務化されようとしているのです。

■ 「国は、…教育に関する施策を策定し、実施」

 冒頭、ご紹介したように、今まで教育は、まがりなりにも「国民全体」すなわち「子どもたちのため」でもあり、「親たちのため」でもあるものとして行われてきました。
 しかし、これからは「国」が教育に関する「施策」の策定、そして「実施」と介入してくることになるのです。
 それがどういう教育か、それは言うまでもなく、これまで書いてきたような「国のため」の教育、つまり「国家主義教育」です。
 しかも今度は、この法律(法案)の「お墨付き」を得て「国」が、教育姿勢や、その具体的な内容、教え方にまで「公然と介入してくる」ということを意味しています。

 条文に残されることになった「不当な支配に屈すること」がない、という規定は、そもそも教育内容を、国家や権力による「不当な支配」から守ることを意味していましたが、以後は国の「支配」に対して、国民が口を出すことを禁じる規定に変えられていこうとしているのです。
 これは、たとえ親でも、国が、自分の子どもたちに対して教えることに、何も言えなくなる、ということを意味しているのです。
 しかも、それは学校だけにとどまりません。
 
■ 「家庭教育」の新設

 現行の教育基本法は、国民の負託を受けた教育に関して、その条件整備など国がしなければならいことを定めたものです。これは、子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するために設けられた法律です。
 しかし、今回の改定案は、国が、子・親を問わず国民の上に立って「こうしなさい」と命令するものです。
 国が踏み込もうとする、その領域は「家庭教育」にまで及んでいくことになるのです。

■ この改悪の可否が大きく左右する、子どもたちの「未来」

 この改悪が国会を通過すれば、戦後になって子どもたちが初めて手に入れた「自分たちのための教育」を受ける権利は再び奪われてしまいます。
 学校は「子どもたちのための教育」から、「国家権力のための教育」の場へと変えられてしまいますし、家庭での教育にまで国が干渉することになります。

 与党は、この改悪を特別委員会を設けて、連休明けから国会会期末までの約40日間で、一気に成立させてしまおうとしていますが、私はこのような教育を許す訳にはいきません。
 これからの数十日間は、現在・将来の子どもたちの「未来」を大きく左右するものとなります。
 私たちが守りたいと願う「子どもたちのための教育」か、政府・与党の権力者が求める「国家のための教育」か、という分岐点と言うことができるでしょう。

 どうか、一人でも多くの方々がともに「子どもたちのための教育」を守るため、改悪に反対する声を上げて下さいますよう、心からお願い致します。

教育基本法の改悪、「国家と国民」

2006年04月25日 | 教育基本法・教科書
■ 両与党が法案を了承

 「愛国心」教育などを盛り込んだ教育基本法「改悪」案は今日、自民・公明の両与党内の手続きを終えました。同法案は28日には閣議決定を経て、国会に提出される予定だと報じられています。
 与党内からは、今国会で成立させるため会期延長も辞さない考えが示されており、大変危険な状況にあると言わざるを得ません。
 私は、以前から書いてきた通り、この教育基本法の「改悪」には絶対に反対します。

■ 共謀罪との連動

 今日、私は「共謀罪」法案について書きました。
 国民に広範な規制をかけ、国家が国民を弾圧するための「共謀罪」も、私は反対していますが、「教育基本法改悪」と「共謀罪」、この2つは決して無関係ではありません。
 それを解く鍵は「国家と国民のあり方」です。

■ 子どもたちに忠誠を強要し、大人たちの口を封じる政府

 教育基本法「改悪」の本質は、子どもたちに、国家に対する絶対的忠誠を叩き込むことにあります。
 そして「共謀罪」は、国家を批判する大人たちの口を塞ぐため、犯罪も行なわれず、その準備行為も行なわれていないのに罪に問えるというものです。
 これまで主権者であったはずの国民は、この2法案によって「国家」に隷属する立場になってしまうのです。

■ すべてが「有事」へ

 もちろん連動しているのは、この2つだけではありません。
 こうして国民の目を多い、口を塞いだ後、行く先は、憲法9条改悪による「戦争する国」づくりに他なりません。自民党改憲案が、国民の自由・権利を「公益」や「公共の秩序」の下に置いていることも先の2つと強く結び付いています。
 さらに、現在の防衛費約5兆円の大半は、人件費と維持費です。戦争するようになれば、もっと金がかかります。その捻出のために社会保障を切下げ、次々と増税を進めようとしているのです。
 言ってみれば、すべてが「有事(戦時)体制」に繋がっていくと考えることもできるでしょう。

■ 今こそ「不断の努力」を

 このように国民から主権を奪い、軍事・国家主義体制を築こうとする政府・与党の策動を、黙って見過ごす訳にはいきません。
 憲法97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、…現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めています。
 また、憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と定めています。
 「将来の国民」に「永久の権利」であるはずの「基本的人権」を引き継ぐために、今こそ私たちが「不断の努力」を行なうべきときだと思います。

子どもたちの自由な「心」を守るために

2006年04月20日 | 教育基本法・教科書
■ 「心」にこだわる保守系議員

 自民・公明の両与党は14日に教育基本法の改定案で合意しましたが、この表記をめぐり、自民党内からは「表現が生ぬるい。」「より保守色な内容にすべきだ。」などの意見が相次いで出されています。
 また、昨日19日には、自民党だけでなく民主党や無所属の一部などの超党派議員らで作る議員連盟「日本会議国会議員懇談会」が総会を開き、「公明党に配慮し過ぎだ。」「養うべきは、『国を愛する態度』ではなく、あくまでも『心』だ。」などの強硬的な意見が相次いで出され、今後は国会議員の署名を集め、「愛国心」表記など3点について与党案の修正を求めていくことを決めました。

■ 子どもたちに何をさせたいのか

 与党案の「愛国心」表記は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」というものです。
 「愛する」という「心」の内面にまで踏み込んで、その態度すら強制されていくことが、いかに不当なものであるかは前回も書いた通りですが、「日本会議国会議員懇談会」は、これでもまだ不充分だというのです。
 これほどまでに、子どもたちの「心」に踏み込むことを求める彼らは、一体、子どもたちに何をさせたいのでしょうか。

■ 平沼会長、教育基本法と憲法の改定は「一体で推進」

 「日本会議国会議員懇談会」会長の平沼赳夫氏は、教育基本法改定について「自主憲法の制定と一体で推進」と掲げています。また、「自主憲法の制定」については、憲法9条を見直し「自衛のための戦力保持」を掲げています。しかも彼の言う「自衛権」とは、明確に他国と共同で戦争を行なう「集団的自衛権」を含むものです。
 要するに、戦争できるよう戦力(軍隊)を持ち、そのために憲法を改め、その軍に将来、身を投じるよう子どもたちに「愛国心」を植え付ける教育を施そう、ということです。

■ 彼らの求める「愛」の水準

 討論番組などを見ていると、「愛国心」教育について、推進派の人々から「愛国心というのは当り前の感情だ。」というような意見をにします。
 「当り前の感情」であれば、国家が余計な介入をせず、子どもたちに任せておくべきです。それをなぜ法律を改め、条文化し、公教育の場で子どもたちに押し付ける必要があるというのでしょうか。
 それは彼らの求める「愛」の水準が、「当り前」の領域である「好き」程度の感情では済まないからです。国家への絶対的忠誠と、進んで命を捨てる心を、幼い頃から徹底的に植え付けたいのです。

■ 「強制」から始まり「自発性」へ

 こうした教育基本法の改定について、「教育改革国民会議」などで強く「推進」の意見を述べてきた曽野綾子氏はこう語っています。

「教育は程度の差こそあれ、強制から始まって自発性を目覚めさせる。」

 これを、「愛国心」教育で考えたらどうなるでしょう。まず「愛する」ことを「強制」するところから始まることになります。
 いま、子どもたちは絶えず「競争」にさらされています。「愛国心」が評価の対象になれば、競って身につけようとすることも考えねばなりません。進学に影響することも考えられるでしょうし、勉強の苦手な子どもが「イジメ」に遭うように、年端も行かぬ子どもたちの間で「愛国心が足りない」という新たな「イジメ」が、生まれることも予想されます。

■ 「愛国心」の強制の実態

 私は以前、戦前の植民地教育の実態についての論文を読んだことがあります。
 植民地の人々が最初から、日本政府が望むような「愛国心」を持つわけがありません。むしろ日本が最初に植民地化した台湾では、先ほどの曽野氏の考え方と同じような手法が取られました。
 当時の台湾の子供たちは、まず殴られ、逆らえば殴られることを当然のことと受け取るよう教えられた上で、天皇への忠誠を誓わされ、徹底的に皇民化教育・軍国教育を叩き込まれた、というのです。
 子どもたちは、やがて慣らされ、そして大人になり、「日本国民」として戦争に駆り立てられていきました。特に、いわゆる「優等生」達は、進んで軍に身を投じ、命を投げ出して行きました。

 正に曽根氏の唱える「強制から始まって自発性を目覚めさせる」という教育の結果と言えると思いますが、一歩間違えれば、こうした「被害」を子どもたちにもたらすことを忘れてはなりません。

■ 子どもたちの「心」への強制を許さない

 「愛国心」に限らず、すべての「心」は、自由な感情から生まれるもので、政府から強制されるものであってはならないと思います。
 子どもたちの「愛する」という「心」に、政府が法律を楯に、踏み込んでいこうとする今の教育基本法の改悪は、与党案、議員連盟案ともに、絶対に許せるものではありません。
 私は、子どもたちの自由な「心」を守るために、教育基本法「改悪」反対の声を上げ続けます。

教育基本法の改悪に反対する

2006年04月13日 | 教育基本法・教科書
■ 与党「愛国心」表現方法で一致

 自民・公明の両与党は12日、教育基本法の改定案に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度」という表記を盛り込むことで一致しました。
 政府・与党はこれを受け、改定法案の今国会への提出を急ぐと報じられていますが、私はこのような改定に全面的に反対します。

■ 国家が子どもたちの「心」に踏み込む

 まず、これまで行なわれてきた議論を振り返ってみますと、自民党は「国を愛する心」を主張し、これに対し公明党は「国のために死ね、とか、統治機構を愛せ、とかは言えない。」として、「国を大切にする心」を主張してきました。
 しかし、これはどちらも「公教育の場で、国家が法律によって子供たちの『心』に踏み込む行為であり、許されない。」との批判を受けました。
 この批判は当然のことです。憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めており、幼少期から国家が子どもたちの「心」を統制する行為は許されるものではありません。

■ 「心」から「態度」で、本質が変わったのか

 今回、こうした批判をかわすため、与党は求めるものを「心」から「態度」へ変更しました。しかし、「心」はともかくとして、国を愛する「態度」は要求されるのですから、これは大きくその本質を変えるものではありません。「私は国を愛し、国のために戦います。」という言葉を学校で求められれば、心の中に抵抗感があっても、それを口に出して言う「態度」は強要されていくのです。
 「愛する」の部分が既に「心」のあり方の問題であり、しかもそれを子どもたちは実際に「態度」で示さなければならないのです。これでは、何も変わっていないのではないでしょうか。

■ 「統治機構」は含まないと言うが

 また、この表現に使われる「国」の意味として、与党は「(政府など」統治機構は含まない。」としていますが、実際の運用ではどうなるか分かったものではありません。
 99年の国旗国歌法制定時も、政府は強制を否定していましたが、実際には教育現場で起立・敬礼が強制され、それに従わなかった200名余りの教職員が処分を受けています。
 今度は、法律が「国を愛する態度」を子どもたちに求めるのであれば、子どもたちがこの強制の対象になり、それに従わない子供たちが処分の対象になるという危険性も考えなければなりません。
 実際、最近の教科書検定では、首相をはじめ大臣の答弁や政府見解と異なる記述は全く認められませず、結果として、政府という「統治機構」の考えが色濃く反映された教科書になってしまっています。

■ 教育は国家のためか、子どもたちのためか

 子どもたちに対してこのようなことを課そうとする与党の目的は一体何なのでしょうか。それを探るためには、「教育権」の歴史をたどる必要があります。
 先の大戦まで、国家は公権力が学問の内容にまで介入し、徹底した教育の統制を行なってきました。このとき「教育を行なう権利」は国家にありました。国家が国家のために子どもたちに叩き込むその内容は、天皇への絶対的忠誠、そして「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」すなわち、何かあれば天皇をお助けするために命を投げ出すことを迫る教育勅語を中心とするものでした。
 しかし戦後、進められた「教育の民主化」により、現行の日本国憲法と教育基本法が制定され、国家から国民に「教育を行なう権利」を移し、とりわけ親に「子女に教育を受けさせる義務」を課すことによって、子どもたちに「教育を受ける権利」を保障したことは特筆すべきことです。
 これにより、子どもたちは「権利主体」となり、それまでの「国家」や「天皇」、「家」のためではなく、教育は子どもたち自身のために行なうべきものとなったのですが、それを今、与党は再び「国家が国家のために行なうもの」に戻そうとしているのです。

■ 「戦争する国」づくりとの連動

 こうした法改定を支持する発言もあります。「愛国心を教えることを否定する国など、日本以外にない。」とは読売の社説ですが、こうした主張は「愛国心」教育を必要とする国の大部分が軍隊を持ち、戦争に国民を動員しなくてはならない国だということを見逃しています。
 いま教育基本法を変えようとする根本的な理由は、正にそこにあるのではないでしょうか。
 一方で憲法を変えて「戦争する国」を作ろうとし、これと連動する形で教育基本法を変えて「戦争する人」を作ることこそ、この教育基本法改定の本質であり、これは国民にとって、特に子どもたちにとって「改悪」であると言わざるを得ません。
 現実に、既に制定された有事法、とりわけ武力攻撃事態国民保護法に基づき、有事、すなわち戦争状態を想定し、千葉県などで小学生をも動員した訓練が行なわれるなど、この「改悪」を先取りした意識付けが行なわれています。
 2002年には福岡市の小学校69校で、通知表の評価項目に「愛国心」を挙げ、子どもたちを競わせようとしました。

■ 「指導者」が「愛国心」を求めるとき

 「愛国心」と言うと私は、ナチスを裁いたニュルンベルグ裁判での、ヘルマン・ゲーリングの言葉を思い出します。有名な言葉ですので、ご存知の方も多いと思いますが、あらためて紹介します。

「もちろん国民は戦争を欲しない。…(中略)…普通の人間たちが戦争を望まないのはあたりまえだ。…(中略)…しかし、結局のところ、政策を決定するのは指導者なのであり、…(中略)…声を上げるか無言かに関わりなくつねに、国民を指導者の命令に服させることができる。容易なことだ。国民には、攻撃を受けていると言ってやり、平和工作者たちは“愛国心”が欠けていて国家を危険にさらしていると非難しさえすればいい。いかなる国でも同様に、これでうまくいく。」

 「9・11テロ」の後の米国の政権を見ても、現在の日本の政権を見ても、全く同じ手法が使われていることに、あらためて戦慄を覚えます。
 国民の自発的な感情ではなく、「指導者」の側が国民に求める「愛国心」とは正にこういうことなのです。

 ゲーリングは、「声を上げるか無言かに関わりなく」と言いましたが、しかし声を上げなければ何も変わりません。私は国民として、親として、声を上げ続けます。
 大切な子どもたちの命を黙って差し出すことなど、絶対に出来ません。

与党が「教育」に求めるもの

2006年03月30日 | 教育基本法・教科書
■ 教育基本法改定案「宗教的情操の涵養」は見送られたが

 自民・公明の両与党の「教育基本法改正検討会」は29日の会合で、教育基本法の改定案に、自民党が強く主張していた「宗教的情操の涵養」を盛り込まないことで一致しました。これは公明党の支持母体である創価学会に配慮したものとされているようですが、子供たちの「信教の自由」に対する介入を排除するものとして当然のことであり、これを盛り込もうとすること自体、始めから実に愚か過ぎる行為だと言わざるを得ません。
 さて問題は、両党が次回以後、いわゆる「愛国心」の表記について詰めの作業に入るとしていることです。これについて自民党が「国を愛する心」という表現を主張し、公明党は「国を大切にする心」という表現を主張し、意見が分かれています。
 では、そのような「愛国心」教育で、彼らは一体どのようなことを行おうとしているのでしょうか。
 私は、同じ29日に明らかになった高等学校用の教科書検定に付された検定意見に、その一端を見ることができると思います。

■ 政府の言うことは正しいと信じ込ませる

 今回の教科書検定で、文部省は「政府見解」に対する強い執着を見せました。とりわけ「靖国」「イラク」「領土」の問題では、それが顕著に表れています。
 例えば「靖国参拝」問題について、まず「公式参拝」は「参拝」に、一昨年の「福岡地裁による違憲判断」は「福岡地裁判決」に、と記述が改められました。
 また、「イラク戦争」について、米軍による「先制攻撃」という記述は認めませんでしたし、イラクへの自衛隊派遣について「非戦闘地域での後方支援活動」「多国籍軍への参加」という事実ではなく、「復興人道支援活動」と、政府が主張した「目的」だけを強調した記述になっています。
 「領土問題」については、竹島や尖閣諸島について、これまで検定を合格していた「(相手国と)交渉中」という表記は認められませんでした。
 これらは全て、政府や首相の主張を反映・踏襲したものでないと認めない、という政府の強い姿勢の現れです。少しでも政府の考えと異なるものや、政府に対する批判に繋がるものは一切排除しようというのです。
 つまり、子どもたちに「政府の言うことは全て正しい」と信じ込ませるための「教育」を行おうとしているのです。政府に対する批判を許さないどころか、批判しようと思うことすら許さない、これが与党が「教育」に求めるものであり、彼らが唱える「愛国心」教育の根幹です。

■ 子どもたちを「政府のロボット」にしてはならない

 しかし、政府がいつも正しいというとは限りません。逆に政府が間違いをおかすことは、よくあります。だからこそ三権分立があり、国会や裁判所のチェック機能があるのです。
 「政府の言うことは全て正しい」と信じ込ませることは、権力者にとっては都合の良いことでしょうが、子どもたちにとっては大変に恐ろしいことです。政府から与えられた情報をただ信じ、自分で価値判断をせず、政府の言うとおりに動く、これではロボットと変わりません。
 この教育基本法改定をめぐる協議の中で、公明党が以前、自民党に対して「『(国という)統治機構を愛せ』とか『国のために死ね』とかは言えない」と批判したことがありますが、これこそ正に「愛国心」教育の本質です。
 「ただ政府の主張を妄信し、『国のため』とさえ言えば喜んで命を差し出すロボット」私は、子どもたちをこんな風に育てたいとは思いません。
 子どもたちを、国家主義者たちに売り渡すわけにはいきません。私は、このような教育基本法改悪は断固として許すことは出来ませんし、教科書検定の姿勢には絶対に反対です。

都立高校「日の丸・君が代」に反対した元教員の告訴を検討

2004年03月16日 | 教育基本法・教科書
 東京都教育委員会は昨年、「国旗は舞台壇上正面に」「教職員は国旗に向かって起立し国歌を斉唱」などの通達を出し、従わない場合は処分するとしました。
 先週、都立高校の卒業式に来賓に招かれた元教員が、このような都教委の方針を批判した記事のコピーを開式15分前に配布し、自分の考えを訴えたことについて、学校側はこの元教員の刑事告訴(威力業務妨害)を検討しているそうです。

 卒業式を混乱させたのは良くないことですが、都教委が発した細かすぎる通達と厳罰主義での強制には疑問を抱かざるをえません。
 「国旗国歌法」には、国旗は日章旗、国歌の歌詞は「君が代は・・・」という定めしかありません。掲揚の方法・歌うときの姿勢などについて強制することは法的根拠が無く、「良心の自由」に委ねられるべきです。なぜ強制されなければならないのでしょうか。特に教育現場での強制は、戦前の軍国教育を彷彿とさせます。

 都教委の委員の任命権者は都知事です。右翼的思想から暴言を繰り返す石原慎太郎知事ですが、彼の「思想」が法を飛び越え、教育現場を蝕んでいるのです。